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     アニメ版 ベルサイユのばら 徹底解説>HOME

★アニメ後期★29話〜40話★


  ジャンヌや黒い騎士などの大きなイベントも済み、オスカルは衛兵隊に転属し、いよいよアニメ独自路線へと突入する。
中期にはジャンヌ・黒い騎士・フェルゼンとの別れ等、「ベルばら」として必須のエピソードが多かったが、後期は衛兵隊兵士たちとの交流やバスティーユまでの道のりまでをオリジナルのエピソードて展開している。
注目すべきはオリジナルキャラが数多く登場すること。
民衆の貧しさを弾き語るアコーディオンおじさん、平凡で内気な兵士ラサール、テロリストの仲間の頬傷男、等々。意欲的にキャラが増えているところを見ると、やはり原作とは違ったベルばらを作ろうという意志を感じる。

 一度最後までご覧になった方は、ラストで感じる気持ちがなぜか原作の時と違うことに気が付かれたのではないだろうか。
それがド感動なのか、虚しさなのか、違和感なのか、得体の知れない怒りなのか、説明がつかない。
言葉にならない!!それが後期なのである。

 フェルゼンとの別れも済み、オスカルとアンドレの前にもはや障害はない。これからは二人のヒルメロなのだ。
とかく二人は「好き同士」。ひかれあっている事が大前提で物語りは展開する。
問題はお子様も見ている時間帯で、どこまで恋愛関係を演出できるかである。
二人の見せる何げない仕草は、あのホタルシーンよりもエロチックかも知れない。
オスカルの性格も、中期と比べてもさらに落ち着いてきて寡黙になり(単に歳を取ったせいかもしれないけれど)、革命に至る歴史的なドラマも平行して描かれ、歴史の中でぶつかり合う人間像を劇的に演出してある。

 物語前半のドラマの進行役がオスカル・歴史の進行役がアントワネットとすれば、物語後半のドラマの進行役はアラン・歴史の進行役がロベスピエールと言えよう。
彼らのそれぞれ際立った活躍をご注目いただきたい。前期・後期の役者の交代がはっきり見て取れる。
ジャンヌ事件や黒い騎士事件を経て、視点は貴族から民衆へと移行した。そしてオスカルも激動の時代の中に生きる一人の人間として描かれ始めるのだ。

 原作を意識したであろう前期、そして原作に準じたエピソードを盛り込んだ中期に比べ、オスカルの独白(モノローグ)がほとんどないのも後期の特徴。
登場人物の心の動きは全て彼・彼女らの仕草で読みとらなければならない。
 えっ?原作のここのシーンではオスカルはこんな風に考えていたのに?と「原作の進行」のみを想像していて、アニメのオスカルに同調できなくなった原作ファンはいるはずだ。

実は私も本放送では、アニメのオスカルを理解できずちんぷんかんぷんのままだった。
ちょっと原作をヨコに置いておいて、アニメのオスカルは何を考えていたのかと想像を馳せてみれば見えてくるものはあるのだが、実際、原作のオスカルのまんまをアニメに期待していた者にとっては別のオスカル像を想像すること自体、難しい。
私も頭の中からアニメの存在を消していたものの、15年ほど経ってからたまたま見直したおかげで、運良くアニメを受け入れることが出来たと言える。でなければ忘れていたはず。
それほど、原作の登場は衝撃的で、当時受けたマーガレット読者のショックは大きい……と言うことで、原作論は別の方におまかせするとして本題に戻ろう。

 女の隊長なんて気に入らない、だが腕はめっぽう強い。何者なんだ?と言わんばかりのアラン。そんな彼の目を通して後半・オスカルの人間的な側面が語られるのだ。
アランは彼女の的確な指示、冷静な判断に感心したかと思えば、女を捨てようとして余裕がないのを指摘したり、一方ではアンドレの一途な想いを同じ男として応援している。
そして次第にオスカルの冷たい顔に隠された穏やかで優しい一面に気づくのだ。

 最初彼は「男みたいな女」とオスカルを評し、女性としての内面を見ていない。これは裏返せば「女」だからとバカにせず、彼女の能力を自分たちと対等に「男」として認めているという事なのだが、そのアランは次第にオスカルに対し「人間的にかつ女性として」ひかれていき、ついに彼女の死後、あまりのショックに姿を消してしまうのである(アランはいかつい姿とは裏腹に、非常に心優しい。ショックをうけるたびに失踪している)。
第三者として見ているアランの心の変化にも要チェック。
得体の知れないオトコ女→信頼できるオトコ女→信頼できる女隊長→俺たちの隊長+ダチの女→尊敬する女→手の届かない永遠の幻(愛情付き)……と、こんな感じ。

「将軍家に女など要らぬわ」
その一言で、オスカルの人生は始まった。
生まれたその瞬間から、持って生まれた性を否定されたのだ。
まだ生まれたての彼女に何が解るはずもないけど、この父のこと、事あるたびにお前は男だと言い聞かせてきただろうジャルジェ家のために思わぬ運命を背負い込んだオスカル、女を否定する以外に彼女に生きる道はなかった。
そして、オスカルも両親の前で男としてしか存在できなかった。男であり続けるしか彼らの前で子供として認めてもらえなかったのだ。
だから真面目なオスカルは必死でその役を演じてしまう。

 ここでちょっとジャルジェ父に言いたい。
オスカルをいつまで男として育てるつもりだったのか、その辺のライフプランをしっかり持っていて欲しかった。突然見合いを勧めるくらいなら、はじめから孫の誰かを跡取りで仕込めば良いのだ。もしくは孫の誰かがしっかりするまでの中継ぎなら、はじめからそうオスカルに言っておけばよかった。
先を考えずに決めたのなら、あまりにもオスカルが気の毒である。

 そう、最初は自分は男だと信じてさえいれば良かったのだ。
だがある日、自分が女であると知った時から、オスカルの歩く道は厳しく険しくなったであろう。
女としての自分は誰からも愛されない、男にならねばと、彼女がかたくなな気持ちになっても不思議ではない。
男でなければだめだという条件付きの愛情にこたえようと、与えられた「偽りの姿」を受け入れたオスカル。
そして、もっと怖いのは、自分の中の一部が愛されなかったという心の傷は、さらに傷つくことを恐れて、愛される事すら拒絶してしまうのだ。

 しかしてその女とは…。
社会的にも認められない女。年頃になって女たちが一度は味わう、女だからという挫折と社会への高い壁。
自分の中の女性らしい部分は弱いのかも知れないという不安定な自信のなさ、女らしいものへの反発。
普通なら女としての真の自分に向き合い、やがてそれを受け入れることを覚えて大人になっていく過程。
…とまで言うと、建前で男女平等と教えられた私たちの時代錯誤かも知れないが、たとえ当時の女性として生きるとしても、オスカルはそんな本当の自分に向き合うことすら禁じられていたのだ。

だが、彼女はこの頑固親父を男として生きる手本として育って来たはずなのだが、彼女の性質はそれだけではない。人を思いやり、感受性豊かで、世の中の事実を受け入れている。そんな性質は父からは見受けられない。
おそらく彼女は、父に認めてほしい、愛されたいという気持ちから、彼に気に入られるために気を配り、心を察し、思いやって来たのだと思う。
そうして、女であることを否定し、男であり続けなければならない反面、女性らしい感情も同時に育てて来たオスカル。そう、父が男性的であればあるほど彼女の中で全く反対の女性的な性質が作られてきた…のではないだろうか。

 それと不思議なことに、母との触れ合いも後半には全く出て来ない。もしかしてジャルジェ夫人は死んでいるのだろうか。
どちらかと言えば母性的なオスカル。ジャルジェ夫人との語らいはどんなものになったのだろうか。多分、オスカルの女性らしさが余計強調されてしまうと思う。お互い独立した女同士のしっとりした会話、そんなものを想像してしまう。
母親の胸に飛び込んで甘えるという彼女の姿は、原作とは違ってあまり想像できない。
すでに母性的なオスカルでは母と子の関係が描けないだろうし、いまさら母を登場させて母性を描く必要がなかったから、あえて母親とのツーショットがなくなったのだろうか(でも見てみたかったな)。

 そして父。年を取ったせいか彼は丸くなり、オスカルを男として育てたことをわびている。
「オスカル、私の娘が決して幸せを求める気持ちを失って生きて欲しくない。あれは小さいときから、どんなことでも自分の気持ちを押さえてしまう、そんな子だからです」
彼の言葉が示すように、オスカルはそんな人物なのである。
その上、自分をこのような運命に育てた父や環境を責める代わりに、より男らしくなろうとしたり女であることを否定して、自分の感情の中だけで処理しようとしている。
……父は娘の性格を熟知しているのだ。それを思うとクライマックスで肖像画に向かって怒鳴る父の叫びは重みを帯びて響く。
父に似て意志の固いオスカル。だが、彼女は母にも似ており、人を思いやる性質を確実に受け継いでいると言える。

 これ以降は、荒くれた男たちに囲まれ、彼らと接するうちに、同じように荒々しくなると思いきや、むりに男らしく振る舞うことはしなくなる。回りがあまりにも男っぽくて、オスカルは彼らにないものを補おうとするかのように穏やかで冷静で女性的な部分が目立ちはじめるのだ。…衛兵隊の司令官室がきれいなお姉さんの部屋に見えるのは私だけだろうか。

 本音をずけずけとぶつけてくる彼らの態度はオスカル自身すら気が付かなかった彼女の女性的な部分を指摘している。
そんな体当たりの猛者相手に手を焼きながらも、オスカルはこれまで強がって来た心のガードを取り、彼らに映った自分本来の姿を見つめはじめる。そして彼女は回を追う事に真の自分と向き合うことを始め、受け入れて行くのだ。

彼女はそもそも、そんな本音で生きる飾らない男たち(平民)と一緒にいるのが性に合っているのかもしれない。衛兵隊へ行ってからは、さりげなく自然にオスカルが女性らしい仕草を見せる(アンドレへ個人的に、だが)。
男として振る舞うことが身についているはずの彼女が妙に色っぽい。
そのせいか衛兵隊に入ってから、オスカルはやたら男にモテる。前期は女たちに騒がれて来たオスカルなのに、後期は突然求婚者が現れ、女として求められている。

 フェルゼンへの空回りの恋の痛みも過ぎ、これまで彼女を保護して来た「滅び行く貴族社会」とも決別し、自立して生きる目標を探し始め…いままでそばにいて彼女の本来の姿を見つめて来た唯一の男の存在を認めて行く。
彼こそこれまでオスカルが弱いものと決めつけていた女性的なものを認め、唯一それを愛してきたアンドレ。だから放っておいても引っ付きそうな二人。
彼は決してオスカルの行動や考え方には干渉せず、ひたすら静かに見守るのだ。

 人の愛情というものを大きく分けて、「求める愛情」と「与える愛情」とすれば、今、オスカルが必要としているのは、激しく「求める愛情」ではなく、彼女の孤独をやわらげる「与える愛情」。だが、そんな事にも気づかず、彼女はアンドレを遠ざけようとしている。この事はオスカルが、女としてアンドレを求める気持ちから逃げている証拠なのだ。
虚像のフェルゼンに恋したり、目の前の求愛者に戸惑うオスカルは実はウブな女。
だが、アンドレは彼女の葛藤など無視して、強引に押していく。オスカルの本当の心をわかっているのは自分ただ一人と信じているのだ。信じるものは救われる。屋敷を勝手に飛び出したアンドレは、オスカルの先回りをして衛兵隊に編入している。
このまま何もなければ良かったのだが、そこへ歴史の激流が二人の運命を飲み込んで行くのだ…。

 彼女が与えられた運命の中で、武人として生きることは、彼女自身が誇りを持つほどの事だった。彼女は「男」という看板を背負って常に強くなりたいと願い続けてきた。
それが何のためなのか、攻撃的な性格ではないオスカルにとって、強くなるとはどういうことなのか。彼女は近衛隊を辞め、王室を守るという人生の目標を心の中から外したときに自問しただろう。

 フェルゼンとの決別を済ませた後、彼女に残ったのは武人に徹する(強くなりたいという)気持ちのみ。
強くなりたい、多少のことでは傷つかないほど強くなりたいという意志が今のオスカルの心の支え。
「強くありたい」。それはこれまで、男として生きるために必要なのものなのだとオスカルはずっと信じ続けてきた。だが、それでは納得が行くまい。彼女は衛兵隊に転属してから、女としての自分も受け入れ始めている。

彼女の「女として」というのは決して色気のある仕草やドレスを着ることではない。男の思考に同調せず、彼らから感じ取れないが自分から湧いてくる別の感情の事、それがオスカルの中にあった女としての気持ちだ。一般的に言う感受性とか、母性とかいうものだろうか(これも女性のみが持つ能力とは言い切れないが、女性に関してのみこういう語彙があるので使っていく)。
冷静な顔は穏やかになり、理想に燃える炎ではなく現実を包み込む暖かい海のようなまなざし。

 だが、本来戦うべきではないようなオスカル。彼女のそんな女らしい感受性は貧しい民衆の苦しみを人一倍感じてしまい、彼女の母性は民衆を守るために身を呈して戦うという、本来の女らしい「守りの姿」とは逆の行動となって現れる。いや、女性らしい強さとはこういうものかも知れない。
そもそも男として生きる上で、武人の道を選んだのも、何か守るものを探していたからと考えると、彼女の保護姿勢からすれば納得がいく選択。
この際、あまり性別にこだわるのもどうかと思う。彼女は今、男だから・女だからではなく、オスカルとして強くあろうとしているのだ。
では彼女の、強くなりたいとは何のためなのか…。女として自覚しても軍服を脱がなかったオスカル。

 男として育ったのが定められた運命であるなら、この生き方が無駄であるはずがない。
自分が得たこの力が何かの役に立つはずだ。強くなるとは、誰かを守ること、誰かのために戦うこと。同じ民同士の流血や、貴い命を無駄にすることを何より回避しようとするオスカルが、結局は戦いの矢面に立ってしまうこと。
オスカルは今、目の前で起こりつつある重大な事から逃げ出さず、心の声に耳を傾ける。人は一人では生きられない。私には仲間がいる、共に生きる人々がいる、そして私を必要とする人がいる。
彼女は自分の信条が間違っていないことを信じ、革命へと突き進んで行く。

 あえて付け加えるなら、後半の見所はアランの気持ちの変化、アンドレを気遣うオスカル、それと無謀にも非暴力を貫こうとするオスカルの姿勢、などだろうか。
その他、色々な思い入れでどのようなシーンが心に響くか人それぞれ。むしろこの解説は無視して、一人一人が自由に「人の生き方」を感じて欲しい。

 ちなみに原作では前面に打ち出された「自由・平等・博愛」の崇高な精神は、アニメ版では流血と陰謀の建前になってしまいっているのが原作との違い。
出来事をどう描くかの角度によって、話は大きく違ってくる見本と言えよう。

 うっかりしていると、アニメ独自の流れは見落としがち。前記の通り、原作と同じ進行を考えていると、オスカルが何を考えているのか、わからなくなるのだ。
この混乱の元は、モノローグが無いこととは別に、男だから女だからという固定観念のせいなのだろうか。
(結果論になるが、アニメが原作と違う物になったことの是非について、私はアニメの作品内容を大変納得しているので、肯定的な見方をしている。)

 何かにつけ、女は自分の性を常に意識するように躾けられるという。「女の子は作られる」と、一般にいうものである。オスカルは女なのに男の気持ちで信念を持ち、男として世界を見ながら女として悔いなく生きようとした、などと考えると、ベルばらは結構ややこしい。単純な私なんぞは、こんがらがって思考回路はショート寸前になってしまうのだ。

 ところが我々も普段、たった一日の間にも、男らしい思考をしたり、女らしい気持ちになったり、そのどちらでもない「人間」として振る舞っていたりする。そう、まさに心は自由なのである。
 そこで、激動の時代を生きたオスカルの気持ちを、我々はきちんと整理して見ていく必要がある。実はこのアニメの物語には、二つの主題が縦糸として通っているのだ。
ひとつは「自分本来の感情を抑え続けて来た女が、本当の自分を取り戻して行く過程」が描いてあり、そしてもう一つは「貴族という、やがて滅びる側の人間であり、社会的地位もある人間が、名もなき人々のために命をかけて尽くそうとした誠意」が描いてある。前者には恋人であるアンドレとの触れ合いが不可欠であるし、後者についてはアランたち民衆に対するオスカルの思慮深い行動が目立つ。場面場面で、どちらの主題が描かれているのか、考えてみるのも面白い。

 女も常に女として生きているわけではない。どこかに争い事が起きて、無力に涙することすら、ただ女だからではない。何も感じず、無関心でいる事より、よっぽど人間的なのだ…と私は思う。

 ところで、この二つの主題を無視して、試しに第37話・第38話で、「男として生きた女・オスカル」という観点で色々と考えてみたが、大混乱してしまった。
「〜な女として」とか「女だから〜」と、女を意識して書いてみたら、だんだんオスカルの事を書いているように思えなくなってくるのだ。読み飛ばしてもらっても差し支えはない。

 余談…おいおい語っていくが、後期には大きなテーマがある。
「人の命の重み」である。戦いに身を投じたオスカル以下、衛兵隊の兵士らはバタバタと死んでいくのだが、それぞれが互いにかかわりを持ちながら一人一人の人生や人間模様を描く中での死は非常に現実的。
人間の存在の小ささと、必死に生きる事のすばらしさ。そういうものが対比してあり、オスカルは命の大切さを無言で語っている。

 だが一体、オスカルは何を考えてたんだろう?と思った人は多いかも知れない。実は私もそのうちの一人である。原作のオスカルの熱い思いは言葉にしてあった。たとえば思想的な「自由・平等・友愛」、そしてフランスの未来を信じる心。
とても自分にはかかわれそうもない壮大な夢。彼女はその夢を実現させる人々の中にいた。
それがオスカルらしさだと思った。だが、アニメのオスカルの冷静な態度からはそれらの熱い夢が見えない。
だが、はっきり言おう。彼女が立ち向かおうとしたのは、「流血を伴う事態の解決・武力による弾圧」である。
武力を持つ者として、そして彼女が女であることにこだわるならば、女性という「産む性」を持つ者として、彼女は命こそが大事なのだという信条を持っている。

 命のやり取りをする武人だからこそ、命の尊さをより感じていたオスカル。彼女の行動の軸は、全てこの「命を大事に」という信条から出発する。
普通、戦いのドラマでは主人公が勝利することが目的である。
だが、「女を意識した」観点から言えば、血を流し合う戦いに疑問を持ち、それを回避することを理想としたこの物語の主人公が、「女」だった事は大変意義があったと思う。
それは戦いに勝利するこそが讃えられる男の世界への疑問であり、それを第三者として見つめるオスカルの瞳が、聡明な女として描かれているのだ。

 ただし、このテーマは彼女の口から語られることはない。
オスカルはただ憂いを帯びた瞳で世の中を見、何も語らないのだ。…それはやはり大事なテーマは言葉にならないとしか言えないのである。
オスカルが声を上げて「戦ってはならない、命を粗末にしてはいけない」と叫んでも、それは単に世間知らずのきれいごとに過ぎない。

 理想として持っていても、これらが実現不可能な夢である以上は、口には出せない。だからテーマはオスカルの心の中にのみ存在するのである。人の想いは言葉ではない。

 又、彼女は「人の世の前進に武力は必要なのか」と常に世に問いかけている。もちろん「必要であってはいけない」という信条をオスカルは持つ。
ブイエ将軍に武力行使を「フランス史上許されざる汚点」と言い切ったり、アントワネットに対しても「軍のパリからの撤退」を強く迫ったり、時折彼女の心の叫びはこうした言葉になっているようだ。
だが最後の最後で、そんな彼女自身も、問いかけの答えは見つからないまま、民衆を守るために武力行使をするに至るのだ。
それが命の重みのためと言うのなら、人の世はここで行き詰まってしまう。

 ただ一つ、幸いと言えば、オスカルが最後まで希望を持っていたことだろうか。彼女は決して投げやりにはならず、人の世が有る限り、「誰も一人では生きていけない」と信じていたのだから。

 では、作品を見る上で、読者がどの位置でベルばらの世界を見ているかを考えてみよう。
原作ではバスティーユまで、ほぼオスカルの目線で物語は進行している。手法として、オスカルのモノローグを多く入れる事。
それによって読者は彼女の気持ちをダイレクトに「言葉」で受け止め、自分で考えるまでもなく彼女の思考に同化しやすい。
つまり、ひたれるのだ!
オスカルの視点で物語を見た方が彼女に感情移入がしやすいし、絶対的な主人公としてオスカルを描くならこの手法が適当だと思う。
ただ主観的な意見だが、オスカルの視点で物語(原作)を見ていた私は、彼女の死後、視点を失ってしまった。

 オスカルの熱い想いは民衆に引き継がれたであろうし、オスカルの後を受けて主役に復帰したアントワネットの強い意志はオスカルに通じるものがある。ラスト近くのアントワネットの顔がオスカルに見えることすらあった。
つまりオスカルの死後、民衆か、それとも貴族アントワネットか、どちらの味方をしていいのか、うろたえてしまったのだ。
今では、オスカルの死後は第三者として見ればいいと思っているが、当時はオスカルに同調できることがベルばらの醍醐味だと思っていたので、オスカルの死は私にとってベルばらの最終回に等しかった(大げさな…)。

 一方、アニメの目線は鳥瞰図的、もしくは一番近い所ではアランの視点(時折、ベルナールの視点もある。熱血・黒い騎士時代とは違い、彼はロベスピエールを冷静に見つめている)。
だが鳥瞰図的に見た場合、オスカルは民衆からすれば単なる「税金泥棒の貴族」。
これでは未来の勝利者(民衆)の前で彼女は滅びて行く悪者(貴族)の一人に過ぎない。
勝てば官軍、勝利者・民衆が善として見なされるのだ。

これでは視聴者は、あえて厳しい立場のオスカルになりきろうとは思えず、さらに主役として「正義を背負う」というオイシイ目にもあえない彼女にひたれるはずもない。
それでも「悪者オスカル」は民衆に疑われても、視聴者に理解してもらえなくても、無言のまま民衆の為に無償で尽くすのだ。
(う〜ん実際、一人で何でも背負い込んじゃうタイプ、アニメのオスカル……。)
もちろん、尽くしたところでその行為は報われず、挙げ句の果てに彼女は戦いに散る…のだが、このままではどうにも虚しすぎて歯切れが悪い。

 で、最後の最後で、再び視点はアランに返ってくる。彼はオスカルとアンドレの不条理な死に、納得がいかない様子なのだ。
そして結論として、民衆の勝利が決して善ではなかった事、つまり、大切な命を散らす戦いの虚しさを彼に語らせて物語は幕を閉じる。
 原作・アニメ共に、やがて断頭台の露と消える女王にまつわる物語はやはり滅びの物語なのであろう。オスカルも貴族であるがために例外なく命を落とすのだ。

 ラストを終えて、胸にぽっかり穴があいたような虚しさ。
後日談として登場したアランが、我々の虚しさを代弁していて、さらに虚しい。
オスカルの「人の世の前進に流血は必要なのか」という心の叫びもバスティーユと共に燃え尽きた。

 モノローグもないままオスカルの死を客観的に見せつけられ、さらに作中で登場人物たちによって完璧に葬り去られるという手法により、彼女を失った現実をこれでもか!これでもか!と痛感させられるラストシーン。救われない、本当に救われないのだ。
…だがしかし、パンドラの箱ではないが、彼女が最後に残したのが希望であって欲しいと、今は願うのみである。

「希望」については、後書きでしみじみ語ろうかな………と思う。



2000.12.20.up