アニメ版 ベルサイユのばら 徹底解説>HOME

★アニメ前期★1〜18話★

 全体的に、原作の通りの進行を心掛けている。
主要人物はほぼこの前期に登場し、それぞれがエピソードを経てかかわりあいを持つ。
原作をふまえた雰囲気のオスカルが動画で動き・剣を振り・アクション系の大活躍をする。オスカルは確かに主人公ではあるが、歴史的な部分はほぼ実在人物アントワネットが中心で、オスカルは彼女を陰から支え忠実に仕えている。

 前期は「オスカルの視点」で我々をベルばらの世界に導いていると言えよう。
よってオスカルはほぼ第三者的立場をとっている。
原作がそうであったように、架空の人物・男装の麗人オスカルが自在にどこへでも入り込めるという利点を生かして、アントワネットの成長過程にかかわっているのだ。
またオスカルを通じてアントワネットが母のように偉大な統治者ではなく、どちらかと言えば平凡な幸せを望む女性であることが描かれている。

 そして平行してオスカルの成長も描きながら、やがて起こる革命を予感させながら物語りは展開している。又この前期でオスカルが革命側に寝返るに至る伏線が語られる。

 ただ展開する上でオスカルをどう描くかがとても難しい所。
社会現象まで巻き起こした原作をどうアニメで表現するかがポイントなのだが、特に前期は歴史と人間関係を見つめる為の「第三者」という立場からか、彼女の内面や悩みなどは陰をひそめ、そのかわりに登場人物たちを見つめる冷静な傍観者オスカルの賢さ・りりしさが前面に出ている。
 オスカル=軍人としての男の強さを持ち、悩みなどにへこたれない芯の強さと女としての可愛らしい心を持つ…。
同じ女として、当時女性が自分の社会的地位について考え始めた頃、原作オスカルは我々読者である少女や女性を「女は弱くない、がんばれ!」と、励ましてくれる希望の理想像だった。
そんな彼女の内面や悩みなどの「弱い面」を前面に押し出すのは、さすがに制作を任されたアニメにおいても、確かに危険な冒険だったのだろう。

 前期はそうやって、原作に忠実であろうという姿勢が伺えるが、平面的な誌面のマンガの手法をそのままアニメという違う表現媒体に取り入れた結果、不自然な収まりになっているような気がする。
たとえ原作(マンガ)で感動できた活字の詩的なセリフも、いざ、声優の口から声という言葉で出て来たとき、おおげさで日常的な「会話」にならない。

仕草などもそうである。一つのポーズのキメで主人公の動きを表すマンガと、より現実的に主人公を動かすアニメの違いからか、マンガのままのオスカルをアニメで表現するとポーズが「非日常的」な動作になってしまう。この際おおげさな立ち回り的演出の評価は省いても、子供向アニメを意図した段階で、オスカルは普通の人間ではなく「正義の味方」という特殊な描かれ方になってはいまいか。
オスカルやアンドレやアントワネットには感情移入できても、デュ・バリやオルレアン公には、よほどハマッた人以外は感情移入できないという勧善懲悪のパターンがここにある。

 しかし実際、動画としてアクションを生かした演出の前期オスカルは文句なしにりりしくてかっこいいし、原作オスカルの華々しい魅力をうまく出してある。見ていて明快な前期は、後期の「死のイメージがつきまとう暗さ」がどうも苦手…という人にはお勧めかも知れない。特に白い軍服は涙が出るほどよく似合っている。
一方アントワネットがかなりお子様向きに描かれており、見ていて少し疲れるが子供と一緒に楽しめるのでこれも良しとしよう!!

 原作を読んだら誰しもそれぞれのオスカル像を頭に描いたはずだ。だがアニメではオスカルが動き、話し、一つの風景の中に収まる以上、あいまいなままではすまされない。アニメではマンガと違って、登場人物がより具体的に我々の前に出現する。我々読者一人一人の中で生きていたそれぞれの「心の中のオスカル」が、そうでなくなった時、それがアニメオスカルの誕生だったと思う。

 だが原作のままの展開で、原作のままの演出で、そのまま何でも同じなら、原作を越えるものはできない。何もないところから原作者が生み出して出来上がった原作、その基礎の上に建ったアニメであるなら、当然原作を研究して、何か付加価値をつけ、より完成度の高いものを作りたい。それがアニメ制作者の課題だったと思う。

 アニメ放映当時、学生だった私は、ちょうど小難しい事を心で考え始めた頃。オスカルという人物、いや超大物をどう掘り下げるか楽しみにしていた。
特にオスカルのカッコ良い面より、人生の手本として、彼女の人間としての内面を描いて欲しかったのだ。
生きている以上、当然誰でも持つ「弱い面」も含んだ普通の人間オスカルを。
また原作では描かれなかったオスカルの些細なエピソード、彼女の心にふれる場面・セリフなどを望んでいた。
…前期はそういう点では、私は満たされなかった。

 執拗なまでに高まる対立、何度も繰り返されるオルレアン公のお粗末な陰謀、子供向けアニメにありがちなコミカルなコント、低年齢層にもわかりやすくした感情表現など、小難しい事を考える年齢にはかなり物足りなさを感じた(大人になると再び、明快な演出もそれなりに楽しめるとは思いもしなかったが)。
しかし今思えば、当時の少女それぞれ個人の異なる観点で支持されてきた原作を、見る側ひとりひとりに100%の満足度を与えることは不可能だったであろう。一つの世界として完結し、すでにフタを閉じている原作に対して、それ以上触るのは誰にも出来なかったのだと思う。

 爆発的に人気を得たマンガの登場人物によくあることだが、オスカルもまた原作者の手を離れてしまい、原作者すら触れられなくなったのではないだろうか。
そう考えると「原作通り」にこだわるなら、オスカルは読者それぞれの心の中で、それぞれのオスカルとして生きていた方が良かったのではないかと思う。

 とは言え、時代の風潮で、何から何までアニメ化していた時代、ベルばらもついにアニメ化が決まってしまった。読者に巻き起こる期待と不安。
そして前期の制作者サイドにも、原作をそのままアニメにしても原作を越えるものは出来ない!そう言った戸惑いが現れていたように思う。
だが、ベルばらという大作を手掛けた以上、そのまま戸惑っていては良い作品にはならない。そこで「ベルばら」という作品とそれを作り出した原作者に敬意を表して、手ごたえのある作品にしようと努力するのがクリエーターであろう。

 さて、ここでよく聞くのが「原作から変わった」ことの是非。
原作という基礎から生まれたアニメオスカル。しかし彼女はその地点で原作から離れ、アニメ制作者が作り出した「原作とは別のオスカル」になっている。
もし是非を問うことが今でも争点になるのならアニメ化に伴い、いっそのこと前期から全く違うものにしてしまったら良かったのにとも考えた(だが、そうなってしまったら、その作品はすでにベルばらでなくなるかも知れないが)。

ただ放映後20年も経った今更なぜ変わったのか事実は知らないが、私は「変えてある部分」は30分形式のアニメでのストーリー展開上、もしくは何らかの理由があると見ている。
「変わったこと」の是非は、これも又一人一人の判断に委ねるしかないが、以下の解説で自然と「変えてある部分」にも触れているので、是非に興味をお持ちの方には、なぜ変わったのかを考えていく一つの材料にしていただければと思う。

 …という訳で後半、徐々に原作から離れていくアニメオスカル。
無口で一見つかみどころのない後期オスカルからは、身分差や貧富の差に怒り、自由や平等と言った理念のために心をもやすような激しい炎を持つ前期オスカルが想像できない。
そんな後期の寡黙なオスカルならば、若い頃、前期のオスカルと同じように、激しい血がたぎるような行動を取ったであろうか?

 そこが違うような気がするのだ。後期のオスカルならどんな少女時代を過ごしたのか、前期を見る限りでは同一人物のように伝わって来ない。どうもしっくりいかないのだ(もちろん、オスカルだけではない。ジャンヌやロザリー、アンドレも、である)。
それにオスカルという架空の人物はマンガならではの発想だけれども、後期になれば、舞台設定はオスカルの都合になど容赦なく厳しく、現実味を帯びてくる。

 たとえばオスカルは革命直前まで貴族ゆえに民衆の輪に入れなかったし、又、男性の部下たちとは身分の壁と性別の壁という現実を突きつけられている。
これは前期では省かれていた部分である。
とすれば、彼女は確かに前期のオスカルではない。もちろん、原作のオスカルでもない。

 …結論として後半のオスカル、彼女は別人格の別人であるのだと私は結論づけている。
そして前半と後半の大きな違い、これをもってアニメの完成度ははたしてどうだったかのかというと、それは「疑問」ということにしておきたい。



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