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第37話 熱き誓いの夜に

(解説と言うより長文のつぶやき)

 高い木には風がより強く当たるように、嵐はオスカルを激しく打つ。
平凡に生きる者とは違い、貴族の身分に生まれ、男として育ち、高い地位につき、激しい運命を背負った彼女には、普通に生きる幸せは与えられなかった。
武人として戦闘力を身につけた彼女は常に重い責任を負っているのだ。
そして傾きかけた王室に代わって国をどう改革するのかと、誰もが真剣に未来を語りはじめる時代がついにやって来る。

 そんな時、彼女は自分の生き方を考える。私は何をすべきなのかと。
オスカルは高い所から世界を見、やがて遥か下にいるはずの最も小さい人まで見てしまうのだ。
どちらかと言えば知的職業の方が似合いそうな彼女。先に頭で物事を考えてしまうタイプ。政治家とか哲学者とか、いっそ自立した女と言うのならサロンの女主人とかだったら長生きできたような気もするのだが。

 ところで彼女はその行動から、暴力による弾圧に何より怒りを感じているらしい。
人の命にかかわる「武力」を持つ者であるからこそ、その使い方に信条を持つオスカル。
人々の声を踏みにじったり上から押さえつけたりする為ではない、まして扇動の手段でもない。武力は戦えない人を守る為にある。そして戦闘のプロとして戦いの先頭に立つためにあると。
だが、戦いを何より回避しようとしたオスカル。むしろ武力を使わずに改革を願う。
何が正義かわからない時代のせいか、戦いのためにある武人のはずの彼女には不思議なほど攻撃性がない。
その彼女が人々を守るために、やがて武力に対し武力をもって対抗することになる。

 そう、彼女は戦いを嫌いながらも自ら戦いの先頭に立つのだ。徹底して非暴力の姿勢の彼女も、攻撃は最大の防御という、戦いの悲しき逆説には逆らえない。
そして、戦いに身を投じた者には、当然自分も戦いに倒れても仕方がないという運命が待っているのだ。
どんな崇高な目的を持った者も、誰かのために戦う者も、自分の欲望のために戦う者も、全て戦いにおいてはただの殺し合いなのだ。それを知りつつ、オスカルはただの殺し合いの先頭に立つ。

 もし父が後悔したのならば、オスカルを男として育てたことより、男として生きる上で直接、命のやり取りをする「武人」として育てたことかもしれない。
彼女が信じるもののために力を尽くすのは、戦いの場においてである。そこは生と死がいつも隣り合わせなのだ。

 また男の社会に出て行った彼女には、女だからということで色々と偏見の目に合う。だが反対に、男として育ったことで彼女が手に入れたもの、広い世界を見ることができたという様々な経験(これは幸か不幸か?、そしてアンドレとの出会いもそのひとつ。
長い間、オスカルが自分でもそれと気づかないまま、お互いつかず離れず相手を思いやって生きてきた二人。
オスカルは混乱が続いたフランスの情勢に、自分の時間すら持てないまま、今突然、自分の命の期限を知る。

 だが、大きな戦いが起きる秒読みは始まっているのだ。そんな明日さえわからない時だから、彼女はまだ冷静に告知を聞いたのかもしれない。あるいは武人として生きてきた彼女、自分の命についての考え方がシビアなのか、うろたえることすら制してきた生き方を感じる。
いつかジャルジェ父が彼女を自分を押さえる子と言ったように、オスカルは自制心が強い。それは時に本来の自分を鎖にしばってしまうのだが、この後、アンドレに対する言動がいかにも自分の抑制を解いて素直になっており、このギャップが私は嬉しい。

 彼女は今こそと、悔いなく生きることを考えはじめるのだ。
もし、何も変わらないまま平凡な時が流れていたら、アンドレはひたすら愛情を注ぎ続け、オスカルはジャルジェ家の体面や社会的な責任があり、そんなもののために二人はこれからもじれったい関係のままでいたかも知れない。

 そして長い時間を相棒として過ごしてきた二人もついに男と女として向き合う時が来た。
原作から読んだ者として思うが、人によっては原作通りに筋が運んでいないアニメのベルばらへの期待はずれが色々とあるかも知れない。
オスカル自身の性格設定についての好き嫌いは、個人の感性と言うしかないが、オスカルとアンドレの関係について、二人の恋愛の幸せを待ち望むファンとして「おいしい場面が少ない」と感じた方もあるだろう。

 その原因はオスカルとアンドレが相棒からいきなり夫婦になってしまったことではないだろうか。普通なら恋人同士での駆け引きをしたり、見つめ合ったりぎこちなかったりという「甘い関係」が、夫婦になる前にあるものだ。それがアニメ版にはない!!
時代の混乱の中で衛兵隊の同士としての関係を優先していた二人だが、突然堰を切ったようにオスカルは激情を高めてしまった森の中。
あらまぁ、森から出たらオスカルは妻だった。………だがファンは恋人同士の二人を見たかったのである。

 なぜ甘いシーンがなかったのか事実は知らないが、この物語自体がオスカルの恋愛と言うよりも、ひとりの女性の生き様そのものを描いてあるんじゃないかと思う。悲恋物特有の甘いシーンを入れると、「恋愛」と「信念」は両立できないという矛盾を抱えるため、物語のバランスが崩れてしまうのかも知れない。
オスカルがアンドレに対し、自制心を解くというのは重要な場面だが、恋愛のシーンを描くこと自体はメインではない。恋愛もあくまで彼女の人生の一部である。
大切なのは恋愛経験から得た彼女の自信と、アンドレと共に生きていこうという前向きな生き方なのだ。
まぁ確かに三部会が始まってからはいちゃつく隙がないほどオスカルは仕事が多忙である。まずプライベートな時間はなかったであろう。

 だが、恋人としての時間がない代わり、意識しつつもわざと感情を表に出さなかったオスカルの張り詰めた心を推測したり、アンドレの思いを推測して楽しむことは、ファンならいくらでも出来るのだ。

 さてそのアンドレ。彼女を見守り、彼女のすべてを愛してくれている男。オスカルにもう迷いはない。たとえ何も起きなくても、そばに居続け、同じ時間を共有して来た二人。そのじれったい時間も彼女には大切なものなのだ。
 それと、これほど優れた容姿、資質を持っているはずのオスカル。それなのに、彼女の自己評価はすこぶる低い。
「私ごとき」と、へりくだったり、口調が「…して欲しい」とか、今回のアンドレに打ち明ける「そんな私でも…」というセリフでわかるように、彼女は自分のことをかなり過小評価しているのだ。それに彼女は自分が受ける愛情に対して、感受性が優れていて、とても謙虚。
なぜ、と言いたいけれど、彼女はこれまでありのままの自分は愛されないと、決めつけていたきらいがある………と言のは変だろうか。ちょっと、その線で考えてみよう。

 彼女が何をやっても満たされず、自分の地位を捨て、あれも捨て、これも捨て、どんどん自分の持っていたものを捨て、人のために尽くしたり、精一杯がんばってみたり、それでも自分には愛される資格がないと傷つき、満足出来なかったもの。
それは結局、人から与えられる愛情ではなく、彼女自身が自分は愛されるに値するものとして認めていなかったのだ。

 男らしくなければ父から愛されないと思った時から、彼女は愛情に対する不信感をいだく。
そして人と人の間の不安定で限りある愛を否定し、たやすく手に入らないと知りつつも、より完全で永遠な愛を求める。
誰かにほめられたいからではなく、もっと崇高な神の愛に近づくための行動、しかしそれは度が過ぎると、人からの愛を拒絶することになってしまう。彼女が男になりきるという決意で心をガードする事でもある。

 枝葉を広げて自立したはずのオスカルの裸の心は、どうやったら愛されるのかわからずに孤独な世界に閉じこもる心細い子供のよう。
でもそんなありのままの自分は決して彼女の心の中で死んでいたのではなく、表面的な自分との葛藤に耐えて、今、やっとアンドレの愛情を力にして解き放たれる。

元々、彼はそんな謙虚な人間らしい弱さを持ったかわいいオスカルが好きだったので、時折、彼女の中に見え隠れする本心を見守っていたのだろう。
アンドレは行動をオスカルと共にあろうとはしていたものの、オスカルの行動にいっさい干渉しない。淡々と、ただ友のように努めて明るくふるまうのだ。

 彼が守っていたのはオスカルの中にある「人を愛する感受性の深さ」のようなもの。それがもし世間に染まって、自分のことしか考えられないような女になっていたならばアンドレも命がけで彼女のそばにいることはなかっただろう。彼は彼なりにやるべき道を選んでいたはずだ。
彼がいつもオスカルから義理堅く線を引き、彼女を尊敬していたのは、やはり男女の愛だけではなく、人として敬愛していたことでもある。
ただ単にオスカルのうわべを「好き」というのではなく、彼女の真実を見つめる目にアンドレもかなり影響されていたはずだ。
そうでなくとも彼はオスカルを気高い女性と見ており、彼女のより高みを見つめる瞳に精神的な美しさを感じていたのかも知れない。

 また、オスカルもアンドレが当たり前のように寄せてくれた愛情が、これまでの自分を縛り付けていた「愛に対する不信感」すらはねのける強さを持っていることを知る。それを知った瞬間から、彼女はアンドレの寄せてくれた偽りのない愛情がこの上なく深いものだと感じるようになる。

 本当の愛情とは何かを探していくうちに、オスカルは確実に変わっていく。愛に飢えた力が、やがて愛情を得て、愛を与える力に変わっていく過程がこの最後に描かれている。
彼女は自分の肖像画を見えない目でほめるアンドレにありがとうを繰り返している。命の期限を知り、「生きるとは何か」を限られた時間の中で探そうとするオスカル。孤独を生きて来た彼女であるからこそ、愛する人がいてくれる、一人では生きては行けないという当たり前のことが美しく見えてくる。

 アンドレを尊敬する謙虚な彼女の涙と、「ありがとう」と言う感謝の言葉は、愛しているという言葉より真実に近かったのではないだろうか。

 でも、すでにこの気持ちは彼女の中でかなり前からあったに違いない。
ただ、アンドレの愛情に気が付けばつくほど、かつて自分がフェルゼンに気持ちを向けたことがオスカルの心に引っ掛かってくる。そんな裏切りが彼を深く傷つけた事で、彼の気持ちを踏みにじった自分を許せないと、彼女を余計かたくなにしていたようだ。それと三部会に続く、民衆による改革への波。彼女はついに革命前日まで、自分の幸せを考えることを後回しにしてしまった。

 一方、アンドレもオスカルの気持ちを知りつつも、以前のレモン事件の件もあり二度と彼女を傷つけまいとしている。じっと彼女が本来の素直な自分を取り戻すのを見守っているのだ。

 ここでオスカルがアンドレに気持ちを許すのが遅すぎるとの意見があるが、弁解しておこう。
レモン事件でブラウスを引き裂かれたオスカル。そのことでアンドレを男として認識させられたわけだが、被害にあったことが原因で二人が結ばれたのなら「女性は襲われたい願望がある」と思われても心外だ。
彼女の気持ちの中で「どうしてアンドレはあんな行動に出たのか」「男にはそういう激情に駆られる部分があるものなのか」という事を落ち着いて考え、自分の中で納得する答えを見つけ、彼に対する自分の気持ちを確認し、さらにアンドレがオスカルの体目当てではないことを見極めてからの告白なのだ。

 そうやって、二人はそばにいながら相手のことを大事に思う時間が長く、激しい愛情ではなく穏やかで互いを思いやる気持ちを育てている。
しかし二人の時間はこうして甘く切なく流れているのに、そこへ革命の激流が二人を押し流してしまうのだ…。

 ただ、彼らには体がぶつかりあうような激しい愛情はない。
求め合う恋人と言うよりは、どちらかと言えば長年のつきあいの相棒のような二人。
だが、だからこそこの二人なら、もし病気のことさえなければ、もしオスカルが戦いの先頭に立っていなければ、革命を越えても仲よく生きていられたのではないだろうかと思えてならない。(…ただし一度戦闘に加わると、責任があるので最後まで泥沼から抜けられなかっただろうとは思うけど。)

 やはり、惜しむらくは父が彼女を武人として育てたことであろう(その頑固な父は、謙虚な彼女の別れの手紙を読み、悲しみを振り払うように怒鳴るのだ)。

 さて、今回の内容について気になる点などを語ってみよう。
あわただしい展開の中に突然出てきた、肖像画ができあがるシーンは今回の安らぎポイント。
言うまでもなく、原作とのあきらかな違いは、オスカルが命の期限をはっきりと宣告されたことである。
もし少しでも希望があるとしても「ダメ」だった時のことを考えて、両親に何か残そうと…描かせた肖像画という意味ではないかと思う。

 ご存じ、この肖像画が仕上がる場面は原作にあったもの。
ただ少しいきさつが違い、アニメ独自の解釈として、オスカルの揺れる気持ちを具体的に説明したシーンになっている。
そう、オスカルが絵を誉めるアンドレの優しさに涙し、この後の森の場面につながっていく。

 もうそこに戦いが迫っている情勢の前に、オスカルは自分の気持ちに素直になろうと、かえって落ち着いている。森でのうち明け話の前に、ちょっとした導入として夕暮れの静かな時間がうまく表現してある。

 ただし、原作の行動にアニメなりの意味づけをしていったというのはこの場面だけではないが、それらの解釈が往年のファンに受け入れられるかどうかは不明。
とかく原作にない場面の付け足しは賛否両論になるが、両論が出てくることで「オスカルの考え」をファンが自分なりに考える良いきっかけにもなるではあろう。

 ここでの見所は、肖像画を通して二人が互いに真実を見つけたことであると言えよう。
心の目でオスカルを見つめたアンドレの気持ち。オスカル自身のアンドレへの気持ち。

 オスカルは今までずっと、アンドレに対して必要以上に誠実に接しておきたかったらしい。…それは有る程度の距離を置き、相手に依存しないこと。

 彼女は必要以上に人の荷物まで背負い込み、孤独を引きずってきたけれど、アンドレがそばで見守ってくれていたことで、自分は独りではないと気づかされたのだ。
原作では二人の関係がはじめからずっと「光影ペア行動」なので、そちらの関係が頭の中にインプットされていたから、原作ファンとしてはちょっと切り替えが必要と言えよう。

 特にアニメでは、フェルゼンへの失恋をアンドレに当てはめようとしたり、レモン事件で、アンドレの男の腕力に驚いただろうが、それとは別に「私はアンドレの激情を受け止めることができない!」「人に寄りかかってしまうのが嫌だ」という恋愛に発展する事からの「逃げ」の姿勢も見受けられる。

 そんな「人を信じることと、人に依存することは同じ」だと思っていたオスカルが彼によって変わったとしても、私はそれでいいなと思う。やっぱり、絵を見ながら「ありがとう」って言っている場面はすごくいい。
それがアンドレが持っている力だったのだし、彼女を気づかせたことで彼の想いも報われたであろう。

 一方アンドレはオスカルの虚像を好きになった訳じゃないけど、彼女と彼女の行動を信じ、表に出さない優しい気持ちも手に取るように理解している。
とにかく、アンドレは後半に入れば入るほど、オスカルへの激しい想いを表に出さなくなる。シャツを破った後からは「お前を守る」と言ったことをそのまま実践して、そばにいて見守ることに徹する。それは性急になりすぎた事で彼女を傷つけた事へのアンドレの誠意なのだろう。
彼は「愛し合うのは心と心」という心の光を信じている。一方オスカルも無意識ながらそう簡単に「嫁には行かぬ」と言っている。
実際、この二人を妨害するものは何も現れていないから、やはりアンドレは彼女と心が結び付いていることを信じていたようだ。

 絵を見つめるアンドレは、その想像の姿であろうとあまりの美しさにオスカルが人間であることを忘れているのかも知れない。
(男には女性を神聖化したい気持ちがあると言うが、良く言えば尊敬しているということだし、悪く言えば女の理想像だけを見て、生身の女を人間として認めていないという事になる。それに女が男を神聖化するという逆もまたあるだろう。…て、コレは余談)

 また今回は二人の恋愛事情が描かれているのだが、男と女の関係を考えるとここでやはり素朴な疑問が出てくる。
どうしてオスカル(アンドレ)は、相手を一緒にバスティーユへ行かせたのか?ということだ。

 オスカルはアンドレの目が見えないことを知っていた。なら、共に行くというアンドレをもっと強く制止する必要があったのでは?となる。
一方アンドレはオスカルが病気を隠していることを薄々感じている(のかも知れない)。
余命が残り少ないことを理由に彼女の自由にさせた、とも取れなくはない。
だけどもし病気のことを知っても知らなかったとしても、男として惚れた女を先頭に立てて戦わせるということは、普通しないだろう。その命が少しでも長びかせる手段を取るはずだから、やはりアンドレは男としてオスカルを止めるべき。
 ……これらの男と女の意地とエゴ、どこへ行ってしまったのか。

 原作には作者の意図に関わらず「男と女の対峙」があると、読者としての私は感じている。オスカルは女なのに男よりも強いんだと単に私が思っただけだが、男女の関係が「協調するもの」ではなく「どちらが強いか」という「対立関係」として見ていた、と言えよう。
これは主観的なものなので人によりけりだろうが、原作を読んで「男強女弱」ではなく男性と対等以上に渡り合えるオスカルをかっこいいと感じ、男たちを従わせる彼女がうらやましくもあった。アンドレはオスカルの人生の添え物?とさえ思えたのだ。

 ところがアニメには「男と女の対峙」が無い。反対に男たちは紳士的で、色々な場面で彼らはオスカルを危険から守るきらいがある(単に自分たちの隊長を警護しているだけかも知れないが)。

 アニメは舞台は原作と世界観の違いがあるにもかかわらず、この少しの違いも、原作のままの視点で見続けていると、ある意味、男尊女卑ではないかと錯覚してしまう。
オスカルが守られることすら、オスカルが弱いのでそうなったと解釈されるのである。
 普通、男女の対立を意識せずに一般的な常識を考えたら、部下は隊長を守り、アンドレはオスカルを守りたいと思う、その事自体は不自然ではない。
アニメ版後半はこの「男対女の対峙、そして結果は女性の勝利」という図式をはずして見た方がよい。

 で、その「男対女」の図式がないアニメでは、オスカルとアンドレが同士として協力関係でバスティーユへ臨んでいるのである。
 本来なら、オスカルは自分の信じた道を行くためにアンドレとの恋愛を切り捨てるしかないかも知れない。
アンドレにしても同様である。平民として、民衆のために奔走するのなら恋愛を切り捨てるべきかも知れない。
特にこのような激動の時代、自分にすべき使命があると信じる人々にとって、「恋愛」と「信念」を両立することは矛盾し、両立は出来ないのだ。

 そんな二人が出会って惹かれあい、やがて彼らの恋愛は二人だけの内向きの世界にとどまらず、純粋な愛情として「弱い人々を守らずして幸せではない」という形で外部に向けて広がっていく。
だがこれははっきり言って、現実的な恋愛ではない。あくまで物語上で語られた理想形の恋愛である…と言ってしまおう…か。
ここでの恋愛は精神的なものであり、愛し合う二人が信じた道を共に歩むという理想の「精神世界の上での恋愛」として描くことで、「恋愛と信念は両立できない」という矛盾を回避しているのではないか。

 アニメ後半は肉体的にも精神的にも、現実的な男女のかき分けがしてある、とずっと見続けていたけれど、この最後の最後で、オスカルとアンドレの恋愛というものは肉体的ではなく精神的なものとして描かれていたのではないだろうか。

 最後半の二人の関係は、恋愛から男と女のエゴを取り除き、そこから抽出して描かれた「精神世界の上での恋愛」、または「大人のファンタジー」というようなものだと思う。

 また後半で、原作での良さがなくなっていると疑問を感じた方もあろう。オスカルにつかみ所がないと思った人もいるであろう。
確かに原作から入った者として思い返すと、アニメを理解しにくかった部分に近衛隊のやめ方・バスティーユで戦う意味・「男と女」という考え方でのアンドレとの関係…などがある。
「男と女」については、上記の「男対女」の図式を外すという見方でかなりわかりやすくなるのではないかと思う。

 オスカル自身につかみ所がないと感じる原因は、アニメのオスカルは「信念を掲げる事」と「怒り」が削除され、オスカル自身に推進力がないからである。

 原作ではオスカルの敵は彼女の外部にあった。
革命を妨害する貴族、民衆を虐げる身分制度、その他いろいろ、オスカルの怒りは外へ向いていた。彼女は外部の敵と戦ったのだ。戦いの相手が外部だと、オスカルの動機がはっきりとしており読者は非常にわかりやすい。そして敵に向かう彼女のパワーは怒りであり、崇高な理念をめざす熱意であった。

 だが、アニメでは、どの立場の人間にも言い分がある。
貴族側の言い分、民衆側の言い分、どちらも決して100%悪いとは言い切れない。
オスカルが本来怒りを向けるべき「貴族」は敵ではなく、オスカルそのものも貴族なのだ。
また、崇高な理念は危険なテロリストも掲げており、正義そのものと、その扱い方が問われる物語ではオスカル自身がきれい事として「信念」を掲げられない。
すると彼女の怒りは外へ向けられないのである。彼女は自分に何が出きるかを葛藤し、彼女の戦いは自身の内面へと向かう、「自分との戦い」となる。

 アニメのオスカルに原作のパワーがどうにも感じられないのは、外部の敵(社会の悪)を倒すというはっきりした目標がないため、原作オスカルの推進力を失ってしまったからなのだ。
だが現実も本当は何が正しいかは一概に判断がつきにくい。

 アニメにおけるオスカルの自分との戦いは、「社会が悪いからと言って、そう簡単には世の中の仕組みをかえられず、逆にその世界の中で自分はどう生きるべきか」と常に迷いや葛藤を感じている今の私たちの立場に近く、共感してしまうのである。

 思えばオスカルは、自分が捨て石になる道(自分に厳しい道)を選ばなくても、どうにでももっと安全に生き抜く方法があった。
だが今、自分の力で出きることが目の前にあるのに、それを放置して楽な道を選んで良いのだろうか?という彼女自身の内面での戦い(葛藤)があったはずだ。
オスカル自身が、自分とはどういう人間か、自分はどう生きるべきか、心の中でたくさんの考えがわき出てきて、「自分」を整理するのもままならず色々迷っていたとしても、それはそれで人間らしい。人はそういう迷いの中から自分の進路を見つけていくものだ。

 そして自分のとるべき行動の正当性は誰にもわからないが、とにかく今の自分に出きる範囲のことを精一杯やるしかないと決意した彼女の立場は現実的である。
その中でオスカルが、外部に対して怒りを感じて戦うのは少し無理が出てくる。

 また、衛兵隊への移動についても原作のように、貴族が民衆の上であぐらをかいていることを批判されたからではなく、アニメでは自分自身の中での問題として変換されていたことも、「戦いの原因が彼女の内面に向いている」と言えよう。
ずっと信じてきたたこと、責任、経験、誇り、義務、強さとは?優しさとは?果たして自分は何を目指しているのか?という、この心の戦いを「心が弱い」と言い切ることはできない。

 近衛隊隊長という自分自身の立場にひずみを感じていたたまれなくなったオスカルは、今までの自分と戦ったのである。

 結局オスカルは革命に対して武力という形でしか解決方法を見つけられなかったのだが、外部に敵の姿が見えないだけに彼女の行動は地味でわかりづらい。
 だが、やはり考えて欲しい。世の中、そう単純ではない。アニメベルばらも、敵というはっきりした目的が存在する勧善懲悪の物語ではない。まして現実は様々な制度や流れが人の回りに定められ、自分の思うままに変化してはくれない。 

どうあがいても、オスカルに世の中を変えるだけの力はなく、たとえ少しでも改善できる能力があったとしても、それが活かされる立場にいないという皮肉なめぐりあわせはよくある話だ。
 絶対的ではない現実味をおびたオスカルの立場、一人の人間の無力さ、しかしだからこそ、自分なりの生き方を探して進むことが強さとして浮かび上がってくる。

 とはいえ、現実味があればあるほど、話は重い。
時にはそういう現実を切り離したい時にこそ、スカッと楽しみたいものである。
そんな時にひたれるマンガは「単純」でメリハリが効いている方が良い。痛快な架空の物語を楽しめるからである。これはどちらかと言えば原作の持つ要素だと思う。

 そしてラストシーン。ここでもオスカルの馬がアンドレの後ろを走っているのが、けっこう問題になっていたらしいが、これを問題視する背景は原作での「男対女」の図式を当てはめてしまったことと、原作オスカルというキャラクターが男尊女卑表現を感知・発見するセンサーになっているのではないかということである。

 だけど自分を守ってくれる男の後ろにいるのも、女として一種の勝利なわけで、男が自ら進んで露払いさせてもらいまっせ〜って言ってくれてるのに、その行為を無駄にするのは男性に対して失礼に当たる。

 問題なのは、自分がそうすると決めて、特定の男に従う事が悪いのではなくて、自分が従う意志もないのに、能力がなくてもただ相手が男だからというだけで慣習に従って女が折れなくてはいけないという漠然とした社会への不満なのだと思う。
まぁ現実は、能力以上の地位に居座って、から威張りするのは男女を問わず居るのだが。

 とまぁ、現実にある男尊女卑を考えるなら、まず鋭すぎるセンサーにかけてみて、少しでも引っかかったモノを再度吟味して、問題の有無を詳しくチェックしていくことも大事かなと思う。そういう点では原作オスカルについては、当時の少女に問題定義をする目を与えてくれたすごいキャラクターなんだなとあらためて感じさせられるのである。

 ちなみに今回、これだけ緊迫感のある展開のさなか、オスカルが少しの間とは言え屋敷へ帰り、くつろぐ時間があったのも、演出の上手いところ。
ばあやに画家の件を聞く→ダグー大佐に屋敷へ帰ってくれと涙で訴えられる等の、話の流れでとても自然に見える。

 夕日の当たる屋敷の広間?でまったりしているオスカルだが、今回の内容を見ていると実はものすごく話の流れは駆け足。なのに歯切れのよいセリフと、テンポのよい場面切り替えのコンテ・演出で見やすく仕上がっている。
同時に二つのシーンを見せる画面分割も、絵を見つめるシーンで登場している。

 たとえばジャルジェ家に伝令に来たアラン。それまでのオスカルとアンドレの二人の静かな時間が、突然けたたましい馬の蹄の音で破られる。
そしてオスカルの「アラン、お前がわざわざ」で、伝令の内容がよほどのこととわかる(盛り上がる緊迫感)。
続いてオスカルとアランとの会話。「でたか、ついに」「そういうことです」これだけで、お互いの意志と信頼関係など、語らずの心境が描かれている。

 …などと色々語ったが、やはり上記でアニメ版がわかりにくいと述べたとおり、後半はオスカルの独白(モノローグ)がほとんどないので、彼女への感情移入がしにくい。
原作と同じ展開を想像してぼんやり見ていると、これほどクライマックスに来ても、見る側とオスカルとの間には、突き放されたような距離ができる。
下手をすると共感が持てず理解できない「他者」を彼女に感じてしまう人もいるかも知れない。
オスカルなら何か「言葉」で語ってくれるであろうという原作との混同が、余計そうさせるのではないかと思う。

 最後に、アニメ版には「男対女」の図式がないと言ったが、アンドレはオスカルに比べ、あまり描かれていない。原作よりいくらかはオスカルとの恋愛以外の行動が描かれていたものの、主人公のオスカルほどは深い掘り下げではない。
彼の人物像は氷山の一角しか見えていないのだ。残りの「アンドレらしさ」はファンの脳内で完成させるしかない。
実際後半はアランよりも側面を語る場面が少ないのだから。

 アンドレはオスカルの添え物と言っては失礼だが、彼を主人公と呼ぶにはちょっと影が薄い。というか、影に徹していると言ったほうがいいだろうか。
ただこれは特に私自身がオスカルに感情移入しやすいので、その分、アンドレを語る口調が少し重くなると言うことも考慮した上での話である。

 いや、決して皮肉っているのではない。彼の語らず語りの姿勢はオスカルへの想いを至るところで表現していた事は確かである。だがオスカルを想う気持ちとは別に、彼は時代に対して活躍できる性格設定だと思ったのだ。
 アンドレがオスカルに惹かれたのは、可愛らしくて放っておけない一面があったからかも?と思えるが、逆にオスカルはアンドレのどんなところに惹かれたのかと言えば、黙ってそばにいてくれたから…だけではあるまい。
いかにもワンセットの二人とは言え、惹かれ合うからにはお互いに自分にはないものを持っていたのだろうし、オスカルにしても女としてアンドレが頼りがいのある男として見えたのだから、「アンドレ固有の思考」をもっと見てみたかったという感もある。

 たとえば、それが意見の対立で「ケンカ」という形でもいい。反発しあいながらお互いに理解していく過程があっても面白いだろう。
だけどあまりアンドレが活躍してはベルばらでは無くなってしまうが、彼にはもっと別の何かができたのではないかと少々、もったいなく思っている。

 まぁ彼に関しては、「アンドレ」というキャラに空白の時間を持たせ(視聴者に想像の余地を残し)、突き放したような演出がかえって人物に厚みを持たせたのでもあるが。
(これは漫画的ではなくアニメらしい時間の感覚。オスカルが画面に登場している間、アンドレなど他のキャラもどこかで同じリアルタイムを過ごしていると想像しやすい。)

 ただ結果として彼ら二人が革命に対して、偶然なのかそれとも意識してなのか同じ目標をめざし、幸か不幸か同じ行動を取ったことは描かれており、これは事実であろう。

 今回から4話は、ついにオスカルが民衆側へ寝返り、彼女の行動を軸にして、民衆と王室の戦いが始まり、最終話の彼女の死までが描かれる。


余談……脚本家の杉江さんのコメントにこういう風なものが有った(下記)。残念ながら原典が不明だ。
なので多分、杉江さんのコメントらしい、としか言いようがない。

アニメ後半は、オスカルが徐々にアンドレに気持ちを開いていく過程を書かれているそうなんだけど、森の蛍シーンに導く導入として、暴動に襲われたアンドレを助け出す行動が引き金であるという(うろ覚えなので解釈が間違っていたらごめんなさい)。


 このコメント(上記)をはじめて読んだときは、良い意味でとても意外だった。
アンドレを助けたことによって、何か頭の中でたがが外れたオスカル。今こうして無事に生きている!そしてアンドレは私のもの……という感情が一気にわき上がっても不思議ではない。
アンドレに助けられたことによって告白した原作、アンドレを助けたことによって告白したアニメ。これも逆のような気がするなぁ。

 私としては、やはりオスカルの肖像画を誉めているアンドレの背後で涙を流していたオスカル…。彼女が体を許そうと決意したのがあの時だったらいいなと思っている(妄想モード突入)。



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