アニメ版 ベルサイユのばら 徹底解説>HOME

第38話に関連したカキコミ


以下の文章は、過去にあった「オンリー掲示板」よりの抜粋です。今回のお話に関連性が有りそうなので引っ張ってきました。

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私が原作を読んだ連載当時は、まだ当たり前のように「女なんて…」と言われる時代だったと思います。
玄関の前で竹馬で遊んでいると、通りすがりのしらないおじさんが「女のくせに竹馬なんかするなっ!」と怒鳴っていったこともあります。

なんで女はそれだけで卑下しないといけないのかなって、反発もありました。
原作オスカルの登場はそんな時だったので、女も自分の人生の主人公であり、自立もできるんだということを、物語の「抽象的な部分の中」で訴えていたように思います。ちょうど、私を励ましてくれる、そんな存在だったのです。
今から思えば、オスカルのキメのセリフやかっこいい仕草、又はフランス革命に対して皆の先頭に立って突入していく具体的な事柄が原作のベルばららしさではなくて、私にとっての原作のテーマは作中での「抽象的に語られている女性へのエール」であると思っています。

彼女の絶対性は私の中では、オスカルが絶対なのではなくて、女性は胸を張って生きていけばいいのだということが絶対なのです。
この点が、今はオスカル「様」と思わなくなった要因の一つです。
平たく言うと、大人になってからは原作オスカルを頭に住まわせる事なく生きてきました。

私は、原作とアニメの違いを「ウルトラマンのいる地球」と「ウルトラマンのいない地球」と考えています。
絶対的な存在がいれば、全ては解決します。でも、現実にはウルトラマンはいない。
現実はどんな問題も課題も、等身大の人間たちが解決していかなくてはいけない。
そのなかで、自分の前に立ちはだかった壁に挑んでいったアニメのオスカルの姿勢は、今の私にとって励ましになっているのです。

テーマを語るために自分の命をかけるというストーリーの運び方は、単なる架空の物語だからと言い切ればそれだけかも知れません。
結果が貧乏くじであったことは悲しいのですが、これが上手くいってしまえばどうしようもなく勧善懲悪のおとぎ話になっていたでしょう。

原作のオスカルの「励まし」や「女性の自立という目的」があったにもかかわらず、原作のオスカルは実在しない絶対的なヒロインであると、大人になった私はわかってしまい、熱意は冷めてしまいました。
でも、そうやって今の生活を楽にしようと、世の流れに流されていく自分自身に、再度アプローチをかけてきたのはアニメのオスカルでした。

自分が絶対的ではない以上、できるだけのことを精一杯やろうとがんばってしまった彼女が非常にまぶしく、自分が恥ずかしくなる思いでした。
その彼女が最後に報われることなくひっそりと死に、時間の彼方に葬り去られたことが得も言えず脱力感の元になったのも言うまでもありません。

「従う」発言も原作のオスカルが言えば、原作の「女は自立できる、誰に従うことなく生きる」というテーマからそれてしまうでしょう。
ただ、アニメでの彼女がそう言ったのは、残り少ない命を、(…生き急いだとは思いたくはないですが、)妻としての実感をどん欲に求めていた、と思うと、たいへん痛々しいのです。

アランたちへの結婚宣言も、ある意味、みんなに祝福して欲しい気持ちから出た「人前結婚式」です。死期が近づく彼女の限られた時間の中で、さらに世の中の情勢がめまぐるしく変わる中で、兵士たちに余計な時間を取らさず、できるだけ自分中心にならないように、そっと祝福を得ようとしたのです。
幸せになりたい、生きていたいというオスカルの心の叫びが言葉の裏にありました。
ここまで謙虚な姿勢で人と関わろうとしたアニメオスカルを恥ずかしいとは思えません。

最後に…原作とアニメの作られた時代背景は違っていたのはその通りだと思いますし、今、等身大のヒロインが共感を得るのはとても納得できます。
ウルトラマンのいない地球で「ここでウルトラマンがいたら…」と仮定する人はいないでしょう。
異なる二つの世界を比較して優劣をつけるのは、今の私にはできません。

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色々考えました。
池田理代子さんという作家が、ベルばらという作品の中で等身大の女性ではなく、絶対的なヒロインを本当に描こうとされていたのだろうかと。
確か社会的な問題をテーマに、複雑な人間関係に揉まれていく少年少女を描かれている作品を、ベルばら以前にもよく見ました。
苦難は多いけれど、主人公たちは平凡な人たちでした。
むしろ、非凡なのは彼らを待ち受けている運命の方でした。

オスカルなら何でもできる、ファンの期待を託せる?
オスカルという女性は、分析する事ができないほど理想化された人物?
原作者の池田さんの意図は、絶対ヒロインを生み出すことだったのでしょうか?
どうもそうではなかったような気がします。

後年、ジャムばらと言われるシリーズを描かれていますが私は、ここで描かれているおだやかなオスカルが結構好きです。
確かに顔とかは変わっていましたが、なんとなくアンドレとの関係もしっとりしていて好きなのです。
でも後で、このシリーズが不評と聞きました。

原作者が描いたこのシリーズも、もはや元祖ベルばらとして認められないとすれば、「真のオスカル」は原作者の手を放れ、ファンの手によって昇華されどんどん手の届かない人物になってしまったのでしょうか?
本物のベルばらとはマーカレットコミックスの全10巻が全てであり、そこから何も足さない、何も引かない、そういうものなのでしょうか。

原作オスカルの真の姿とは何か?
ファンによって作られた虚像があるのか?
ふと、そういうことを考えてしまいました。

……これは、ベルばらという作品の是非ではありません。
原作のオスカルをもし語るとしたら?と考えはじめ、まずこの疑問が思い浮かびあがったのです。
最後まで読まれた方、私の独り言をお聞き下さりありがとうございました。

以上・・2001年4月書き込み
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この書き込み、原作とは何だったのか?を突き詰めて考えて書いたせいか、原作から熱意が冷めた・・とか、原作オスカルを頭に置かなくても良くなったとか・・・くくくっ・・・原作オスカルにめちゃめちゃ失礼な事を書いてしまいました。

だけど、決して原作オスカルが嫌いになったという意味ではないのです。
大きくなっていくにつれ、現実にオスカルのように生きられるわけがないとわかってしまったということ。
大人になって原作を離れたのは、少女の頃の私がオスカルのかっこいいところばかり見ていたからです。そういう表面の部分だけしか見ていなかったのでしょう。

アニメにはまったおかげで私はアニメだけではなく、原作のオスカルについても、カリスマ性の部分ではなく普通の人間として弱いところもみんなひっくるめて、彼女の人として生きた部分を見つめたい・・・そんな気持ちを持てるようになりました。
そういう点ではアニメにはまって、さらに原作も再び味わうことが出来て非常に良かったです。



2003.2.18.up