アニメ版 ベルサイユのばら 徹底解説>HOME
第36話 合言葉は〃サヨナラ〃 |
(解説というより、長文のつぶやき) 18世紀。それは西洋の歴史において、それまでの常識を覆す「理神論」という改革的な思想が現れた世紀でもある。 盲信的な神への愛に変わり、理性的な道徳をもって人間の完成に至ると言う考え方である。 古代から西洋では、人は生きたまま神の存在に近づくことが試みられて来た。 神と一体化すること、すなわち人間の完成に至るということについては、それまではただひたすら神を愛し、信仰し、慈悲を待つというだけであった。 だがその新しい思想・理神論は、中世まで信じられていたキリストの奇跡や超自然的な啓示などを否定し、あくまで人間の理性の範囲内にその信仰を留めようとしたのだ。 そして、より高い人間の完成、あるいは神により近づく手段として、自由・平等・友愛などの理念が、道徳として掲げられた。 当時、神への絶大な愛によってのみ人間が完成されるという考えがまだ一般的であったが、この従来の神への信仰を根底から揺さぶる思想を、18世紀の人々は徐々に受け入れ始めていた。 絶対であった国家に対し、個人が掲げた自由・平等が勝利を勝ち取ったアメリカ独立戦争。これも理神論が具体化したものである。 だが、彼ら理神論者たちは神の存在を否定したのではない。神へ至る道筋を、盲信的に神を愛することから、理性的な道徳を貫くことに替えただけなのである。従って、彼らの信じる自由・平等・友愛も、神への信仰なくしては語れない。 ………以上、一般的な歴史解釈について。 (こだわりたい人は各自で神の概念や歴史の真実を追い求めてネ) さて今回、大活躍するロベスピエール。彼の描かれ方について考えてみよう。 前半から物語り進行上、歴史にかかわるところで顔を出していた彼は、最初から民衆側の味方として登場している。 彼の生い立ちについては語られていないが、彼の言動が後の革命につながっているのは明らかで、王政の行き詰まりを早いうちから指摘している。ただ、彼も民衆の貧しさ、虐げられた苦しみを人一倍感じたのだろう、王室への批判にそれがにじみ出ている。 やがてロベスピエールは弁護士として貧しい者のために身を尽くした後、今は国民議会の議員として貴族や僧侶に対して戦いを挑んでいる。 彼もまた、新しいフランスの為に、そして民衆の為に命を投げ出してもよい覚悟でいることだろう。 彼はそのために具体的に何をどうしたらいいのか考える。 そして自分の心の中で「人々が幸せに暮らせるための理論」を考えたはずだ。 彼はまんべんなく「貧しい者」全体を助けたいのである。 本来は苦しむ人を放っておけない優しい男、ロベスピエール。だが、なぜか彼は回を追う毎に冷たい計算高い男として描かれていく。 彼が掲げる目標が高ければ高いほど、その理論を実現する為に綿密な計算が必要となる。困難や妨害、それらを焦らず時間をかけて取り除き、自分の筋書きどおりに物事を運ぶ必要がある。 そのためには、支配者とならねばならない。大きな目標を持つ人間は、まず目標を実践するだけの力を持たなければならない。 すなわち権力である。 どんなに純粋な目標であろうとも、まず先導する者は絶対者として権力を握り、人々の意志を統一させる必要がある。 理論は完全に実現されなければならない。その為に妥協は禁物なのだ。 だから他者のささいな考えの違いをいちいち考慮していては話は進まない。自分のプランが絶対なのだと信じて、実践しなれけばならぬ。完璧に実践してこそはじめてその真価が問われるのだ。 これは一見、正しい考え方。だが、理想や思想に命をかける者は、悲しいかな、肉親や恋人への愛情を犠牲にしてしまうのだ。 身内の犠牲も、お互いの絆(貴方のためなら私が犠牲になりますという気持ち)でフォローすれば、これも愛情だと言えばきりがないが、たいていの人はどこかで妥協して理想と現実のバランスを取っている。 思想に命をかけ、さらに恋愛に命をかけるという事は本来、両立しない。もし民衆の中に、自分の命より大切な人がいれば、彼は思想よりその人を守ることに終始するはずである。 だが、彼は理想・目的のために鉄のような決意を持っている。人間的な感情は二の次にしないと、完璧な計画がだめになるのだ。 ロベスピエールは個人的な利益を捨て、時には暴動を扇動し、支配者となるべく自分のプランを実行して行く。彼にとって、自由・平等を求める民衆の熱望は、目的のための道具に過ぎない。 だが、やがて彼は人の為にと思って掲げた思想を貫くために、反対に思想に振り回されるのだ。彼の頭の中では思想を実践することだけが優先し、その実現に向けて突き進むことだけが目的となる。そう、自分の掲げた目標を実現しようとする彼の前には、血の通った人間も目的の為の道具となってしまうのだ。 そして、場合によっては自分自身すら、彼の理想実現のための道具となるのだ。 そんな風になってしまうと、彼の目には違った考えを持つ人間が単なる邪魔な物にしか写らない。そして、それらを排除することはすなわち傲慢であり、暴力である。暴力は暴力を生む、すなわち平和ではない。 全体を考えることは大切だ。しかし全体ばかりに気をとられる傲慢な人間には目の前の現実が見えない。人間一人一人の喜怒哀楽、評価されないほど小さくて目立たない日々のささやかな愛情など、彼にはもう別次元の世界の話なのだ。 だから本来、人を救うはずのロベスピエールの思想の為に、人々は枠の中に強制的にはめ込まれて苦しみ、結果的に彼を憎むことになってしまう。 アニメではかつて、テロリストが「フランスばんざい」と言って死んでいる。テロという過激な方法を取る人間すら、崇高な思想のために動いているのだ。思想に命をかける者を描く上で最も危険なこと、それは思想のためという大義名分を掲げて、人の命を粗末に扱うことが正当化されることである。 彼はもうここで、理想世界を作るための崇高な理念が、神への愛ではなく自分のエゴを通すことにすり替わってしまっているのだ。 神への愛と個人のエゴ。理念を扱う難しさ。抽象的な自由・平等・友愛という言葉、それを具体化させる方法は人さまざまなのだ。自分には自分の、他者には他者なりの別なる理想がある。 よって、自分の理想を強制した彼らの回りには平和はなく、反対に敵ができて、流血の戦いを呼んでしまう。 自由・平等、それらの崇高な理念を実現しようとして、ロベスピエールだけでなく多くの者が自分なりの計画を実践しようとする。テロリスト・サン・ジュストもそうである。そして、その計画が不完全であれば敗れ去っていくのだ。彼とて例外ではない。 だが、歴史はそんな情熱に燃えた男たちの理論だけでは動いていない。 人それぞれに、時間の経過の中であらゆる立場であらゆる考え方がある。それら全てがただ一人の理論に収まりきるはずはない。 たとえば、アントワネットはよりよい社会を作る理論を実践するためにフランスへ嫁いで来たのではない。彼女の意志でそうなったのでもない。ただ歴史の表舞台に出てくる運命があっただけなのだ。 歴史に選ばれるのは決して歴史の表舞台に立とうという意志を持っている人間だけではない。アントワネットのように巻き込まれた女性もいるのだ。そんな運命のいたずらが絡み合い、時には理論をも打ち破っていく。 しかし、それでも人々は理論を実践せずにはいられない。神の国をこの世に実現させる為なのだ。それが神へ至る道であるならば、どんなに困難でも人々は何度でも挑戦し続ける。 これを「情熱」というのだろうか。常に前進しようとする者は感動を呼ぶであろう。 そして、革命前はまだまだ風采の上がらなかったロベスピエールのはずなのだが、アニメでは早い地点で彼は支配者の人相で登場している。人間同士のどろどろとした権力争いの戦い、そして策略・陰謀というものが彼を通じて革命前から起きているのだ。 原作では三部会のあたりでは理想に燃える人間味あふれるロベスピエールであったが、アニメベルばらでは、そういう高い理念のために戦う男たちを、決して正義の人として描いていない。むしろ隣人の苦しみを切り離して、大局に気を取られている愛情のない人間として描いてある。彼らの体から立ち上ってくるのは青い炎を上げる情熱である。 そしてオスカルも又、人々から賞賛を浴びることのない人として描いてある。 理屈では割り切れない世界の仕組みに、命がけで挑んで破れた人々。 これのキャラを突き放すかのような淡々とした描写が、後半の「らしさ」といえるかも知れない。 ロベスピエールが後半のクライマックスで目立ってくるのは、オスカルとの対比という解釈もできなくはないが、彼の生き方そのものがキャラクターとして非常におもしろい素材である。 彼の生き方がどうあれ、大局を見極めようとした意志と情熱に対して、一種のあこがれを持つ人もいるのではないかと思う。 今回(36話)ロベスピエールはネッケルに秘密裏に会見し、王室に対して軍の撤退と国民議会の承認を説得してくれるように依頼している。それは流血を避けるためと言っているのだか、どうも彼の言葉は冷たい。 そしてネッケルはそれを国王に進言して怒りを買い、ただちに失脚するのだが、それによって民衆側に武器を取らせ、正当な理由で民衆を王室と戦わせる…というロベスピエールの筋書きになっている。 どうやらロベスピエールはそこまで計算しているらしい。彼は民衆の怒りのエネルギーを操って、自分の権力を得るために利用しようとしているのだ。崇高な理念はなりをひそめ、情熱ではなく冷たい計算が引き金になって、革命の戦いは始まる。 王室による古い権力と、台頭してきたブルジョアたちによる新しい力の激突。そして、生きるために立ち上がろうとする民衆の力。 これらの権力闘争をまず前面に出し、革命が純粋な理念だけで起きたのではない事がバスティーユ前にあらかじめ描かれているのだ。 この演出では、オスカルは革命に情熱を傾けられない。下手に「自由・平等」を掲げて、兵士たちを先導して戦うと、策略家・ロベスピエールにハメられた単細胞になってしまう。 本来、時代の激しい嵐に向かって突入していくくだりが、原作のオスカルにとって見せ場なのだ。革命という動乱の時代のために生まれてきたような原作オスカル。この7月13日までの緊迫した盛り上がりこそ、彼女の情熱を語るのに最高の場になるはずなのだ。 そして革命の盛り上がりとシンクロして、アンドレとの恋愛も燃え上がる。 二人の恋愛と革命といくつかの伏線が絡まっていて、それぞれを別々に見ようとは思うのだが、個人的に原作での二人の恋愛を革命と切り離して考えていない自分に気付く。 ある意味、原作での「フランスばんざい」という言葉も、国家のためと言うよりアンドレとの恋愛を永遠のものにしたという完結の言葉にも聞こえるのだ。 彼女の情熱を中心として歴史的な出来事(バスティーユ襲撃)が描かれた原作。このベルばらならではの見せ場がアニメにはない。むしろ、きれい事ではない革命の現実の中にオスカルが放り込まれ、時代の激流に流されてしまうのだ。 自由・平等・友愛、これら崇高な理念の為にやがて起こる果てしない流血、それらの悲劇の発端をアニメではオスカルに背負わせたくなかったのだろうか。 アニメ版はどうしてもこれらの理念をオスカルの口から語らせるのを避けているような気がしてならない。そして「フランスばんざい」もそうである。 思想のために、国家のために命をかける。その表現の難しさ故だろうか。 原作であれほどオスカルが自分の情熱を注いで、命をかけて追い求めた真実。彼女は自分で自分の情熱を燃やす力を持っていたのだ。それは決して、私利私欲や他者に思想を強制するものではなかった。また「フランスばんざい」も含めて、ベルばら全ての出来事をオスカルが悔いなく生きるための華々しい演出だったと、当時の私が「感性」で感じたのも確かである。 その姿に我々はどれだけ感動しただろう。これだけ感動してしまえばもう、原作以上の表現でこの感動を表すことは無理だったのかも知れない。 このあたりの展開を見ていると、議場に駆けつける所も含めて、原作のオスカルは自分のための情熱を持っているのがよくわかる。 彼女は自由・平等・友愛の精神に命をかけ、それらを信じて戦った。 しかし、それはまだ革命の始まりの時期で、その後、オスカルの信じた理念は男たちの権力闘争や、冷たい策略によって彼女の理想としたものからどんどん離れていく。これらの理念は革命後どこにも見えなくなってしまい、彼女の情熱はただちに自由・平等を実現するのに役立ちはしなかったのだ。 だが、革命の混乱の中にも自由・平等・友愛の精神はなくなりはしなかったであろう。本来、神に近づく意志は聖なるものである。理念そのものは汚れることはない。ただ、それらは混沌の中に沈み、表面上は次々と現れてくるるあらゆる階層による権力争いとなってしまったのである。 原作オスカルが感動していたロベスピエールらの力強い決意。 だが、強力な国家体制とは何かを探す過渡期だったのかも知れないが、後に起こる権力争いや粛正をオスカルは望んだであろうか。 またもし、アントワネットの処刑の頃にオスカルが生きていれば、彼女はこの革命のたどった道をどう思ったであろうか、そうなってまで彼女は革命に加担したであろうかという問題が出て来る。そう、彼女の流した血は果たして何だったのかと。 ただ幸か不幸か、原作オスカルは自分の真実を貫き、混乱を見る前に死んでいる。 だが読者である我々はバスティーユ後のてんまつを目の当たりにし「原作オスカルの死は何だったのか・崇高な理念を掲げたのは何のためだったのか」という虚しさが残る。 この虚しさを排除したい。となると、原作のまま彼女が同じ理由で戦うのならアニメにする必要はない。 オスカルが二度死ぬだけである。 では、崇高な理念を掲げたオスカルの死が虚しいのであれば、「もし崇高な理念を掲げて戦えないのなら、オスカルは何を信じて戦えばよいのか。」 この答えは一つではないだろう。ただそのうちの一つの結果がアニメオスカルの行動だと思う。だが、そのために革命までの盛り上がりと、命をかけてまで崇高な理念を求める彼女のダイナミックなまでの情熱は切り捨てられるという事態になったのだが。 アニメの展開で考えてみよう。 たとえ崇高な目的であろうと心冷たいロベスピエール。そして、それらの事実を知ってか(知らずか)冷静に時代を見つめるオスカルを対比させている。 彼女は革命へ盛り上がる直前にどんどん人の波から離れはじめ、時代に流されない目でものを見はじめる。その視点は現代人的(視聴者に近い)だ。もちろん、革命の行方があらかじめわかっていて白けているというのではなく、彼女のモラルのあり方が今風なのだ。 実際の所オスカルのような、あっちとこっちに義理がある立場の人物設定を、現代人がこの時代にタイムスリップして衛兵隊の隊長となり行動を起こした、という風にしても一つのお話として充分成り立つ。 歴史の波に放り込まれた人間が時には流れに逆らい、時には飲み込まれつつ、その中で自分なりに進路を開き、命を燃やしていく有様が見所なのだ。…結果はついてこなくとも。 暴走する民衆と、武力弾圧を仕掛ける王室、そして権力の座を狙う次世代の支配者たちの姿をオスカルは見る。今や新しい時代のために戦いが起きることは目に見えている。 そして言葉にするとどこか現実離れした自由・平等・友愛という理念。まして、それを掲げる事によって革命が収まるのではなく反対に激しくなっていくのだ。 崇高な理念が神へ至る道であるなら、本来ならその為に流血が起きるべきではない。 ではどうすればよいのかと言えば、我々はこの命題をいまだ解決していない。 これら流血を伴う「実現可能かどうかわからない高い理想」をオスカルの口から語らせる演出の難しさ。これは原作オスカルの流した血が何だったのかという疑問につながっている。 だからあえて、アニメではオスカルにそれらの理念を語らせなかったのではないだろうか。 「自由」がなにものにも束縛されない状態を言うのなら、「平等」は基本的に組織だった束縛を必要とする。この相反する二つの理念をどうやって共存させるのか。 又この革命時、さまざまな立場の人間たちは「自由・平等を求める」という精神面でつながっているに過ぎず、絶対王制が倒れた後にどんな国家体制を取ったらよいかと言う具体策は何も決まってないのだ。その主導権を巡って起きる、先の混乱は目に見えている。このように時代が混沌としている様子が先に描かれてしまうと、オスカルもただ情熱をかたむけて抽象的な崇高な理念のために戦えない。 オスカルはこの現実を見た後で、それでも情熱を燃やせただろうか。それがやがて流血の惨事に結び付くとわかっていても??…多分できないだろう。 アニメオスカルは原作オスカルの死後に生まれた別人なのだ。だから当然二人は違う生き方をする。 そのせいか、アニメベルばらではあまり、自由・平等という言葉が出て来ない。特に主要人物がそれを語ることがない。アンドレが日記をつけているようだか、それではじめて、時代が混沌として何が正しいのかわからなくなっている様子が描かれている。彼もオスカルと同じく、この混乱した時代を客観的に見つめて、戦う者としての自分の取るべき道を冷静に考えているのだろう。 一方オスカルは「崇高な理念」を頭に置きつつも、具体的に彼女が実行しようとした事、それは目の前で弾圧されている「自由と平等を何より求めている」貧しい人の役に立つこと、助けること、ただそれだけだったのではないだろうか。 そう、彼女は目の前の、全く評価されない、自分には何の得にもならない、「自由・平等、それすら勝ち取れないような」ただひたすら弱い者たちの盾となる道を選ぶのだ。 これは大局を見つめるロベスピエールが目的のために民衆の力を物扱いしたのと正反対の考えである。 長い間虐げられた民衆が自分たちの存在・生きる権利に気づき、はじめて情熱を持って立ち上がれるように、新しい世界への扉を開けるのがオスカルの取る道である。 彼女がかつて自分自身に向けた、愛に満たされない想い。今、その愛情を名もない民衆に向けること。 このあとアンドレと結ばれるべく結ばれ、生きる喜びを知ってしまったオスカル。 彼女はその喜びが自分だけではなく、どんなに貧しい者でも全ての人に平等に与えられる権利があることを余計に感じたであろう。そんな一人一人の尊い命を無駄にはできないのだ。それを侵す者は彼女の敵である。 貧しい者も生きる権利がある。 力ある者は彼らを守らなければならないと言う事なのだ。 それが彼女に見えたただ一つの真実だった。 だが不言実行型のオスカルは黙して語らず。これらは推測でしかない。 オスカルの選んだ道は、流血になろうとも理想を掲げて前進する者たちとは両極端にある。彼女は現実の嵐から人を守る事に終始し、理想のために情熱を燃やしたのではない。 議会の中なら「理想」のために戦うことはできたかもしれないが、武人である彼女の戦いは剣を取ることなのだ。人の命に直接関わるだけに、その力の使い道には信念とよほどの決断力がいる。 最終的にオスカルの取った行為にはフランスのためにという、大きな目的がない。 貧しい民衆の盾になるという彼女の行為は大義名分がなく損得がない、つまり欲がないのだ。 今、オスカルに要求されているのは情熱ではなく戦闘力である。彼女はその通りに、戦闘力を提供する。まるで自分の感情を捨て、情熱すら見せないようにして。 単に自己犠牲と言い切ってしまっていいのかと思われる彼女の想い。 当然、理想を掲げなければ人類に前進はないと言えるかも知れないが、民衆の盾になるという彼女の無償の行為(無償の程度はどうあれ)や、隣人を思う気持ちも、未来へ受け継がれていって欲しいと思うのだ。 また、このあとの民衆の団結によるバスティーユ攻撃は、ロベスピエールの計算外のように描かれているが、この政治事件で民衆は自分たちが「生きるため」に勝利しなければならなかった。王室の武力行使に対し、民衆は反逆と勝利で自分たちの権利をアピールしなければならないのだ。 そうなると、武力において国王軍とは比較出来ないほど弱い彼らの為に、誰が救いの手を差し伸べるかという事になってくる。 さしものロベスピエールは計算していなかったであろう(?)が、その先頭に立つのは、オスカル以外にないほど彼女の立場はその「捨て石」にはまり役なのだ。 戦いを起こそうとするロベスピエールの策略と、王室による民衆への弾圧命令との板ばさみ、その他の混乱に巻き込まれたオスカルは結局、貧乏くじを引いただけなのかも知れない。 武力弾圧を命じられた地点で、オスカルはこのまま国王軍に留まるか、民衆に完全に寝返るかの選択を迫られている。 自分で運命を切り開く間もないほど、彼女には次々と過酷な運命が襲いかかるのだ。 だが、たとえ運命に流されても、彼女はそれに立ち向かい、自分の信じた真実を手放さなかった。彼女の強さはそこにある。 又、ラサールの免罪、アランたちの救出などを経て、オスカルは兵士たちの信頼を得て来た。もっとも、アランの救出にオスカルが奔走したことを彼らが知っているかどうかは語られないが、現実、善い行いが必ず報われるとは限らない。病にむしばまれるオスカルのつらそうな様子と、アラン救出の喜びが一緒になった顔を見る者はいない。 それと、オスカルにはアントワネットとの長い間の友情がある。たとえ上下関係であろうとも、二人は共にこの宮廷で大人になったのだ。時代と共に考え方が違って来ても、二人は互いに相手の立場を気遣い、尊重しあって来た。 オスカルにすれば、命をかけて忠誠を誓ったであろう女主人。 かつてはアントワネットの心に到達するほど世話を焼き、精一杯守らねばとありったけの感性を傾けていたオスカル。ひょっとしてあの若き日、アントワネットがフェルゼンと恋に落ちなければ、オスカルもフェルゼンに傾かなかったかも知れない…程、この二人の女性の精神的な位置は近かったと思う。 それら誇らしい遠き日は今でも彼女の心に残っているはずだ。だが、時間が二人を徐々に引き離してしまった。 王妃や、王妃を守る近衛隊に嫌気がさしたのではなく、矛盾した自分の立場に気づき、新しい道を見つけるために、彼女の元から去っていったオスカル。 今更うわべで「お守りします」と言える彼女ではないが、アントワネットへ向ける想いは変わりはしない。 オスカルにすれば、できれば改革は穏便に、そして双方納得のいく方法を望んでいただろう。彼女は最後まで、アントワネットがいつかは考え方を変えて、国王軍を撤退させてくれる事を願っていたはずだ。 オスカルが何より恐れた同じ民同士での流血。それも議会という場で、第三身分という下からの改革が進んでいる時に、王室が武力行使をはじめた事は弾圧にほかならない。 だからと言って、彼女が民衆側に寝返ることは、アントワネットに弓を引くのと同じなのだ。オスカルとて最後までそれは避けたかったに違いない。まして、彼女は忠誠を誓った女主人なのだ。 その人に剣を向けることに、オスカルは何が理由であっても、言い訳は出来ない。それがたとえ彼女の信じた事であろうとも、謀反を起こす事実は忠誠を誓った人への裏切りである。 アントワネットにしても立場上、これから寝返る可能性が高いオスカルを謀反人としてこの場で捕らえることもできたはずだ。 だが、お互いの進む道が違ったことに対して、親愛の情を持った別れという形でオスカルに敬意を払っているのだ。 思えば、フェルゼンとの恋に破れたことを引き金に、離れていった二人。その後のエピソードを通じて二人が徐々に違う道を歩んで行った事は、この別れの場の伏線として語られてきた。 そういえば近衛をやめるとアントワネットに申し出た時、オスカルからカメラ(画面)がずーんと引いていくシーンがある。その究極が今回の決別なのだと思っている。 できればたもとをわかちたくなかったはずのオスカル。だが進言もむなしく、女王の立場を貫こうとする友人に最後の別れをする。 いつかはこうなる運命の二人……。 時代の流れに逆らってまで、女王であろうとするアントワネット。 オスカルの涙は、自分の選んだ道がやがてアントワネットを滅ぼす事を予感していたのだろうか。 そしてその時になっても、彼女を守ることが出来ない自分の命の期限をオスカルは知っていたのであろう。…今、この時が今生の別れである。 ★補足 主要人物たちの肝心の別れの場面と言えば、オスカルとフェルゼンの別れも不意だった。 暴徒に襲われたオスカルを助けに行ったフェルゼンは、この場面で彼女とアンドレの関係を知ってしまう。 ちなみに、ここのフェルゼンの表情がものすごく良い! オスカルが自分に向けたのとは違って、まっすぐにアンドレを愛しはじめている。 フェルゼンの目がオスカルを祝福していているのがよくわかるのだ。 それもフェルゼンにすれば、アントワネットとの恋の行方も見通せない状態なのに、オスカルとは色々あったフェルゼンの事だから、せめて君たちは幸せになって欲しいという気持ちがにじみでている。君はなんていいヤツなんだ!フェルゼン。やはりオスカルが一度は好きになったことは間違いではない! 気になるのはこの後、オスカルはこの件についてフェルゼンにちゃんとお礼を言ったのだろうかということ。普通なら「私のアンドレ」だなんて言ってしまったら、ばつが悪くて顔を会わせにくいとは思うが、せめてお礼の手紙ぐらいは書いただろうか。 それから事件の翌日にアンドレがフェルゼンの無事をオスカルに伝えていて、その次には三部会の訓練前に、これまたアンドレが「スウェーデンに帰国した」と彼女に伝えているだけで、オスカルとフェルゼンのその後の出会いは描かれていない。 ひょっとして、オスカルとフェルゼンがこういう形で「和解」し、わだかまりが消えたあのサンタントワーヌ地区の路地が、二人の今生の別れになってしまったのだろうか。 前述の通り「私のアンドレ」は、冷静なアニメオスカルにすれば意外な発言だとは思うが、フェルゼンとオスカルの二人の間の事が決着したのがこのシーンであると言えるのなら、「私のアンドレ」は必要な場面だったのかも知れない。 又、今回がほぼ出番らしい出番の最後となるアントワネット。 彼女は地位も名誉も財産もあり、夫もいて子供たちに囲まれ、さらに自分のことを命がけで愛してくれる男性がいる。彼女は実にいろんなものを手に入れていたし、ほかの三人が自分の望みがかなわず悶々としているほど、この人って…恋の悩みはどのくらい深かったんだろうか。 フェルゼンがアメリカから帰ってこないことに密かに心配していたのは、片思いのオスカルも「つらさ」は同じだし、やっと帰って来たフェルゼンに対し「結婚せずに私のそばにいてね」と暗に言っているのと同じだし。無意識とはいえ、どうにも彼女の望むままに、他の相手は何か犠牲を強いられている。 まあフェルゼンがアントワネットの気持ちをすすんで優先させたのなら、それは二人の問題なので、私が口をはさむことではないけれど、これも彼女が持って生まれた天性の才能というのかも知れない。 アントワネットは4人の主役級の中で、一番よくばりだったと言ってしまうと批判になるが、よく言えばアントワネットは少女らしい純真な気持ちを持っていて、相手に「求めること」が先に立ってしまったのではないかと思う。 特にアントワネットは後半、主人公の座から遠ざかっていったし、アントワネット側から見た筋道は後半詳しく描かれていない。アニメはオスカルが主体なので、(実は放映回数がカットされたらしく)アントワネットにまつわるエピソードを入れることは、駆け足の後半の展開には難しかったかもしれない。 だが、色々な評判を見る限りでも、浪費をしてきた・民衆を省みなかった・時代の流れを読めなかった・色々と不満を言う前に女王業に精進すれば?など、男女を問わずアントワネットをあまりよく思えない人も居ると思う。 又、ジョゼフのために「フェルゼンと別れてもいい」(フェルゼンの心はズタズタ)と口に出してしまったのを聞いていると、アニメでは家庭の平穏がまず優先されており、その後ろにフェルゼンとの恋愛が成り立つという図式になっている。 だけど場合によっては彼女はやはりフェルゼンにも依存しているし、一体どっちがどう大切なのか、そのあたりのウェイトの置き方がはっきりしなくて、わかりにくいキャラクターになってしまった感もある。 はしょられた話数が今ではもったいないが、アントワネットが自分の行動にどう自覚と自信を持っていたのか描かれていない。そのあたりまで描くエピソードがあればもっとアントワネットの気持ちも理解できたし、オスカルとの対比がもっとくっきりしていて面白かったと思う(特に別れの場面などで)。 それと忍ぶ恋の残酷さ。……因果応報という目に遭うアントワネット。病床のジョゼフに名前を呼ばれないに至っては、少し気の毒でもある。 フェルゼンとの最後の別れのシーンもルイ16世の意地が見えていて、アントワネットはついに引き裂かれている。 彼女をかわいそうと思うかどうかは、視聴者の視点の違いによりけりであろう。 視点は個人にもよるが、特に男には男の、女には女の視点がある。 男性ならアントワネットよりむしろルイ16世の視点に近いだろう。自分のプライドを踏みにじった身勝手な妻を、かわいそうな面を差し引いたとしても、大目に見るのには程度がある。 だがアントワネットにしても後ろめたさの反面、望まぬ結婚をし、夫に男らしさを見いだせず短所ばかりが目に入り、ぐいぐい引っ張っていってくれない夫に失望し、夫婦として調和できなかった不満というものを女性ならわからないではない。 アントワネットが自ら夫と良い関係を作っていこうと努力したかどうかはわからないが、夫の誠意や力量がどうあれ、女は夫をたてなければならない。 親に決められたままに結婚し、夫の言うままに従うという運命に流されるだけの人生は、人間関係がもし上手くいかなかった場合は悲壮である。 結婚によって環境が激変するのは主に女性である。自分が色々な犠牲を払ってでも価値の有る相手ならいいものの、そうでなくてもどうであっても、しきたりとして結婚とは相手がどんな男性であっても折れるのは女性であるという制度に一度は疑問を抱くと思う。 自分の生まれてきた意義を「立派な王妃として人生を全うする」と彼女が思ったかどうかも疑問だが、「相手がどんな夫でも、女はついていかねばならない」というジェンダーに身に覚えなり感覚として感じるなり、アントワネットが全て悪いのではないと身びいきする部分が女性にはある。 原作は描かれた時代のためか「男対女」という図式があると思っているが、その対立を無くしたアニメでさえ、女性として見る側はそこにジェンダーがあるかをチェックしてしまう。 とかく女性は、相手の男を見切るという残酷な面を持っているものだから恐ろしい??? いっそのこと、因果応報であろうが善悪が何であろうがへこたれず、自分に自信を持ち、私がよければいいのよ!運命なんて逆らってやる!と、ジャンヌのように我が道を行く女性だったら、もっと感情移入できたと思う。 ただし、夫婦という男と女の関係は様々である。今後、ベルばらが映像化、漫画化、小説化されるとしても、アントワネットとルイ16世の関係は何通りにでも描けるであろう。 この後、あらすじへ続く。 2002.3.14.up |