アニメ版 ベルサイユのばら 徹底解説>HOME

第40話の前置き



随想:嗚呼、原作……。

今回のサブタイトルに「嗚呼、原作」と書いてしまったが、あまり深い意味はない。
最終回を終えると、もう来週は無いというむなしさをたまたまこう書いてしまっただけである。原作を語っているのではないのか?と失望された方は飛ばしていただいて差し支えない。だが、次の随想「オスカルはどう生きたか」もかなり長い。
あまりに何でもつきあって欲しいとは今さら言いにくい。

ひとまず、前話のおさらいから。

アンドレの死とともに視聴者にオスカルの本当の望んだ未来が語られる。
それはごくささやかな幸せ。
本当に大切な物が何かを知り、強く生きることを知ったオスカル…のはずであった。
アンドレは青い鳥だったのだろうか。
人にとって何が本当に大事なのか、これは簡単なようで難しい。

撃たれる前にふと空を見上げたオスカル。戦闘中によそ見とは何事?!と、よく突っ込まれている場面だが、あれは叙情的な演出なのである。
映像は現実的なのだが、その裏で抽象的な含みを持っている(それを演出とも言う)。
後で触れるがアランがバスティーユの後に隠遁者となったのも、抽象的な含みがあるのだ。
それと噴水や雨、川という「水」に登場人物の心情を写す場面が後半には多いが、同じように、鳥に託す心情も多々ある。
黒い鳥は不吉な予感、白い鳥は希望・未来・自由などという抽象的な表現に使われている。ラストのカモメも心にくい演出である。

空を舞う鳥に思わず微笑みかける彼女は何を思ったのだろう。原作のように「アンドレが迎えに来た」のか、あるいは「アンドレ、私は充分戦ったのだろうか?」という問いかけなのか。
個人的にはオスカルの絶命まで空で見守り続けた鳩こそがアンドレであり、自らを鳥の姿に変えて彼女を見守っていたと思いたい。
特にこういうシーンは色々と想像できる。
何にしろ、オスカル最後の笑顔。幸せを感じるものを見たのだろう。解釈はそれぞれお任せしよう。

また、尻餅をついたのは見事に原作とは違うが、オスカルならきっと前のめりに…という気負いがなく、ものすごく自然な倒れ方。
尻餅をついてコケたという表現は非常にカッコ悪いが、実際は崩れ落ちつつ衝撃で吹き飛ばされ、体勢を立て直そうとして身をよじったというのが実況である。
現実はマジでああいう場合はその場にズドッと尻餅をつくものかも知れないが、よく見直して欲しい。あの衝撃で吹き飛ばされたオスカルは「尻餅をついてコケた」というおちゃらけた状態ではない。何より人一人が絶命しようとする重い場面である。

さて、解説もいよいよ最終話へ。
「おまえ」=男女平等 「あなた」=男女不平等
オスカルはアンドレを「あなた」と呼ぶべき?
「従う」=男尊女卑
女は男に従うべき?

などなど、言葉に敏感な女性としては、最終話まで見続けてアニメ版のテーマを感じる以前に「何よ?!コレ?」と投げ出してしまった方があるのではないだろうかとも思う。

さらに原作では、オスカルが怒りをぶつける原因が彼女の外部に存在していて、相手がある分、彼女は彼女なりの「正義」を掲げることが出来、非常にわかりやすくすっきりしていた。
だけどアニメの描かれ方では貴族側の言い分、民衆側の言い分、どちらが決して100%悪いとは言い切れない。
その中でオスカルが、外部に対して怒りを感じて戦うのは少し無理が出てくる。
近衛隊から衛兵隊への移動についても、貴族が有利であることを批判されたからではなく、自分自身の中での問題として描かれていた。

革命に直面した時にも、アニメ版オスカルは戦うための「正義」が掲げられない以上、自分が捨て石になる道(自分に厳しい道)を選ばなくても、どうにかしてもっと安全に生き抜く方法があったはずだ。
だが今、自分の力でできることが目の前にあるのに、それを放置して楽な道を選んで良いのだろうか?という彼女自身の内面での戦いがあったと思う。

結局、内面に向き合って葛藤して、結局武力という形でしか解決方法を見つけられなかったアニメ版オスカル。これは確かに原作とは描かれ方が違う。
戦いの相手が外部に有るとはっきりとわかりやすいけれど、内面に向かうというのは地味でわかりづらい。しかしそこが現実的でかえって共感できるのだ。

さりとて、特に原作世代では、原作のオスカルのイメージがどうにも離れない。余計にアニメ版にのめりにくいのではないかと思う。

又、最終話を見終えても、何だかよくわからないし、もやもやとした感じが残る。
確かに原作と違って、ド感動したというより、虚しい。
最終話を見終えて、わけのわからない感情にいらだちすら覚え、そのまま「イライラするのはつまらない作品だからだ」という風聞に流され、アニメ版が嫌いになってしまわないように、しっかりと「語られない」テーマを見いだしていきたい。

原作は読者に答えを教えてくれた。オスカルは自らの意志で崇高な理念を掲げるというテーマを語り、情熱を燃やした。だけどアニメ版は答がない。それどころか視聴者に問題を出した!という感じなのである。

物語は数学ではないので、語りたいことは1+1は5かも知れないし、1+1は999かも知れない。
原作を読んですっきりしたのは、問題から答までがちゃんと描かれていたからで、アニメ版を見てすっきりしないのは、答(現実としての結果・オスカルの死)が出ているのに、では問題はさて何でしょう?と言われているようで、「問い」(問題)がはっきり出るまですっきりしないからなのである。
あるいは「問い」(問題)が「オスカルは何を思って生きていたのか」ということなら、今度は答が何だかよくわからない。そう、感動したからにはそれなりの物を感じているのに言葉にならないのだ。

何事も言葉で語るべきではないのだが、数学や効率を主に習ってきた世代としては正解が欲しいという欲求がある。けれど、こんな人間の生きざまに正解などという割り切れる物があろうはずもない。だから余計にすっきりしない。

あの二人が戦った意味を、死んだ意味をどうしても見つけたい。
原作ではそれが書いてあった。人として生きた事に感謝し、悔いなく生きたと言い、フランス万歳と言ったオスカル。
そして少年の頃、誓ったようにオスカルの盾となって絶命したアンドレ。
極端な話、読者は亡きオスカルの意志を自分なりに引き継ごうとさえ思った。

だけどアニメではそれらがない。原作オスカルをイメージして見ていたら、アニメ版のオスカルの心に踏み込んで行けなかったのだ。
さらにアニメではテーマを語ることすらセリフとして無いので、原作と単純に場面を比較すると、あれは無駄死にだったと言われてしまう可能性がある。
アンドレの死も単純に原作のイメージと比較してしまうとなぜか割り切れない(ただし彼の死もアニメ版なりのテーマがあったことは前述した)。

嵐に向かって突入し、華々しく散った原作オスカルならまだしも、アニメのオスカルは原作オスカルほどの強烈な推進力はないものの、現実的な知恵と理性を生かして、死なずにすんだはず?なのになぜ死ななければならなかったのか?
原作の通りだと言えばそれまでなのだが、それでは余韻も感動もない。

生き抜く知恵のあるオスカルをいかにバスティーユで絶命させるか!?
(誤解を招きそうだが、決してアニメと比較して原作のオスカルに知恵がないと言っているのではない。それとは別次元の事である)
それには彼女が情熱的な性格だからという事ではなく、彼女自身の持つ誠意または信条、そして彼女の立場そのものが、死地のバスティーユへ行かなければならないように彼女を追い込んでいく、という描き方が必要になってくる。
原作通りに死なせるために、幾重にも張り巡らされた包囲網にがんじがらめになったアニメ版オスカルという印象がある。

もちろん、アニメなりのテーマが有る以上、何も原作通りだからというのでなはい。
相当苦しい目に遭ってしまったオスカルにはアンドレの死以後、明るい未来はただ一つもない。何かを強く信じていなければ、戦いに戻ることはしなかったであろう。
そんな彼女が命の最後にかけたものは何だったのか。
それは言葉では語られていないが何かの「希望」であっただろうと推測している。

原作での「フランス万歳」ではないことは確かだが、この際、原作とはここまで違ってしまったアニメ版のこと、今更「フランス万歳」にこだわる気はない。
セリフではなかったが、確かに何かの感動を残した彼女の生きざま。今さら言葉にしなくても伝わるものだったのではなかろうかとしみじみ思う。
救われないラストシーン。だが、救われないが何故か癒される……そんな気がするのだ。

原作を読んだ当時の時代背景もあるが、物語を読んで受けたあのショックは一度読んで読み捨てておけるものではなかった。何度となく言っているが、原作オスカルに当時の少女たちは「女性の生き方」というものを考えさせられ、同時に、それまでは受け身で考えていた「自分の生き方」を主体的に捉えようとした、とさえ言える。
時には勇気をもらった大切な宝物のように、原作は何度も読み直して手元に置いておきたい気にさせる魅力がある。
そのような「ベルサイユのばら」原作を分類すると何になるのだろう。
歴史を描きながら人の生きざまを格調高く語る「文学作品」なのか、またあるいはロマンスを含んだ華々しい女性たちを描いた「少女漫画」なのかと話は尽きないだろう。

感覚的かつ私的な分類ではあるが、文学作品と少女漫画は別物だと思っているので、文学作品であり少女漫画である…と言うのは都合が良すぎるが、何となくこの二つのジャンルにまたがっているという気がしないでもない。
個人的には「これだけブームを巻き起こし、ファンの心を奪ったのが少女マンガなのだ」という敬意を込めて「少女マンガ」だと思っているが、強いて言うなら「文学作品を少女漫画にしたもの」という印象か。

なぜならベルサイユのばらは、以前書いたような気がするが「滅びの物語」なのである。どうしても死というものがつきまとう。人の死に方はすなわち生きざまでもある。
だからテーマが重いのだ。重みを持ってしまうのだ。それはアニメ版にも共通する。

あの40話最終回は、ある者は想いを残しつつ逝き、またある者は生き残って自らの人生の意味を問いかける。
死を堺にして、あちら側とこちら側に分かれた者たちの足跡をたどっていくと、そこに死を以てしても切り離せない「人と人との絆」というものの存在が浮かび上がってくる。あるいはそれを「愛」と呼ぶべきかも知れない。
その強さと切なさは、最終回を見終えた視聴者に「感動」という言葉で言い表せられない「強い力」と「喪失感」とを同時に植え付けてしまうのだ。

オスカルの死後、ロザリーからその名を聞いて涙するアントワネット。オスカルを想うと心が安らぐという彼女の気持ちを誰が理解しただろうか。
道を違えた二人の絆はやはり切れてはいなかった。お互いを尊敬し合ったからこそ相手を許し、それぞれの道を歩むことで自分の人生を自らの意志で生きようとした二人の女たち。
彼女らの友情はアントワネットの死の瞬間まで続いていたのである…と信じたい。

実のところアニメ版では、そのアントワネットこそが描きにくいキャラクターなのである。
原作や他の物語に出てくるアントワネットは、ごく普通のかわいい女性として描かれていて、たまたま生まれた時代と王妃という身分が彼女を死に追いやっただけで、運命に翻弄されたというイメージがあり、特にわかりにくい女性ではない。
ただ、夫ではない別の男を愛し(ひとまず深い仲ではないとしても)、税金を湯水のように使い、果たして王妃としての自覚ある振る舞いをしてきたのかという疑問は多少あるが、平凡な女性には少し責任が重すぎて気の毒だったとも言える。

アニメ版のアントワネットはと言うと、フェルゼンがアメリカから帰ってくると感激して泣いていたかと思うと、今度はジョゼフの病気を通じて夫ルイ16世と心を通わせ、フェルゼンへの気持ちに対しては罪悪感を抱いている。かと思えば革命後に窮地に陥ればフェルゼンに救いを求める。
そう、アントワネットの心がふらふらしていて定まっていないのだ。これでは共感できない。

アントワネットとフェルゼンの関係について、実際は深い仲ではなかったらしいという話を聞くのだが、私なりに見てアニメ版ではどうにも肉体関係があったというイメージがある。原作での小さいエピソードが省いてあるので、余計にそう感じる。
アントワネットのフェルゼンに向ける恋愛感情については、深い仲ではないのなら懺悔するほど苦しむ事はないと思うのだ。
とは言え深い仲でないからと、夫の前で別の男性を愛していると断言してしまうと、夫も傷つくだろう。原作のルイ16世はいい人だったが、普通なら根に持っても変ではない。

妻の裏切りを夫がどう感じるか、女性として見落としがちであるが、女性主体の視点ではないアニメ版では、少しばかり男側の主張も描いてある。
さりとて夫婦間のことを他人がとやかく言えないが、アニメ版のアントワネットの行動を語るには今ひとつ踏み込みが足りないのでどうしても彼女のことが解りづらい。

ともあれ色恋沙汰がつきものである男女の仲のことをここで善悪問答するつもりはないが、状況に合わせて都合のいい相手に頼る態度を見ていると、アントワネットの気持ちがどこにあるのかよく分からない。

アニメ版ではオスカルの描かれ方が賛否両論で話題に上ることが多いが、私にすれば実のところアントワネットの描かれ方の方が未消化なのだ。
その反面ルイ16世は最後に意地を見せ、芯のある所をアピールしている。少し男を上げているのだが、特に後半はどうしようもなく優柔不断な人間が出てこないのも特徴かも知れない。

がしかし、アニメ版ではアントワネットの描かれ方が不十分だと言ってしまうと、これだけアニメ版にのめり込んだ私自身が「アニメ批判」をしていると思われるかも知れないし、また、こういう発言が元で「アニメ版アントワネット批判論」へと結びつかないかと少々心配でもあるので補足しておこう。

ベルサイユのばらは女性が描いた物語なので、男性の視点が入ると(男性が描くと)物語のバランスが悪くなるのではないかと、私は当時そう思っていた。
たとえば批判の見本として、アントワネットの生き方を否定的に描いたのは男性的な「強者の理論」であり、政略結婚は男性より女性のほうが苦労するのではないかという女性にしか理解できない心理を見事に無視しているという見方も出来る。

確かに、実家には二度と帰れず、言葉も違う国に行くのは心細く、味方も少なく、自分の意志ではない所に嫁ぎ、愛のない結婚生活を強いられるというのは女性の立場から言うと苦痛に思える。多分、そうなれば相手の男性にとっても幸せな結婚ではないであろうが、同じ立場でも女性は服従や慎みを要求されるので心身共に逃げ場がない。
彼女の立場については男性よりも女性のほうが我が身に置き換えることが出来るだけに幾分、同情的に見る事ができると思う。
しかし、アントワネットをどう描くかについては、男性だからこう描いたとか、女性だからそう描いた、と言うだけでは判断がつきにくい。
女性でもアントワネットに同情できない人はいるだろう。

さらに、すでにアニメではアントワネットは主役から退いている。演出が変わって前半と後半のアントワネットの描かれ方が変わった影響もあるし、話数の短縮などの色々な理由で省かれた伏線なのだろう。決して批判的に書いているつもりはない。
放送短縮になった以上、アントワネットメインのエピソードを入れる隙間はなかっただろうし、彼女を置き去りにしたのはそんなに大事ではないのだが、アントワネットに確固たる自我を持たせて描いたら、オスカルとの対比がもっと面白くなっていたのではないかと思う。
特にアントワネットには守るべき子供がいる。前述の(37話で考えすぎたこと:参照)「直接守るべき子供がいる」アントワネットと、そうではないオスカル。女としてのそれぞれの生き方を描けたと思う。

しかしベルばらを語るとき、女性だからこそ描けたという意見は今も尚、わかるような気がする。
アニメにはスタッフがいる。一人では出来ない作業なので、私としては制作の裏側を知らないので「男性だからこう描いた」とは断言できないのだが、確かに原作とは雰囲気が違う。

一ファンとして思うのだが、原作を読んで受けた「女性の立場を考える・女性も主体性を持って生きる」という衝撃は相当強い。原作にそういう意図が無かったとしても、読者の私が感じた「男と女の対立」。
読者は気付く。女性は、男性の人生の副主人公なのだろうかと。
今まで男性の強さを語る時、女性は比較されて優劣の「劣」をつけられてきた。これが極端すぎるたとえなら前後の「後」、強弱の「弱」でもよい。
だがその逆もまた言えるのではないかと、ベルばらは教えてくれた。女性は弱いわけではないのだと。

なのでベルばらを語るとき、プライドを持って「女性も主体性を持って生きる」と言いたいところ、ついつい「男VS女」という比較の図式にすり替えて語ってしまう傾向がある。
実のところ、主体性を持つと言うことは他者との優劣によって証明されるものではない。
また客観的に観察すると、男は女より強くなくてはいけないと言う風潮が確かにある。らしさを押しつけられるのは女性だけではない。
男性が女性を比較の対象にしてまで優位に立たなければならないのは、男性社会が厳しい競争社会だという事でもあろうかと思う。
とまぁ、こう書いてはいるが、アニメ版ベルばらを見て、今の社会のあり方を肯定すべきと言っているのではない。
中には、社会で理不尽な性差を感じている女性が原作ベルばらを読んで憂さ晴らししている場合もあるだろう。

とは言え、人にはそれぞれの視点や考え方の違いがあるので、ここでは色々な角度から作品を照らしてみようと思っただけである。

今までよく耳にしてきた「女にはわからない」と言われ続けた「男の世界」なるものの存在。
「ベルばらは女性でなければ描けない」という考えは「男にはわからない」という反論・心の叫びなのだ。
なおかつこの反論は、そんな誇らしげな世界なら女だって持っているんだぞという反動でありしっぺ返しでもある。
「男にはわからない」という、言うなれば相手に対して優越感を感じる小気味の良い響き。
ベルばらは女性の応援歌であって欲しいという気持ち。
女性にもすばらしい物語が書けるのだという女性のプライドが頭をもたげてくる。
女性でないと描けないということにこだわるのは、このプライドの維持のためでもあり、ベルばらを語る時は熱い気持ちになり、事あるごとについつい「男VS女」の図式を盛り込んでみたくなるのである。

本当のところ「ベルばらは女だから書けた」という前に、「原作者に才能があるから書けた」と評価する事のほうが先なのではないかと思う。
女性がそんなに強くなったと言いきれないにしても、もはや今の時代ではその人の強さを語る時、性別にこだわることはまずない。

原作よりも描かれた時代が新しいアニメ版で「男VS女」の図式が省かれていたため、どこか「骨抜き」になったような気がしてしまうのは、連載当時の風潮を知るファン世代ならではなのかも知れない。
その「骨抜き」の作品にこれまた原作世代の私がハマるのも不思議なご縁である。
(もちろん、アニメ版には原作とは違う骨が入っていたからなのだが。)

今は当時と時代も違うし、男がどうした女がこうしたという話は流行らないかも知れない。
また、原作オスカルの行動・思想を全て同じように現代社会で実践するのは無理だろう。
確かにここで語っているのはアニメ版についてなのだが、私も原作を読んで育った世代である。
思うに、原作の中から得る価値は多い。
オスカルや、革命後のアントワネットの力強さ、他の女性キャラクターたちがいかに主体性を持っていたかを考えれば、それを見て、自分たちの生き方に「主体性」を持つことも、立派な「原作ベルばら」を生かす方法である。

とまぁ、原作ファンとして数々の魅力を少し語ってみた。
だが気をつけたいのは、決してアニメ版やその他のメディアで発表されたベルばらを原作と比較し、単にアニメ(及び他のベルばら)を批判する形で語りたくはないと言うことだ。
原作を誉め称えるに、他メディアのベルばらを比較の対象にして優劣をつけようとするのは前述した、「男性の強さを証明するために女性を比較の対象にして弱者と決めつける」のと同じぐらい単純な方法だと思う。
原作は原作だけを語っても充分、その良さを語れるはずである。

また原作とは違う見所がある作品として、原作とは異なるテーマを持ったアニメ版を語るのがこの解説の本来の主旨であることも念のため一言添えておく。

ただし、誤解の無いようにしたいのだが、これはあくまで私個人の体験である。全てのベルばらファンが同じようなことを考えていたわけではない。
普通のファンの方々はオスカルの颯爽とした姿にあこがれ、その生き方に共感し、女性として愛し愛される彼女にうっとりし、純粋な気持ちで作品を愛されているのだと思う。

そういえば原作が発表されてもう長い年月が経つ。時代を懐かしみつつ、熱い想いを抱いていたさまざまな「ファン心理の分析」をしてみたら面白いとは思うが、それはアニメ版の解説から外れるので思うだけにしておく。
と言いつつ、今までかなり自分自身のファン心理は結構語ったとは思うのだが。(^^;)


また、演出の違いだけではなく、オスカル他、すべてのキャラクターデザインが成長と共に激変している。

分類は下記の通り
★前期・・・第1話「オスカル バラの運命」〜第18話「突然 イカルスのように」
★中期・・・第19話「さよなら、妹よ!」〜第28話「アンドレ青いレモン」
★後期・・・第29話「歩き始めた人形」〜40話「さようならわが愛しのオスカル」

後期のアンドレが馬面と言われたりしているが、私としてはこの後期のキャラクターデザインが一番好きだ。
本放送の時も思ったが、前期は原作を意識しすぎて表現技法が平面的なのがもの足りなかった。
中期は前期の童顔を残しつつ、演出の切り替わりをさらりとクリアしているが、今から思うとどうみても20代前半に見えるので、あくまで私の主観だが、そのままラストへ突入して人生を語るには少しキャラクターデザインが若すぎる。
原作ファンなら、原作のエピソードから離れていく後期よりも、前期の原作似の感じが好みかも知れないし、比較的エピソードとしても差し障りのない中期あたりも許容範囲と思う。

特に後期は革命の嵐が吹き荒れるため、画面の処理が荒々しくダイナミックになる。
暴動・喧嘩のシーンなどを見ていると、とても背中にばらの花を背負って登場できるものではない。エピソードも原作から離れ、「原作通り」の展開でないとベルサイユのばらを楽しめない人には不向きかも知れない。特に本放送時は私自身が10代だった事もあり、後期の衛兵隊へ行ってからの大人っぽいキャラクターデザインにはついていけなかった。
しかし、だからこそリアルであり、見るからに大人になったオスカルとアンドレに今は一番共感できる。エピソードを見直すのもこの衛兵隊以降がダントツ多い。

何にしろ名場面は後々まで心に食い込む。たとえ原作と同じ名場面でも、原作でのインパクトが強すぎる場合はそれ以上のものをアニメで描くのは難しい。
後期の印象が強いのは、オリジナルの名場面が特に多いからだ。特にあのゴツ苦しい絵柄の中で、オスカルの繊細な表情がより引き立っている。
又、私的には、オスカルとアンドレの関係が微妙になった分、心理描写が一番多いのが後期だと思う。

前にも少し触れたが(36話の導入参照)、馬面といわれるアンドレの顔は実のところ描くのがものすごく難しい。目鼻立ちが少しでもずれるだけで変になってしまう。どちらかというとアニメやマンガを見慣れ、描き慣れていた私にとっても劇画調の後期は描きにくい。
かといって、一度自分で描いてみてわかったのだがアニメは原作をかなり意識して合わせてある。あの馬面といわれるアニメのアンドレも、作画の善し悪しにもよるが、頭全体のバランスではさほど原作と差はない。

輪郭は多少、アニメ版が縦長の感じがするが、アニメ版は男性キャラの顎を骨太にがっしりと描いてある。また例外として、外見が繊細そうなジェローデルやサン・ジュストは男性キャラながらオスカルと同じように顎のラインがすんなりと美しい。
アニメ版のアンドレや他の男性キャラが馬面に見えるのは、原作より目が切れ長で少し細いのと、口から下のアゴのラインを骨太に見せるために原作より少し長くなっている。
…つまり口の位置が高いのである。単刀直入に言うとアゴが長いとも言う。

この違いによって輪郭が縦長に見え、アニメ版のアンドレを大人っぽく骨太に見せているが、反面、少しのデッサンの崩れが馬化を招き、原作以上に響きやすい。
確かにアニメ版のアンドレのアゴのラインを描くのは難しい。そうでなくても人物のアゴを描く時は線がふるえるし難しいというのに。

絵を見るのと、実際にそれ描いてみるのとでは違うものだ。興味があって未体験の方は試しに描いてみることをお勧めする。
どちらにしても、幼い頃から馬と対話をしていたであろうアンドレのこと、原作・アニメ共にアンドレは「馬」とは深い縁があるらしい。

また、オスカルも前期では瞳(虹彩)に星が入っており、少女マンガらしい雰囲気がある。
ただ、紙面のマンガで見ている分には良いのだが、アニメになると星そのものでは立体感が乏しい。
カラーのアニメでは立体感を色彩の塗り分けで表現できるためか、中期から星が消えてホワイトのみに変わっている。

文章で表現しにくいが、前期にも瞳(虹彩)の中に丸いホワイトが3個ほど浮いているが、中期はこのホワイトが柔らかい丸みを帯びて涙型(二等辺三角形)に変わり、立体感を出し始める。
後期はこのホワイトが虹彩の一部となりシャープなキレのある三角形に変わり、少し厳しい目になるのだが目元の涼しさはアップしている。
虹彩の一部になったのは作画の簡略化のためかも知れないのだが、見劣るものではない。

とまあ、解ったように書いているが、私は絵に関しては素人なので見たまま、あるいは描いて感じたことを言っているだけなので適当に聞き流して頂きたい。

また、毎週の放映という限られた時間、限られた予算の中で作成されたアニメに、フル動画でなければ!という要求も私としては言いにくい(そんなにアニメ界に詳しいわけではないのだが)。
群衆シーンでの使い回しもある程度は仕方ないと思うし、少しデッサンがおかしいという場面はオスカルが遠景であったりと、スタッフの、できるだけクオリティを落としたくないという意地と努力が見える。
むしろラストまでレベルを下げずに奮闘されたスタッフの努力により、20年以上経った今も見応えがあるのはありがたい。

個人的に言うと、アニメ・ベルサイユのばらで作画の質が問われるのは前期である。
第1話のがんばりに比較しても(初回はたいていの場合、クオリティが高い)第2話以降、第18話までの作画はどうも平面的で、動きやアングルや演出に惹かれるものがない。
第19話以降の中期や後期を見ると、表情や立体感を出すために陰影を2段階に出しているのと比較しても、前期のマンガ風なデザインが「原作そのまま」を意識しすぎていてプラスアルファを求めていた一ファンとしての私は満足できなかったのである。

エピソード的には良いものは有るのだが、勧善懲悪のオチや大げさな熱血場面、ゆっくりした話のテンポの回は当時の私の持つベルばらのイメージとは異なっていた。
実はこの「自分なりのベルばらのイメージと違う」というのがくせ者で、俗に言う「生理的に嫌い」という表現に似て、理由にもなってないワリに、とりつくしまもない。
前半はオスカルの正義の人らしさが期待していた以上に目立っていたのと、展開がゆっくりしていて原作をなぞっていた事で、かえって新鮮味が感じられなかったという程度の事だと解釈していただきたい。

それと、当時は原作をなぞるだけでは物足りないと思いつつ、オスカルの性格設定や田島さんの声が(私の想像していた)原作オスカルのイメージと少し違うと感じていた。
ではどんな演出なら、どんな声なら良かったのかと言うとそれは自分では漠然としてわからない。
自力で創造できなくても、どうしてもファンは原作通りで原作以上を望んでしまう。少し欲張りすぎたのかも知れない。

とまぁ、少し辛口のコメントを書いてしまったが、何事もこだわりすぎると誇張して批評してしまう。今は動く原作とも言える前半の、気楽に見られる活劇的なエピソードを楽しんでいる。
また、原作似というだけではなく、前半には後半の暗いイメージを予想させない明るさがある。
劇的な描き方の後半と比べてオスカルが若々しく、正義のヒロインとして元気いっぱいに立ち回る大活躍をほほえましく感じる。

それに前期は監督不在の時期もあったという。長浜監督は別の立派な作品も残されている方だし、ベルばらへの思い入れも大きかったと聞く。当時のいきさつは知らないが、現場では何かと大変だったであろうと思うのみである。

革命の嵐が吹き荒れる盛り上がりとしても、エピソードのオリジナリティ(または原作のアレンジ)にしても、アニメならではの展開がある後期が好きなのは単に私の好みである。
アニメ版ベルばらが少女マンガらしくなくなってしまうことに抵抗がなく、原作のテーマにこだわらず、登場人物がどうみても30代という大人な演出が楽しみたいのならやはり後期がお勧めである。

話は戻るが、バスティーユの戦闘中に不意によそ見?をしたオスカル。
演出と書いたが、やはりつっこみたい気持ちはわからないではない。
オスカルの指揮を見て、ド・ローネー侯爵が彼女を狙い撃ちするくだりは原作と同じである。
ここで原作では必死で指揮を取るオスカルに標的が合わされる場面がある。
先頭に立つ以上、どうせ前を向いていてもわき見をしていても撃たれることは同じだが、アニメでは突然オスカルが空を見上げている。戦闘中に何かの気配を空に感じたのでなければ普通は気をそらすようなことは無いと思う。
危険を知らせるためにアンドレが鳩の姿になって呼んだのであれば、彼女をよそ見させるのではなく、犬にでもなって彼女を突き飛ばすほうがいいのではないかと少し疑問に感じた。

少し前に発売されたDVD「ベルサイユのばら」のブックレットを読んだが、出崎氏のインタビューでこのくだりについて「オスカルに清々しいものを見せてやりたかった」という内容のものが載っていてかなり納得した。

やはりオスカルは何かの真実を信じて、求めて生きて来たんだろうなと、勝手な解釈ながら改めて感じた。

煙る空の隙間から白い鳩が舞っているのを見たオスカル。
前回の解説の最後に、誰かの声がする、と書いたが、実のところアンドレの声とは断言はできなかった。
それはもしかすると、天の声だったのかも知れなかったのである。
一斉射撃を受け絶命寸前の彼女が「アンドレ」と呼びかけたのも、オスカルの目には「確かな真実」、あるいは神の姿が見えた事を、アンドレに知らせようとしたのかも知れない。

こんな時いきなりなのだが、どうしても少し前に天に召されたジョゼフ王太子を思い出すのだ。汚れ無き魂は間違いなく天へ昇って行ったはずである。
具体的にジョゼフの声がすると言うのではないが、生きる苦しみから解放された魂が安らかに暮らすという天の高みから、誰かがオスカルを呼んでいたような気もするのだ。

これを抽象的な表現で「神の愛」と表現しておこう。
かつてのオスカルはありのままの自分を愛すること、愛されることを拒絶し、誰も届かない高いところにある愛を求めてきた(第31話解説に類似解説有り)。
どうしても届かない真実の愛。
だが彼女はいつしか純粋なアンドレの愛情に気づき、身近なところにこそ大切な愛があるという事に気づくのだ。
愛情は目に見えないが、「愛し合うのは心と心」という言葉を信じて実践したアンドレの気持ちを彼女が気づかぬはずがない。
やがて強い気持ちで人を愛し、愛を与えた彼女は苦難の末に最期の時になって神の愛を見るのである。

最期の時、オスカルが求めていたもの(真実)を見てから絶命したという演出は私的にはかなり救われた。やはり彼女は「神の愛」を見たのだと思う。
それがどんなものであのるか、やはり他の者にはわからない。精一杯生きたオスカルの、死の間際だからこそ彼女にのみ見えたのだろう。

余談ながらこの最終話のタイトル、初代ルパンV世のエピソード「さらば愛しき魔女」とタイトルイメージがダブるのである。
そういえばベルばらが始まる前に、ルパンで記念バージョンを放映していが、同じ制作つながりというのも関係あるのだろうか?

などなど、いつもエピソードについて重点を置き、絵柄のことについて後回しにしていたせいか、最終話ということもあり少し語ってみた。
書きそびれたことも合わせてごちゃ混ぜにして書いてしまったかも知れない。



2003.9.9.up