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第37話 熱き誓いの夜に

(男として生きた女・オスカルというキャラを把握したい気持ち)

 これは解説を書いている途中にオスカルというキャラクターをどうにか把握したくて、色々な角度から検証してみた試行錯誤の跡である。

 オスカルは「○○な女性だった」という結論から入ってみたり、オスカルが女性であることが物語の上で大事なポイントがあったのではないかとか、オスカルの死の意味は何かとか、とにかく独りで色々と考えた。
私が原作で感じた「男対女」の図式。
オスカルは女だから革命を越えて生きられなかったのでは?という性差をからめた視点で語ってみた。


■オスカル・女性故の悲劇?

 アニメでオスカルが背負ったのが穏やかで非暴力の象徴。一般的な言葉で「女性性」と言ってみようか。
だが、非暴力というものを掲げるのは女性に限ったことではない。しかし、オスカルの死を考えると、非暴力であるべき女性が武力を持つという事によって、(被害妄想かも知れないが)やはりそこに彼女が女性ゆえに死ななければならなかったのではないだろうかという疑問がどうしても浮かんでくる。

 彼女の死は結果なのだが、ではその原因は何か?などと、まず「答え」があってそれから「問題」を探すようなもの(こじつけとも言う)になるけれど、ひとまず「女性だったから」という理由をあげて原因を考えてみたい。
後半の冒頭で述べた通り、この考え方でいくと、たいへん混乱するのである。ここを見ずに、37話のあらすじまで飛ばしてもらって一向に差し支えない。

■ここをお読みの方へ

 この文章は昼休み、通勤中の電車、とかく短時間で集中して書いているせいか、断片的な話のつぎはぎでもあり、自分なりに結論を出すために、わざわざ話を難しく解釈してみたり、ベルばらとは関係なさそうな次元まで入り込んだり、かなり迷路に迷い込んでしまっている。今思えばあと少しで自家中毒になり、投げ出していたかも知れない。
自分との戦いとはよく言うが、理解できないことを解明していく上でのいらだちや焦りというものは、目的があってこそ続けられるがその過程は苦痛に近い。

 表に出す文章はわかりやすい言葉で理解しやすい内容…を目標にしているつもりだが、ここに書いた内容の起承転結は今となれば自分でも非常にわかりづらい。
また、「原作に描かれた性差がどれほどアニメに反映しているのか」という勝手に作り上げたテーマで書いたため「オスカルは女故に死んだ」という結論からスタートしている。
さらにオスカル像については当時、ああだろうかこうだろうかと頭の中でいっぱい考えすぎて爆発しそうだったせいか、中身が盛りだくさんすぎている。

 よって今回、少しは読みやすく一部加筆・削除・変更してみた。
これ以下全文、まったく飛ばしてもらっても解説に差し支えないが、どんな試行錯誤をしたのか?一度ナナメにでも見てみようと思われる方が有れば、お暇なときにでも縦横ナナメ程度に読まれたし。

■原作での「男対女」の図式とは?

★【以下、ここで言う「オスカル」は原作の事】
 これは読者として受け取った側が感じたことで、作者のメッセージかどうかはわからない。一読者としての私が原作を読み、その中に男女の性差に対する疑問の投げかけを感じるのだ。

 物語中、男たちはオスカルに対してどのような気持ちを抱いていようが、とにかく「男」である彼らはオスカル(女)に対してあくまで「人」として接する以前に「男」という漠然とした概念を背中に背負って登場している。また、オスカルにしても「女」という概念を背負っている。
そしてそれらについて、協力関係ではなく「どちらが強いか」という対立関係としての「男対女」を感じてしまう。

 一般的に女性は男性社会の組織の中に入れない。正攻法では無理なのだ。ただ、その代わりに、男たちが社会にがんじがらめになっているあいだをするすると自由に泳ぎ、身分を越えていく。時には国王を手玉に取り、または女王に取り入って、女たちは生きていくためにしたたかに動いている。
オスカルはそれをせずに正攻法で男性社会に乗り込んでいったところは痛快であった。

 たとえばオスカルとアンドレの関係は従来の男尊女卑を払拭しているが、二人は「男女の新しい関係」ではない。
身分も立場もオスカルが上位で、結婚式のこともオスカルから積極的にアプローチし、主導権はオスカルにあり、簡単に言えば男女の立場が逆転しているだけである。
彼女は女としてアンドレに甘えてはいるが、絶対的な強さはオスカルにある。
また時にはアンドレは助言をし彼女をさとしたりもするが、彼が男である以上、オスカルに対して服従する事もやってのけるし、決して主導権は握らない。
オスカルの味方であるアンドレすら「【女】であるオスカルに【対】して【男】という立場で接している」と言えよう。

 アランにしても最後はオスカルに想いを寄せたものの、初期はオスカルを連れ去り暴行未遂事件を起こしている(彼は妹のディアンヌが同じ目に遭いかけたことに対して怒りを持っているにもかかわらず)。
女性から見て、サイテーな行動をとる生き物としての「男」の役を演じているのだ。

 さらに男なら戦いに血を燃やし勝利で終わる物語を、彼女が女であるが故に勝利は認められないのではないかという不安がある。
たとえオスカル主導での勝利があったとしても、革命後に確実に彼女が主導権が得られるという保証は本当にあるのだろうか?
地位も名誉も身分も失ったオスカルに対し、世間の目は温かいのだろうか?
女は家庭を守ればいいという男社会の中で、オスカルの指示や命令を男たちが聞くのだろうか?
(まぁ、これを言いはじめるとオスカルが女性ながら軍人になったことからして無理だということになってしまうのだが)

理想を現実化するのは「社会」の中では男のプライドにかけても「男の役割」なのではないだろうか?(女は引っ込んでいろ?)
それにアンドレの妻となったオスカルの仕事は指揮官ではなく、他の女たちと同様、家事になるのだとしたら、現実的すぎて見たくない……などなど。

 するとやはりオスカルの戦いは将来を担うのではなければ、自己犠牲という前提ではないかと思えてくる。
原作の連載が進むにつれて、ひょっとしてオスカルは死ぬしかないかも…と、理屈より前に誰もがそう感じたのではないだろうか?

 また性差というものは時に男性からではなく、身近な女性からも「認める」ように強要される。
オスカルは自ら女性らしくふるまうことを否定をしているが、読者は、男性と対等もしくは上位の立場でふるまうオスカルに対して、性差を感じず優越感を持って見ことができた。
「いっそほんとうの男性ならどれほど楽だったか」という言葉に代表されるオスカルの女性否定は、えらく共感が持てたものである。
ただ誤解がないようにしたいのは、根本的に女性否定する事がテーマではなく、幾分かは描かれた時代の風潮でそういう「描き方」になっている部分もあるだろう。

 だが当時ベルばらを読んだ読者(少女)には、女性だからと言ってひがむことはないというメッセージは充分伝えられたであろうし、オスカルが読者にエールを送ったことは間違いない。
また、女性(少女)自身が性差とは何か、それはどういうものかを考えチェックするきっかけにもなったであろう。
★【ここでいう「オスカル」は原作の事・・は以上まで】

■「女性性」の強さ

 一方アニメの物語が訴えているのはオスカルが持っている非暴力の強い意志と「人の命は大切にしなければいけない」という理想。

 戦いを主体とする物語の中では、女性は常に平和や安定の象徴として描かれることが多い。そうなるとどうしても、戦いや冒険に挑んで行く男性に比べ、女性はそんな男たちの装飾品になってしまうのだ。
がしかし、既製の男らしさ女らしさをわかりやすく描くとそうなってしまう。オンナの子はちやほやしてもらえるのは良いが、登場人物は全て、男に都合のいい女の子ばかりのようなのである。すると見ていて、やっぱし女ってつまんないのだ。

 男には「前進・未来・勇気」みたいな前提が引っ付いてくるし、女には「守備・現在・忍耐」みたいなものが付いてくる。どうしても男らしさの前提の方がダイナミックで派手。
だからサブギャラとしての女性の登場人物を見ていても、現実的すぎて引き付けられる魅力が少ない。

 そんな中で女が主役級の男と肩を並べるには、「前進・未来・勇気」以外の派手な力を持つしかない。そもそも体格的に劣ることをカバーしなければならない。
まず簡単なのは、物理的な力をしのぐ派手な超能力を持つことだ。そのために女は聖女として平和のシンボルになる。

 原作オスカルはそれをせずに一人の人間としての主役をまっとうしたことに意義があると思う。ただし、当時の時代背景なのか、一人前の人間であるためには、まず男でなければならなかった。制度は良くも悪くも男のためにある。人としての権利があるのは男のみ。人イコール男であり、女は人ではない。女は身分制度にすら入っていないのだ。

 よって、原作オスカルには既製の男性的な資質が求められ、「男のように考え、男の姿をする」という前提がつきまとっていた。そのことにより彼女は社会的にも優位に立ち、時には麗人として少女たちを翻弄し、現実的な女性としての不利な点が削除されているのである。

 アニメオスカルはどうかと言えば、見た目としてはもう一歩で聖女になりそこねたと言う感じがする。男の姿をしていても、彼女には、荒々しく戦いにのぞむような既製品の男性的な資質が少ない。武力に対して極力非暴力を通そうとする彼女の姿勢はあくまで女性的に見える。

 ただし、彼女の理性・思考、発言・行動は非常に男性的。
全体を見てアニメオスカルは女性的ととらえられがちだが、「一般的にいう男性的な部分」あるいは「一般的にいう女性的な部分」がどうかと言うより前に彼女の個性としての「理性」が強い。
革命に対する、司令官としての彼女の行動を、そのまま美青年が演じても遜色は無い(つまり、困難に立ち向かう姿勢はそれぞれの個性であり、特に性別にこだわっていないという演出だと思う)。

【特にアニメ後半、ベルナールはオスカルのような切れ者を欲しいと言っている。一般に「男性主体」と思われがちなアニメにおいて案外、性差による男対女の図式はない。彼が革命後もオスカルが必要だという事を暗に言っているのは興味深い】

 たとえば、「女性的なもの」が本来、「男性的なもの」と同等で、二元的なものとすれば、男性的な「暴力や破壊」を抑制する力が女性的なものと言える。
そして、その「女性的なもの」は時として聖女の超能力として描かれる。平和を祈る聖女は奇跡を呼び、自己犠牲により世を救い、しかし一度死んでも必ずパワーアップして復活してくる。それは平和や愛というものが何より強くあってほしいという作り手側の理想でもある。
物理的な力(権力・暴力)ではないこのような聖女の力を、目に見えない力、「聖なるもの」として描かれることは多い。
アニメオスカルの、いかにも男性的ではない行動を「暴力を抑制するもの」とすれば、彼女は聖女により近い。

■女性性・聖女と聖母・・・自己犠牲

 それと、アニメオスカルの場合、聖女よりも強さを感じる聖母のイメージも捨て切れない。
謙虚にへりくだり、全てを許し、全てを受け入れる絶対的に強い愛情。一般的に女性が持っているとされる美徳。
だが、とことん聖母とオスカルを結び付けると、女性が「女らしさ」という枠をはめられ、自立の妨げとなる思考を植え付けられた事と混同してしまうので、あえてオスカル=聖母であると断言することは避けたい。

 自分の感情が女らしいと感じた時、それが自発的な感情か、植え付けられたものか、よく考えてもわからないことは多いが、女性がそうあるべきとされてきた柔順・謙虚・寛容といった態度。
男性の理想像としての「聖母」と言ってしまえば身も蓋も無いが、オスカル個人の個性として彼女が謙虚さや寛容というものを強い武器として持っていたと解釈している。それは彼女が女だったからなのか、人間だったからなのか…と言い始めると、これはまたまた混乱の元になりそうだが。

 さて、おきまりの聖女の第一印象は「結果はともかく、流血なしに争い事を決着しようとして非暴力で立ち向う」のである。さらに「人の為に命を失っても必ず復活してくる」という一つのパターンがある。
聖女は、自分に出来る最善を尽くし、命をかけた結末、復活する。この死からの再生による希望は、見る者に安堵感を与えるのだ。

 「聖女は復活し、世界は希望のうちに幕を閉じる」というものは、物語の一つのパターンなのだ。その結末を知りつつ、我々も最後に幸せになれる物語を楽しむのである。
それは非暴力の尊さを象徴しているのだろうが、現実問題、オスカルは平和を祈る者らしくない武力を持っていたし、最終的に剣を取って戦いに身を投じている。そこが聖女ではなく、人間オスカルとしての現実的な描かれ方だったと思う。

 オスカルの死がわかっているベルばらに幸せな結末を望むのは我がままなのだが、アニメの経過を見る限りでは「このオスカルが復活しないはずがない・報われないはずがない」と私は思い込んだのである。
だから最終回の彼女の死後、私が味わった喪失感は、聖女は復活するという期待が壊され、「予想していた結末」にならなかったことに対する見る側の「戸惑い」がある。

 もしオスカルが男だったら、復活は予想しなかったかも知れない。
女だからこそ、期待もされず、男と違って社会の中で常に認められない・はみでた存在だからこそ、生き残れる、死ぬはずがないという「女だから大目に見てもらえるのでは」とどこかで思っていたのである。
 だが、架空の話ならお決まりの復活を果たすべきところを、彼女は現実味を帯びた人間として、完全に息絶えている。途中まで聖女と同じような経過をたどっていたはずのオスカルは、最終的に復活などせずに、現実的な死によってこの世から失われる。

 ただ原作との描かれ方の違いから、アニメのオスカルの死は原作とは違う印象がある。
原作からベルばらに入った者とすれば、女性を一人前の人間(ただし、男性としての資質が求められていた姿)として描いてあった原作が、アニメでは女性的(聖女に近い)だったので、原作でせっかく目の前にまで迫って来ていた「女性も人間である」という実感が、アニメでは再び遠くへ行ってしまったと感じる人もいたのではないだろうか。

 一般社会もしくは男性社会の手に一度この作品が渡ってしまえば、原作は男性の視点に変えられ、オスカルは男から見た理想的な女性像へと変えられ、少女たちが勇気づけられた「人間オスカル」という描かれ方は削除されてしまった、という考え方もあるだろう。

 だが実際には、違った特徴の性を持つ男と女…男にも男の意地があり、女にも色々な壁がある。一人の人間を描こうとしたら、それぞれの性がたどって来た歴史も文化も切り離せない。それを踏まえながら現実の中で生きていく人間の物語を描くのであれば、オスカルはたとえ男であろうが女であろうが、物語の中で絶対的な立場の強さなど持てるはずもなく、世の中の中心になれるはずもないのだ。

 そして男でもなく女でもなく、まず人間として個人として革命を前にして、どう立ち向かったかと言う考え方からすれば、アニメオスカルは「聖女」ではなく、女性らしくて弱いとされてきた性差、例えば「誠実さ・優しさ・感受性・忍耐」などの強さを男たちに示し、その「弱者を守ろうとする誠意」で、さらに彼らを共感させてしまったというすごさがある。

■母性と「産む性」としての女像性…母性のオキテ

 では彼女の「人を守りたい」気持ちはただ単に「守られたい」気持ちの裏返しかと言えば、それだけでもない。
後半はどうも母性的に見えるオスカル。
だが、漠然と母性って何かと言われても、目に見えるものではないし、ここでは単に私の主観でしか語れないのだが…。

 主に体験に基づく感情。
 弱者へ向ける保護の感情・感性。
 もしくは徹底的に保護し、守る行為・理念。
 または生み出す力そのもの。
 そして弱者を守るために牙をむく生存本能。
…などだろうか。

もちろん、オスカルに子供がいるわけじゃないのだけれど、彼女のイメージとして、ただ女性的と言うだけではまだインパクトが弱いような気がするのだ。
アニメはマンガと違い、動き・話すので、彼女はどうしても女性の声だし、歴然とした体格の差もある。
 これだけでも原作より女らしく見えても仕方ないのだが、それ以上に彼女が自然と自分の「産む性」を意識していたような気がするのだ。

 男女の性質違いとして女性特有の「産む性」。この性質によって、女性には直接身近なものに対する感性が優れているとか、弱いものへ向ける慈愛の目、又は弱者を守ろうとする感情が強いと言われる。
だが、この産む性を持つことによって、社会の中では一般に言われる「理想の母性(女性)像」という虚像と切り離せなくなるのだと思う。

 女性性の中でも際立っているのが「生命を生み出す能力」である。これを単に「自分が持っている能力」ととらえずに、「自然の摂理から授かった能力であり、自然の力がそうさせているだけで、自分で仕組んだものではないもの」と考えてみる。
「生命を創造する神秘性」という考えからすると、この「母性」は男性的な「破壊力」と対立するものとして位置づけられ、世の理想として「破壊力」よりも勝っていて欲しいという願いが込められている。

 女性がそうと意識して持って生まれたのではない能力、その力を人知を越えたものとするのなら、「生命を生み出す力は生命を奪う力になってはいけない」のだ。まして女性性には「守り育てる」という、「戦い破壊すること」とは相反する性質がある。
 普通、母性とは人を守り育てる慈愛に満ちたもののはず。理想の形として、生み出す力は命を奪う力になってはいけない。…この考えから言うと、母性は本来、争いや攻撃からは両極端にあるはずのもの。
 よって一般的に「母性」は、特に女性に強く求められている資質なのである。
これは、女なら優しくて当たり前…というものだろうか。逆に男なら強くて当たり前という「らしさ」の押し付けもあるけれど。

 当然この場合の「母性」をオスカルに当てはめようとしても、彼女には自分の子供がいないので、直接我が子へ向ける愛情や保護とは別物である。
又は、子を狙う敵への攻撃すら辞さない生存本能とも区別した方が良いだろう。とどのつまり、攻撃すら辞さない意志までを含む、あくまで理性の範囲内での「寛容・守る・許す」等という実際攻撃性のない理念…というものだろうか。

 この「弱いものを守る」という強い意志・概念を強調するために女性性と言うよりも強いインパクトを持ち、男性性に対して対抗できる概念としての母性。その中から徹底した守りの姿勢のみを取り出して、…少し乱暴な結論だが「聖母性」とも言うべきもの…をこの場合のオスカルに求められた「母性」だと仮定してみる。

 そしてオスカルのように、誰かを守るために立ち上がった者を、これを「戦う母性」とする。
だが平和の理想形として、「争いに勝ち残る事によってしか問題は解決しないという事実」を否定しようとすれば、オスカルは戦いに勝ち残ってはいけなかったのかも知れない。理想形の母性は「破壊力とは両極端」に存在し、本来、戦ってはならないのだ。代償は当人の死である。

 戦う母性は存在してはいけない。その存在は本来母性とは両極端にあるはずの「戦い」が、問題解決に至るもっともな手段であると証明してしまうのだ。
彼女が死ぬことによって、「母性」は元の穏やかな性にかえり、また彼女を失った痛手により、戦いは尊い犠牲を生み、平和な未来への唯一の手段ではないという証になる。

■理想像の母性

 とは言え「生きることは戦い」である現実には、生き残るために母性は攻撃性もあるだろうし、荒々しい面も持っているはずだ。決して一面的なものではないし、どれかの一面だけを理念扱いして強調するのもどうかと思う。
 ………ただここでいう穏やかな「聖母性」が果たして戦闘的であってよいのだろうか。そして争いがなくならない限りは、どんなに崇高な理念も愛も全て、最後は戦いでしか勝ち取れないのだろうか。それが生きていくということなら、素直に勝利は喜べない。

 だが、オスカルを通じて感じたのは、この母性の中でも攻撃性を省いた徹底した守りの一面(聖母聖)を取り上げることによって、「武力によってしか人の世は前進しない」事への抵抗と「人の命への慈愛」という理想を貫いた事である。

 そして、弱者の命を暴力から守る意志の実行は、すなわち攻撃にほかならない。攻撃はアニメオスカルの信条ではない。彼女が人の命の大切さを訴えれば訴えるほど、それを守ろうとする姿勢が、命の奪い合いである「戦い」と矛盾する。
ここが原作と違い、アニメの話の中では、こうして彼女が「非暴力の信条を捨てて戦ったこと」で「理想の母性像」の掟破りの罪がかかってくる。

 もし、これが別のタイトルのアニメであったなら、オスカルは戦いに生き残り、血で汚れた両手で我が子を抱き、それでも生きていくたくましさ、人としての悲しさを表現できたと思う。
彼女が実体験として、攻撃も合わせ持つ生存本能としての母性も持ち合わせていれば、彼女は何が何でも「我が子の命」を守るという直接的な「信条」を持って、戦いに飛び込んだであろうし、理想の母性を背負わずにすんだのだから、死に至る理由はここでひとつ、なくなっていたはずである。

 こう考えれば、彼女に実際子供がいたら、少なくとも我が子のために、直接愛情を傾け、普通の人生を送ったのではないかと思われる。
ところがそうなれば、社会の持つ女への壁として、女性は子供を守るという直接的な理由でしか戦えないこと(その善し悪しは別として)の証明になるだろう。

■物語の女性は個人の個性とは別に母性の有無を考慮される

 それと、オスカルの信条である「非暴力」と、ここで言う「母性」は、やはり分離したものだと思う。
オスカルは、すぐにでも「母親」として機能できる(生身の女性らしさがある)資質を持っていると思われるし、いかにも穏やかで「非暴力」的なイメージは女性性の中に入りそうだが、非暴力性を母性の中にねじ込んで解決するのは安易過ぎる。

 なぜなら「非暴力」だけなら当然、男性であっても信条として持っている場合がある。突き詰めれば「概念の母性」を、敵も含めて全てのものを「許し・守る」ものとすると、もう女性性の枠に入り切らないだろう。
ただ「一般的な男性性=戦闘・破壊」と同等に「一般的な女性性=慈愛・守り」というものを強いものとして見なし、さらに「女性性=特殊なもの」として、社会が女性の中に求めているのではないだろうか。

 だから色々な物語で聖女がよく登場するのもそのためかと考えたりする。
と言うものの、ここで誤解してはいけないのだが、この作品は決して女性に「特殊なもの」を押し付けているのではない。まして女性が母性を持っているのなら、女は非暴力・柔順であるべきだと強制しているものでもない。現実にある男性優位の風潮がそのまま、ありのままの現実として作品中に描かれているだけである。オスカルはそれを理解し、人との関係を考慮して行動しているにすぎない。

 それと、「産む性」だから女性なら誰しも母性があるかという事になると、もうそれは別の話であるし、そうなると、そもそも母性の存在や定義から問われなければならない。なら長々と、あるのかないのかわからない母性についてなぜこんなに手間をかけたのかと言えば、オスカルの中にある「戦いを避けよう・生命を大切にしよう」と働く気持ちを何か良い言葉であらわしたかったのである。

 本当なら、それが真の女性の強さである、と断言したいところである。だが、強い人間に性別は関係はない。
実際にオスカルも、男性的な強さや女性的な強さというより前に、彼女は人間の強さとして「非暴力」を訴えているのだと思う。

 だが、その「非暴力」は社会の中で、理想の母性像と強く結び付いている。
武力や統率力などの男性的な強さが強調される中で、いかにして女性的な知恵や奉仕という「地味な」ものが強いと証明するのか。それを物語の中で語るには、女性の強さとして表現するのが世の常なのである。
これを現実の男性優位の枠の中で語ろうとする時、女であるオスカルは「非暴力」掲げたばかりに、社会の通説という形で理想の母性を背負うことになり、自己犠牲の末路をたどるのである。

 もちろん、男性にも同様の感情はあるが、そういう地味な部分は女性が担っているのだ。
ただしアニメの物語の中で女性は女性的な強さを先天的に持っているのか、とか、男性性に対抗できる女性性というものの存在については、肯定も否定もされていない。

■女性の描かれ方は、女性性を意識してある

 …とまあ、だんだん話がベルばらからそれてしまっているが、私が色々と考えはじめた発端、そして結論として、オスカルは武力で戦ってはいけない人だった。命の奪い合いによって真価を発揮する人ではなかった、と言う事。
又、「オスカルは聖女になりそこねた」とこの回の冒頭で述べたが、彼女は自分の意志で聖女にも聖母にもなろうとせず、地上でうごめく一人の人間として生きようとしたのだと思う。

 それと、もし非暴力の信条を捨てて戦ったのが男であれば、「生きるとはこういうことだ」の一言で説明がつき、オスカルのように死ななくても済んだのではないだろうかとも思う。男社会の中では、どう生きても元々「男の生き方」は自由なのだから。
 そう、男でさえあれば戦いの勝利も自己実現になるのだ。敵を征服し、闘志をみなぎらせて自分の勢力を拡大する事。ここで言う自己実現…「自分の命の強さを示す」行為は目に見えてはっきりとしているが、男であれば男性社会の中では戦いに勝つことによって目的の達成と満足感を得ることが出来るのだ。

 そうするとオスカルの「徹底的な守りの戦い」のように、目的が自己実現や征服ではないとすれば、ただ悲壮なだけになってしまう。悲壮感…「生命を守ることの壮絶さ」とも言えるかも知れない。
これは男性の視点から見た理想の女性像かも知れないし、誰ともなく知らず知らずのうちに植え付けられた考え方かも知れないが、「聖なるもの」としての究極の「母性」の存在を、一般的な傾向として、せめて物語の中だけでもいいから希望しているのではないかということだ。極端かも知れないがそれは「平和」への願いにも通じていると思う。

 この事はやはり、女性の「生み出す能力」と言う根本から由来している。
穏やかな女性性が平和を象徴するのなら、母性を前面に押し出したアニメオスカルは女性として社会の求める「女性像」の枠内に留まらざるをえない。むしろ物語のテーマからすれば、現実を描く中で、彼女が「女性像」の枠内に留まると言うので有れば、反対に女性性の強さを誇るものと言える。

■矛盾を抱えた現実

 結局、彼女が軍服を脱がなかったのは、世の中に戦いがなくなる日まで、母性すら武装をしなければならない事を訴えていたのかも知れない。それが、母性の掟破りであり、彼女の命を削り取るものだとしても。
だからこそ、この一連の行為を女性が命をかけてやってのけたことで、余計に悲壮感が漂うのである。

 女の人生を生きるだけでも大変なのに、男の理想まで背負い込んだオスカル。
反対に男が女の人生を生きるという事は聞いたことがないというのに…(実はあったりして)。
頭で想像する分には女は男より生き方に幅があるようだけど、現実に女が男として生きると、女性性を持ち続けるのも苦しいし、捨ててしまうのも覚悟がいる。
元々、女の生き方ができない(あえてしない)とわかり切っている男のほうが人生、割り切れていいのかも知れない。

 だが争いが有る限り、オスカルのように本来防御に回るべき者すらその力を攻撃に変えなければならないのだ。
そうでなければ現実問題としてオスカルは防御にのみ徹底して、ただ、殺し合いを目の当たりにして涙するだけか、もしくは無抵抗のままに守られるもの諸共に滅びるしかないのだ。どちらにしても彼女は死ぬしかない。

 そもそも物語の悲劇は、彼女の力が戦いに向いてしまった事なのだが、本来、戦い(男性性)がやがて終末へ通じるものなら、非暴力の母性(女性性)はそれを阻止するためにあるのかも知れない。
 これらを、やはり二元的なものとするなら、女性には戦いの勝利は与えられない。それは母性というイメージが女性の中にある限り、かわらないパターンであろう。

 女性を主人公にする場合、彼女に直接命を生み守る「産む性」を持たせるか、あるいは男性主人公のように「産まない性」を持たせるかでかなり違ったものになるのだろうが、アニメオスカルに「産む性」を持たせてあった(と思う)ことは個人的には良かったと思っている。
 又、アニメ作中で彼女自身が「男に生まれたかった」と言わなかったのも有り難い。どんなに自分の女の感情を否定しようが苦しもうが、背負って生まれた性を背中から下ろしたがりはしなかったのだから。

■生み出す者さまざま

 さて、この辺でそろそろおさらいしてみよう。
アニメ・ベルばらの世界の構成は、現実味をおびた空間の中で、キャラクターから少し離れた所から見ている客観的な視線になっている。
女性本位だった原作が、演出の違いによって再び男性本位にならないように、どちらから見たのではない中間地点に視点を置いた措置だと思う。
 だから彼らのモノローグはあまりないし、我々は彼らの行動を第三者として見つめることになる。彼らの大切な思いは言葉にはなっていないのだ。

 そこで、オスカルは何を考えていたのだろうかとついつい想像してしまう。
だが、たとえばオスカルが母性を持っていると言うと、どうしても忍耐とか従属とか順応性とか、普段認めたくない現実の女性の立場を思い起こすようで、アニメのオスカルの描かれ方がどうしても納得できない人もあるのではないかと思う。
 オスカルの「人を、命を守りたい」という感情は女としてのものなのか、それとも性別に関係なく理想として持っていたものなのか、これは物語を見た者の主観に任せるしかない。

 それにこの「産む性」により、実際女性には、男性にない感性・感情を持っている…かどうかという事も物語の中では問われていないし、オスカル自身もそれについては語らない。生産する事を取り出せば、たとえばクリエイターという仕事も男女を問わず「生み出す」力なのだ。

 ただ見た目も雰囲気も彼女は女性的なのである。
だが女性の中でも考え方はさまざまある。それに自分が女だからといって、女とはどういうものか、などと普段深く考える事もない。

 又、女性を主人公にした物語は女性にしか描けないのかという疑問もある。
逆を言うなら、男性を主人公にした物語は男性にしか描けないのか?という事になり、きりがない。
そうするとやはり性別の前に、人間としてどう生きるかという所から物語は始まる。

 はっきりしているのは、オスカルが母を体験していないこと、そして彼女が自立した大人として「守る」ものを探していることだけである。
ただ、私の主観として、彼女が我が子へ向ける感情は持てなくても、小さい者・弱い者へ向ける愛情が、女性特有の資質であっても良いと思っている。
思想や理想のためではなく直接的なもののためにしか戦えなくても結構である。
女性神話と人は言うかも知れないが、そもそも自分に有るものと無いものは性別によるというより人さまざまとしか言いようがない。

 解説では彼女の信条である「非暴力」と、一般的に言われる「母性」は別のものとした。
だが、オスカルには女であって欲しい。
女として弱く、女として強く、持って生まれた性を大事にすることは、自分の人生を大事にすることであって欲しいのだ。その為に直接的な目的で戦うのならそれでも構わない。人の強さの基準は「男らしい」ことではない。
あのアランでさえ妹の死に打ちひしがれ、半年も隊に帰らなかったのだ。
それを思うと、アンドレの死を現実のものと受け止め、その厳しい現実から逃れることもなく「人を守ろう」としたオスカルの責任感の強さには脱帽である。

■オスカルは普通の女

 ではここでひとつ、オスカルは普通の女として戦った、あるいは、一般的なイメージの「女性」として描かれていたとして考えてみよう。
オスカルが女として動揺させられてきたアントワネット。オスカルにはない体験の母性を持っていたはずの彼女。まして二人は同い年。運命によって、子を持つ者と子を持たない者となった二人の、女としての生きざま。

 母親としてのアントワネットを通して、「我が子を守りたい」という体験の母性と、オスカルの「人を守りたい」気持ちとを対比させて描いてあったら面白かったのではないかと思う。
それに少し触れているのは、プチトリアノンでマリー・テレーズと遊ぶアントワネットを目の前にして、忠告ができなかったオスカル。
アントワネットが、我が子とのささやかな幸せを守るためにプチトリアノンに逃避したのであれば、彼女は命をかけても我が子を守るであろう。

 母親として我が子へ向ける愛情は、愚かなものではない。
弱者を守ることがオスカルの基本であるなら、彼女の考えとアントワネットの我が子への愛情は同じものなのだ。それを一瞬のうちに感じ取ったオスカル。忠告は喉元で止まってしまっても当然であろう。この場面を見る限りでは、オスカルは女の感性でアントワネットの母性を見抜いている。

そして同時に、自分にも「産む力は備わっている」事を確認させられたのではないだろうか。ましてオスカルには身を分けた子供はいない(確かに子供を産まない選択も現代にはあるが…)。
彼女の女としての孤独。残酷だけど、すごく現実を感じたシーンだった。

 オスカルにはアンドレという同志はいても、直接彼女が母として責任を持って守るべき「我が子」はいない。どちらかと言えば、身を分ける事が決してない男性の「産まない性」の孤独を感じてしまう。
男として理想を掲げて生きようとすれば、女であること(本来の自分)を切り捨てなければならない。さらに実際、男になりきって愛する女を守ることもない、という中途半端な立場に気が付いたオスカル。

 男にも女にもなれない孤独の中でも尚、彼女の感受性は直接守る者があるのと同じように感じ、守ろうとする強さを持つ。
そして彼女には愛情を注ぐ相手が「我が子」などの具体的な対象ではない分、それは抽象的な理念となる。
しかし本来、理念などの抽象的なものより、目の前の現実に対する感受性を優先しているはずのオスカルなのだが、彼女には直接守るものはない。

 又、だからこそ、与える愛情が特定の個人に限定されず、敵味方を含めて広い範囲に対してとめどなく広がってしまう。つまり彼女は「戦いが人の世を前進させる手段ではない」と訴えるのだ。

 もし「体験の母性」が直接の体験を伴う感覚・感情とすれば、オスカルが心で感じ取った「概念の母性」は理想として持つ理念。
とすれば、この概念は「母性」に限られず、理想を追求するという男性的な資質と言えるかも知れない。
そしてこの部分だけ、オスカルが男性的な資質を持っていたとすれば、体験がないために感情より理性が先行したからであり、彼女が女として母親を体験できなかった環境、男として育って来た環境によるのではないだろうか。

■生命の連鎖の外で…

 オスカルの立場は、「守る責任」を背負う資質を持ちながら実際は「責任」がない分、生き残るための終わりなき直接的な血みどろの争いからはずれていて、それだけ精神的な意味の母性を背負っている。あらゆる意味の母性から実際に生き残る手段を取り除いた、攻撃性のない概念としての母性が彼女に残されるのだ。

 しかしどんな戦いにしろ、必ず敗れた者は滅んでいく。
…たとえ、勝ち抜いて生き延びても、必ず犠牲を伴う「生き残るための生命の連鎖」の勝利者は、人の世の悲しさに笑えないであろう。

 相通じる感情を持ちながら、二人を隔てる立場の違いと経験の違い。
アントワネットにとっての正義は子供を守ることであり、彼女はオスカルと違って、「生き残るための生命の連鎖」の中にいるのだ(もちろん、あくまで女性は守るものがあってこそ戦うという前提ではあるが)。
ところがオスカルには守るものがなく、一人の女として「生き残るための悲しい生命の連鎖」からは、はずれた所にいるのだ。
敵を倒してまで特定の誰かを守る責任がないオスカルは、基本的に「個」として単体なのである。

 我が子のために戦いをも辞さない母親と、戦いを回避しようとするオスカルの「非暴力」の信条(これも母性と呼ぶべきか)。これでは袂を分かつのも仕方がない。
この事も、体験による「守りたい」という主観的な感情と、「守る」という体験のない客観的な理性との違いだろうか。
前話のことになるがアントワネットが権力に執着したのも、やはり我が子の王位安定という事があったのではないだろうか。与えられた運命によってフランスの王妃となり、世継ぎを産んだ彼女の人生を否定したくなかっただけではないと思う。
よって二人の運命の分岐点は、性格だけの問題ではない。守るもの、信じるものの違いに原因があるのだ。

 それと、望んだものは何でも自分のものにしてしまう「求める女」アントワネットと、生きることは自分を使いきることだとする「与える女」オスカル。
王族としての生き方にプライドを持ち、子供を守ろうとするアントワネットの現実的な強さ、そして自分の道を信じるオスカルの強さ。
同い年、そして共に育った女性同士の対比としてこの二人は非常に面白い。

■壁にぶつかる理想と現実

 「非暴力」の信条を基本にしているオスカルは、女性的な慈愛に満ちた母性を感じ取り、又これとは別に、男性的な意志の貫通力(弱者を守るための武力の実行力)を持っていたのではないだろうか。そして、この両極にある二つを持つことによって、彼女は生きるうえで最良の策として「非暴力」を信じる気持ちを育てたと言えないだろうか。

 だがこれら二つの、本来、両立できないものを合わせ持つことによってオスカルの中で矛盾が生じてくる。この矛盾をかかえたオスカルは理想と現実のはざまで、迷わず現実(武力の実行)を選んでおり、ついには理想の尊さを証明するために抹殺されるのである。又、理想を選んでいても、現実(武力)によって殺されてしまっていただろう。

 これは原作オスカルが、男性的な主体性や意志を持って、心ゆくまで情熱を燃やし、さらに女としても愛する男から庇護されるという男と女の性質の「イイトコ取り」をしたこととは全く異なる。
又は原作と違って、男として育ったオスカルが「理想の母性像」を背負っていたことの不利な点である。原作では深く描かれなかった「産む性」という性差を、ここでまともに受けているのだ。

女性であるがゆえに原作ですらオスカルには未来はなかった。とすれば、アニメオスカルはその上にさらに女性性としての限界にぶつかり、原作以上に死ななければならない条件がつきまとうのだ。
男性的な理想を理解し、同時に女性的な現実を見る目を持つアニメオスカル、この二つを持つことは決して幸せなのではなかった。

その彼女(アニメオスカル)は弾圧を仕掛けた強者に対して、民衆の盾となるために自分の「非暴力」という信条を捨てて戦いを挑んでいる。これは原作のオスカルが、自分の信条のために戦ったことの裏返しなのだ。
そして原作オスカルが自分の信念のために命を引き換えにしたのなら、アニメオスカルは人の命を守るために自分の信念を引き換えにしている。と、これも又、逆なのだ。

 だが、原作とアニメという二つの物語は、いずれにしても巨大な敵に挑む勇気、人が生きる上で何を信じ、何に立ち向かうかという意志の強さの物語であることに変わりなく、原作通り、最後には死に至る滅びの物語である。
つまりアニメオスカルが身をもって示したのは「人はいかに生きるか」という精神的な部分である。

 この物語の根底にあるのは、一人の気高い女性の「生きざま」である。それはオスカルの性格がどれほど変わろうと、原作の持つ物語の性質そのままをアニメも踏襲している。
ベルサイユのばらの基本形は、人が「個」としての命を守るために、敵を殺してまでも自分が生き残る話ではない。
 自分が生き抜くために、又は誰かのために、もしくは我が子を守るために母性が凶暴性を帯び、手段を選ばぬ戦いに果てしなくのめりこんでいく「生き残るための、終わりのない生存競争」を描いているものではないのだ。

 アニメベルばらは、悲しい生命の連鎖そのものへ対して、理念を信じて立ち向かった、一人の女の気高い精神の物語なのだ。もしくは、自分の人生と生命をかけて、生きる目的を追い求める精神的な物語なのである。

■オスカルの敵

 彼女が敵に回したのは「命の奪い合いを必至とする、血にまみれた生命の連鎖」だった。
だがオスカルは最後には信条を捨てて、人の命を守るために、敵対しているこの「生命の連鎖」の中に自ら飛び込むことになるのだ。しかし結局「非暴力の象徴・概念の母性」は戦ってはならない法則に従って命を落としている。いや、理念が正しいのだという希望を残すために、オスカルは死ななければならなかったのだ。

 だからこれは、「避けられない戦いの中で、生き残ることを大前提とした、生命の連鎖を悲しむ物語」又は、「生きていく生命力の力強さの物語」とは異なるが、生きることの難しさを描いている点では、これらの物語と同じことを訴えているのかも知れない。

 又、オスカルの非暴力の態度からわかるように、この物語は一般に言われている女性性の持つ「非暴力」という性差を力として描き、真正面から肯定した。
人の世の前進に武力は必要ないはず。そう願う気持ちを「女性的な強さ」として表現してあると言える。いや実際、これは男女の問題ではなく「真の人の強さ」と言う方がいいだろう。

 男性的な強さばかりが強調されてきた色々な物語の中で、「非暴力」の強さを表現するのに、武力を持つ女・オスカルははまり役だったのかも知れない。
そして概念の母性を持ったオスカルだけでなく、ロザリーもジャンヌも強い。女は弱くないのだ。それはオスカルが主役でありながら、回りの女たちも個性豊かであったことを思えば納得できる。アニメの制作は男性による演出だと言うが、登場する女性脇キャラが原作よりも妙に強くてたくましいのは、興味深い。

 巨大な敵、又は自分の運命に立ち向かった壮絶な彼女のひたむきな生きざま。
人の命を守ることと引き換えに自分の信条を捨て、そのためにふりかかって来た苦難にもめげずに立ち上がって来た超人的な強さを持つオスカル。そんな彼女の生きざまを描きながら、普通の人々であるアランたちが彼女と触れ合い、かかわりあい、オスカルの人間としての意外な横顔・一面も時折描いてあるのが後期の特徴である。

 もし原作オスカルがイイトコ取り(もちろん、壮絶になってくる7月13日からのことは省く)ならば女にとっておいしい話であるし、感情移入しても優越感に浸れるのだが、下手にアニメオスカルに感情移入をしてしまうと、テーマが重くて立ち直れなくなる。苦難が次々襲いかかるアニメオスカルを見ていると、同じ女性としてつらくてやり切れない。ついつい「女性に優しいベルばらを!」と叫びたくなる。

 以上、オスカルは母性的に描いてあるのではないかという観点で考えてみた。全くどうにも、社会でがんじがらめになっている男性も大変だが、女性も大変なのだ。



■後記

この文章を後から読み返すと、「女だから死ななければならない」という事にしつこくこだわっているのがよくわかる。
さらに、アニメでは原作オスカルよりも物静かで一見女性的であったため「死ななければならなかったこと」の理由を「理想の母性」を背負ったこととして書いているが、これはこれとして、ひとつの解釈としておきたい。
また、もしアニメでオスカルがこの「母性」を背負っていたにしても、男性制作者による「作られた理想の女性像」だからと言っているのではないし、アニメのテーマは「男対女」ではない。

 あまりオスカルが女だからということに固執するのも視点が定まりすぎて面白くないので、39話以後の解説では程々にし、他の視点もからめて見ていく。
(38話でもまた、原作ファンブーイングの従う発言があるので、再び混乱の解説が続く模様)
しかしこれだけ、男対女の図式を念頭に置いてしまうのは、原作での刷り込みが大きいからだと思う。
ベルばらはこうあるべき!という考えで頭でっかちになった部分は大きい。

アニメを見るときはそういう「男対女」「性差と戦うオスカル」という考えを削除して、シンプルに味わう方が楽しいであろう。



2002.4.18.up