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第40話 随想:オスカルはどう生きたか




■随想:オスカルはどう生きたか

当初、この随想のタイトルは「オスカルはなぜ死んだのか」にしていた。
内容もその通りなのだが、「どうして死んだのか」と言うことは「どう生きたか」ということでもあるので、暗い話がより暗くなりそうなので変更した。

■オスカルの足跡をたどってみると

 オスカル、倒れる。一斉射撃を受け、崩れ落ちる。
バスティーユを睨み据えながら、前のめりなって劇的に倒れたのではない。
銃弾の衝撃にあおられ、紙のように疲れ果てたオスカルは足をすべらせたようにバランスを崩し、衝撃で後ろへ飛ばされる。
何とか身をよじって体勢を立て直そうとした時、さきほどの白い鳥(鳩なのか?)が再びオスカルの視界に入ってくる。まるで彼女を見守っているようだ。
彼女はふと白い鳩に何かを感じて微笑みを浮かべたものの、力尽きてそのまま仰向けに倒れてしまう。一度起き上がりかけようとしても結局出来ない。
これは銃弾を受けたダメージだけではない。彼女が既に疲れ果て、バスティーユへは気力だけで立ち向かっていたからなのである。

 ちょっと考えてみた。オスカルは昨夜は路上で気を失っている。前日は森の中で過ごした。その前の晩はアンドレの失明と病気の宣告を受けて、まんじりとしていない。おそらくその前もアベイ牢獄の一件、国王軍のパリ集結などで、不眠症にはなっていただろう。病気は確実に進行しているはずだし、疲労がたまっているのは明らかだ。
彼女は銃弾を受けていなくとも、そのうち遠からず倒れてしまうはずである。彼女はアンドレを失ったときに、命のほとんどを失っていたのだ。

国王軍に威嚇され、飢えた民衆の怒りは自由や平等どころではなく、ただ爆発するばかり。アニメで描かれる革命では、オスカルは自分の情熱など燃やせない。
そのオスカルをバスティーユへと奮い立たせたのは、仲間にとって、民衆にとって彼女が必要だったからである。
彼女の司令官としての鉄のような戦う意志。その意志が必要だったのだ。
国王軍は武器も持たない民衆を鎮圧しようとした。
ロベスピエールの扇動があったにせよ、立ち上がった民衆はその時、確かに弱者だったのだ。オスカルは隊の仲間と共に彼ら弱者を守りつつ、国王軍の仕掛けてきた戦いに気持ちをひとつにして応戦する。

だが、戦いの場に崇高な理念はない、ただ戦いあるのみ。彼女は戦闘に残りの命をかける。
もうアランにさえ弱みは見せない。死の間際まで彼女は非情な司令官を演じ続ける。未来への希望すら、人々へ託す情熱すら語らず、ただサヨナラだけを残して息絶えるのだ。

そして、時は5年後。1794年夏頃だと思われる。生き残ったアラン、ベルナール、ロザリーの3人は再会する。
…しかし、何だ?この喪失感は。
情熱のままに生きた原作オスカルの、あの異常に高まるばかりの感動とはほど遠い、この喪失感。

それは登場人物であるこの3人もそう感じているようだ。
今回、最終回の前半、それもかなり早い地点でオスカルは息絶えている。
その後はえんえんとオスカルの追悼番組となっているのだ。
確か元々主人公だったと思われるアントワネットも、どこにいるのかよくわからなかったフェルゼンも、単にその後の顛末だけが語られ、いつの間にかオスカル一人が主人公になってしまっていたのだ。それは19話(中期)から顕著になった。途中で切り捨てられたアントワネットやフェルゼンは、主人公のオスカルの死後、再び返り咲くことはない。オスカル一人の生きざまを描くことに、アニメは全力を集中している。

オスカルは彼ら「滅びる側の人間」たちとは決別したのだ。近衛隊を辞め、その代わりに衛兵隊へと移って行く。
彼女はアランたち民衆側の人間とかかわることにより、彼ら「栄える側の人間」の心により生きている。
オスカルの追悼番組なのだから、アントワネットのその後の奮闘も描かれず、処刑も軽く流し、最後までオスカルとかかわった人間がオスカルとアンドレの死を悼むのである。そして、物語の進行から切り捨てられたアントワネットさえ、オスカルを偲んでいる。彼女に思いを馳せると心が休まると…。

 オスカルの死後5年、革命のたどった道をあらすじで彼らに語らせながら、行き着いたのはアントワネットが化粧紙で作った白いばらの花。
それはオスカルをイメージする白いばら。何物にも染まらず、気高く、そしてそれはアンドレなら彼女をそうイメージしたであろうというアランの推測でありながら、ロザリーは心から納得している。アンドレがオスカルのことを白いばらに例えたのであれば、彼と心が通じ合ったオスカルは何も言うまい。二人は本当に愛し合っていたのだから…と、彼らは信じている。二人はたとえ少しでも幸せな時間が持てたのだからと、それが残された彼らのせめてもの慰めになっているのだ。

だが、彼らはふと、思う。あの二人は何も残さずに逝ってしまった、と。
今、落ち着いて考えて見ると、形見も言葉も残っていない。そう、彼らを語る言葉が見つからないのだ。ただ、二人を永遠に失ってしまったという喪失感。
あの気高く高貴なオスカルを語るものが、何と!化粧紙のばらの花だけとは、そんなの寂しすぎるっ!と思ったのは私だけだろうか。

原作のあの「我らは祖国の名もなき英雄になろう!」とか「フ…ランス…ばんざ…い…!」と言う、強烈なせりふがないのだ。
極端な話、原作を読んだとき、オスカルが崇高な理念のために戦ったのなら、読者である私もその意志を継ごう!などと思うほど彼女の生き方はインパクトが強かった。
だが、アニメ版はそこまでオスカルに踏み込めない。
ならば、アニメ版オスカルは何を考えていたんだろう。それに、なぜ死ななければならなかったのだろう。アニメ・ベルサイユのばらにはわからない事が多い。

 どう考えても納得できない疑問。それは「オスカルはなぜ死ななければならなかったのか」ということ。
本末転倒ながら、なぜ死んだかという「過程」ではなく、思いついた「結果」から考えてみた。
どうにも納得できない事を考えるのだから、悩みながら色々な結果をひねり出したため、それぞれのつじつまが合っていないかも知れないが、気長に読んでやろうという方はそれなりにおつきあい願いたい。


■オスカルの死の理由 その1

一つ目は前にも書いたが(37話解説にて)、まず、彼女が女だったからである。
この理由1はどちらかというとアニメではなく原作のオスカルの死について感じた事と言って良いかも知れない。
原作について「オスカルが女だったからどうしたこうした」という考察は、いままでの長い年月の間にかなり語られているのではないかと思う。多分、目新しい事は書けないと思うので、おさらい程度に書くが、前述の文とつじつまが合っているか我ながらちょっと自信がない。

特に原作を読み進めて感じたことが、オスカルが革命後も生きていたとして、いつまで主体性を持っていられるか、ということだ。
実際、革命後という現実的な時代に、貴族の身分を捨てて平民になった女性が、果たして軍人として活躍出来るのか、想像しにくい。

当時の読者は「いつかオスカルは死んでしまう」と漠然と感じたと思う。
性格からしてもオスカルが虐げられた民衆側へ寝返ることは予測できる。
しかしそれだけではない。そう、女性であるオスカルがいつまでも先頭に立ち続けて戦うことは出来ないだろう、と。いくら架空の人であってもオスカルが強い人であっても、やはり現実には女性が人の上に立つことは出来ない、という「当時の現実」を少女は感じていた。

夢はあくまで夢、どこかでオスカルにも限界がくるという、いつかは現実にぶつかるという醒めた目で見ていたのだろう。
そもそもこの先、革命が待っていることは読者もはじめから解っている。正義感の強いオスカルが革命時にどんな行動を起こすか、たいていは予測がつくだろう。
またはアンドレの妻となり、所帯を持っていたとすれば、それは本編と言うよりファンによるサイドストーリーで書く分野であろう。

ただし、フィクションの世界というものはいくらでもつけ入る隙はある。オスカルを革命後も生かす場面はいくらでもあろう。またはオスカルでなくても男装の麗人という存在はどうとでも描ける。
また、革命後だけでなく革命前であっても女性の軍人が存在できたかという疑問もあるが、フィクションとすればオスカルのようなキャラクターは革命前の方が作りやすい。

私的に言うと、革命後の「史実をからめた歴史物語」を描くのに、「男装の麗人オスカル」が必ず必要だという理由があるのだろうかと思っている。要するに物語が盛り上がるかどうかが決め手になる。
ベルばらの舞台が革命前の混沌とした時代だからこそ貴族社会の最後の時がきらめき、貴族の血を引く男装の麗人がきらびやかに存在し、オスカルとアンドレの身分を越えた愛が盛り上がる。

特にオスカルが現実味を帯びて存在出来たのはアントワネットのおかげである。
たとえばアントワネットあってこそのオスカル。そもそもの主役・アントワネットの存在があってこそ、オスカルの存在も引き立つものであろう、と仮定してみる。2人は光と影、一対の存在なのである、と。

彼女のこれまでの半生はアントワネットと共にあり、(歴史的な)彼女の事件・出来事と共にあった。それはオスカルが女性だったからこそ、アントワネットのそばに居続け、二人は強い絆を持ち続けることができた。さらに男として生きるオスカルは社会の中にも切り込んでいく。
架空の人物だからこそ行動範囲が広く、物語の幅を広げることができたのだ。

しかし、王家の落日と共に民衆側へ寝返ったオスカル。
二人は革命の勃発というピークまで互いの人生がからみ合い、やがてバスティーユを境に離別していく。
歴史上実在したアントワネットの「護衛」としてフィクションの中で保ち続けたオスカルのポジションは革命とともに崩れてしまう。

原作においては革命後になって、オスカルの戦う姿勢をアントワネットがやっと主役として引き継いでいる。原作最後半のアントワネットの強い意志はオスカルと見まごうほどなのである。
女性の強さ、激流の時代を描いたこの物語は、アントワネットとオスカル、または登場した様々な女性たちの生きざまを写している。

もし、革命後のオスカルの平民としての生活、または王党派(なのか?)としての活動などを描いたとしても、それは架空の人物「オスカル」の個人的な物語として盛り上がるであろうが、ベルサイユのばらという歴史物語のベースにしっかり根ざしていたアントワネットを失なった以上、ノンフィクションとしての迫力はない。

原作者の元々の意図として、物語はアントワネットの一生を描くものだったとすれば、いつの間にかオスカルに傾いた振幅をアントワネットに戻してくる必要がある。原作で、オスカルが物語を牽引する描き方の限界時点が革命の勃発だったのなら、アントワネットへのバトンタッチはバスティーユということになる。
ならばオスカルはもっともオスカルらしい見せ所の最後で散ったと思えてくる。

ひょっとするとオスカルはアントワネットの青い鳥だったのかも知れない(軍服も青だったし??)。
彼女はアントワネットの良識をつかさどっている。だがオスカルが離れたことでアントワネットは滅んでいく。そして主を失ったオスカルも又、滅びていくのだ。…という見方も面白い。

ところで、ベルばらを久しぶりに読み返して新たな発見をしたという話はよく聞く。
誰もが後でじんわり感じるであろうが、ベルサイユのばらという物語はオスカルの存在そのもの以上に、人間関係とそのポジションがものすごく良い。
読者も年月を重ねると、恋人関係だけではなく夫婦や親子関係にも目がいく。そうすると、再び違った視点で見直すことが出来る。

人と人とのつながりが、相互関係のバリエーションが、最後の最後まで物語を盛り上げるために生きているのである。
これはやはり豊富なキャラクターの相互関係が絡み合っているためであろう。恋人の関係や友情・横恋慕・嫉妬・陰謀、さらに親子関係・利害関係などなど、物語の基礎になる人物配置が豊富。
実のところこの人物配置だけで、登場人物は作者から離れて勝手に動き出してしまうほど基礎は固い。

当初、原作者の池田氏は、バスティーユ攻撃に寝返った衛兵隊の兵士がいたという事を盛り込まれたのだと聞く(あやふやな記憶で申し訳ないが、そのような主旨だったと思う。間違っている場合は申し訳ない)。これらのドラマチックな実在の人物と魅力ある架空の人物の人物配置は、ひらめき?天から声が降りてきた?というほどすごい。

またそれ以上に、読者が女性として生きる事をずしりと受け止めた事は教科書には載っていない「生きた勉強」であったと思う。

前項の「随想 嗚呼原作」でも書いた事を再び持ち出すが、この物語を読んで感動したものの、「男VS女」の図式をあてはめて物語を見ると視点が定まってしまう。事実、私自身がそうやって思いこみ、それ以上を考えなかった。
「ベルばらは女にしか書けない」というと、何となく全て納得できたような気がして完結してしまう。確かにひとつの見方なのだが、今から思うとちょっとそれではもったいない気がする。見所は視点を変えるともっと広がるのだ。
また、「女にしか」書けない内容とは具体的にどんな事なのかも一度考えてみるのも良いかも知れない。
というのも、かつて自分が「ベルばらは女にしか書けない」と思った経験があるので、この話を何度も繰り返しているが、最終話の解説になってもまだ持ち出すところを見ると、我ながらベルばらを「男VS女」の図式で見続けていたのだとつくづく思う。

オスカルの死は「女だから」という事を一つめの理由としたが、「女だから生き生きと描けた」ということの方が大きい。
そして、登場人物の生き方は男女という枠を越えて「人はどう生きるか」という所に味わいどころがあるのだ。


■オスカルの死の理由 その2

これは以前、多少強引なこじつけで書いたのだが、彼女が母性的であったこと。
特にアニメ版のオスカルについて語ったことである。

人を守る母性が戦いに身を投じてはいけないのだ。(第37話解説参照)
後半のオスカルは女性性を背負っている。イメージとして、守りの姿勢の彼女が戦いの先頭に立つことは、暴力の勝利を強調してしまうのだ。母性は戦うものではない。彼女はその代償としてまず、アンドレを失い、そして自分も傷つき、望んでいたささやかな幸せも逃して自らも戦いに散る。

それはあまりにむごい。自分の命よりも大切なアンドレを亡くしたことで彼女はさんざん苦しみ、罪を贖ったではないかと言えば、これもそれだけではない。
オスカルという人物の定義はやはり原作の通り、革命の最も劇的な瞬間に命を散らすことになっているのだ。
それは「オスカルらしさの定義」によって、オスカルはオスカルである以上、バスティーユで死ななければならなかったと言うこと。これは三つ目の理由の中で語っていく。


■オスカルの死の理由 その3

その3としてやはり彼女が「滅びる側の人間」であったことである。これは「死の理由その1」で述べたアントワネットとの密接な関係に通じるものである。

この物語は原作も含めて、革命を越えた民衆の物語ではない。
革命を越え、果てしない動乱の時代を経て、現在へと至る希望の物語ではないのだ。フランスの王室という絶対権力が栄華を極め、そののち滅んで行く過程と、その中で運命に翻弄されつつ次第に強くなりながら人生を歩んで行く女たちの物語なのである。もちろん、心中ネタでもない。

 民衆の暮らしが何より悲惨なら、アントワネットもオスカルも彼らほど不幸な人生ではなかったかも知れない。
ド・ゲメネ公爵に殺されたピエール坊やは、人生の喜びも悲しみも何も知らないまま、今日の食べ物さえ心配しなければならない貧しい生活しか知らず、あげくの果てに撃ち殺されたのだ。そんな不幸な人々は数多くいただろうが、失礼ながら物語の脇役である人々では、華々しく盛り上がらず話として成り立たない。貧しい現実だけでは夢もロマンもないのだ。そこでやはり、オスカルのように数奇な運命の元に生まれた、希少価値のある大貴族の娘が主人公として選ばれることになる。

原作ではオスカルの死後、アントワネットはやっとこさ主役の座を取り戻しているが、そもそもこの物語は彼女のたどった歴史的にも有名な運命が発端なのだ。

革命時代に生を受けた女たちの生きざま。それを描くうえで、泣いたり笑ったりと、それぞれの知恵と個性を生かして、自分の手で運命を切り開くたくましい女たち。そんな女たちを描くには、やはり、自分のための情熱を持った女、そして自分勝手な女たちをバンバン登場させ、激突させるのが華やかで面白いのだ。そしてオスカルはと言えば、はじめは彼女らとは距離を置き、傍観者として登場している。
だが結局、アントワネットもオスカルも、同じ貴族なのだ。民衆側から描くのでは、ベルばらにならない。ベルサイユのばらというタイトルでもわかるように、この物語は民衆の物語ではない。

原作では革命のさなかでさえ、王妃アントワネットは主役級であった。そしてオスカルもまた、革命の初期に民衆側へ傾いたとは言え、それが歴史の流れによって民衆のほうへ権力が移動したことの証にはなっても、彼女自身が民衆になったのではなかった。
オスカルが貴族でありながら民衆と共に戦ったということで、それだけ時代の支配者が、貴族から平民へと変わりつつあるということにすぎない。
オスカルと民衆の間にははっきりとした区別があるのだ。

やはりオスカルは旧体制側の人間。新しい時代の幕明けにのうのうと生きていたら、滅びるべき貴族であっても、民衆にうまく取り入れば次の時代にも生き残れるのだと言う事になる。これでは滅びの美学ではなくなってしまう。
だから物語のけじめのためにも、オスカルは死ななければならなかった。
オスカルのような民衆の味方に付いた者でさえ、貴族であるがゆえに(特に彼女の場合、生死に関わる機会の多い「軍人」であること)生き残れないほど、時代は古いものを切り捨て、新しくなろうとしているのだ。


■オスカルらしさの定義

 それでは、オスカルが隊員たちと一体化して、バスティーユ以降もその意義を失われないのなら、やがてはその時代に生きる一人の人間として自分の居場所を見つけ、完全に溶け込めたのではないだろうかと言うことなのだが、ここには大きな壁がある。
オスカルらしさの定義である。らしさの定義とは原作のイメージの事である。

 では、原作オスカルはどう描かれていたのだろうか。私なりの解釈を述べることにする。
またまた主観なのだが、原作オスカルは母性という鎖から解放されていたように思っている。母性という表現が不適切ならば「女のくせに」という、女性を卑下する風潮という「鎖」でもかまわない。
「母性」というものを鎖と表現するのもどうかと思うが、確かに当時の読者は女性だからという遠慮、社会による女性への抑圧、女だからという限界を、外部から感じ、また自分自身でもそう思いこんでいた。

そういう「女性全体を漠然と一くくりにして覆っていた母性的なもののイメージ、あるいは女性性」というものから解き放たれた原作オスカルを見て、「人として生きる」という根本的なものを教えられ、読者は目からウロコが落ちたと言ってもあながち大げさではあるまい。

何でも有りの今の時代ではさほど衝撃的ではないが、旧来の男女の力関係をひっくり返したような原作でのオスカルとアンドレの関係(アンドレが精神的なリードをしているという関係まではひっくり返ってはいなかったのだが)は、当時はかなりショックを受けたものだ。
オスカルの身になって物を考え、初めて男性の立場に立ってみて、力関係でこんなに男性は優位に立っていたのかと感じる反面、女性としてもっとがんばらなければという熱意、そして優位に立つものは責任というものも背負うということも学んだのではないかと思う。

さて、革命を描きながらその燃え上がる民衆の力を一手に引き受けた原作オスカル。民衆が、ベルナールが、自由平等友愛を語るとき、それはいつしかオスカルの言葉となり、オスカルの情熱へと変化して行く。身分制度や重い税金に泣いてきたのはオスカルではなく民衆であるにもかかわらず、オスカルは彼らの苦しみを我が身のこととして感じ、彼らの情熱はいつしかオスカルの情熱へとすりかわって行くのである。この炎のような情熱をオスカルは得て、瞳を燃やす。彼女を中心として物語が展開する、華のある演出。これが普通に言う、主人公による主人公たるストーリー展開だと言える。それが原作ならではのみどころである。

平民議員が怒り、貧しい男たちが叫ぶとき、それはオスカルと対等の人物として登場するのではない。この時、必ず彼らはオスカルの背景として描かれており、オスカルは、弱い立場である彼らの代弁者となる。彼らの代わりに主人公のオスカルが泣き、怒り、そして身分制度への不満をもらすのだ。
オスカルは虐げられた民衆と一体になり、彼らの先頭に立ち、まさに革命の申し子のように、バスティーユへ向けてのエネルギーを蓄える。

 かつて、宮廷でアントワネット華やかなりし時、オスカルが第三者として傍観しながら物語を進行させたのと同じように、革命の影が見えはじめても、原作の彼女は民衆の持つ情熱の代弁者となり、バスティーユまでは確実にオスカルが物語を引っ張っているのだ。
アニメの視点が鳥瞰図的(強いて言えばアランの視点が見る側に一番近い)だとすれば、原作の視点はオスカルを通して見ていると言える。これは主人公主体の演出である。
手法とすれば、オスカルのモノローグをたくさん入れること。すると読者は雑念を払い、自分の意志で考える事なく彼女の思考に同調することができるのだ。

読者はオスカルそのものに感情移入し、彼女の立場でベルばらの世界を見ることになる(よって彼女の死後、視点を失った読者は何を基準に物語を見たらいいのか戸惑ってしまうのだ)。
その後、彼女はバティーユで命を落としているが、それが原作オスカルが革命を引っ張っていく限界だったと思う。それは彼女が実際に身分制度に苦しんだ体験を持っていないということだ。

民衆はバスティーユでの勝利以後、自分たちのエネルギーがどんどん強力になることを知り、元の支配者である貴族・王室への復讐を始める。
これは実際、身分制度に苦しめられた民衆だからこそ及んだ行為であり、崇高な理念を掲げた原作オスカルには当然、復讐や恨みという感情はない。彼女はあくまで気高く、誇り高いのだ。そんな復讐劇に参加するはずがない。血は血を呼ぶだけである。

もしこの時までオスカルが生きていれば、民衆の暴走しはじめたエネルギーと分離していたと思う。だが、自由平等を掲げた彼女の目の前から崇高な理念が見えなくなった時、一度民衆に傾いたオスカルには戻るところも無く、行き場もない。そうするとやはり彼女は、悲しい結果になるが、バスティーユで命を落とすしかなかったのではないのだろうかということになる。

高い理想のために戦うこと、信念を通すことは物語の中で非常に人間的であり、感動的に描かれるのだが、理想はあくまで理想の高みに存在し、人の手には届かない。
崇高な理念はどんな世の中になろうと消えはしない。だがたとえ存在しても、目には見えない。
たいていの人は崇高な理念を追い求めるが志半ばで倒れていき、またある人は理想を追いかけるために誰かを犠牲にしてしまう。そう、理想を追うことは諸刃の刃なのだ。

そして、 原作オスカルの希望は崇高な理念であり、アントワネットをギロチンへ送るものではなかったとしても、バスティーユ後の血なまぐさい騒動、あるいは王家をギロチンへ追いやった革命のパワーを思えば、原作オスカルは何のために戦い、あの壮絶な死は一体何だったのだろうかという問いかけが頭をよぎる。
ただ、納得のいく答えにはならないかも知れないが、原作オスカルは確実に未来を信じる勇気を残していたとだけは言えるであろう。


■滅ぶ側の人々

 ではここで少し視点を変えて、民衆の方から物語を見るとする。
たとえばの話、バスティーユ攻撃に剣を振り回し、先頭を切って参加したという、元娼婦でサロンの女主人テロアニュ・ド・メリクールなどをベルばらの革命時期に参加させてみる。または、あのアニメ版のジャンヌでもいい。

そうすると、オスカルは主役の座を食われてしまうのだ。生きることに必死になって来た女、下からたくましくはい上がって来た女に対して、オスカルは「生きるための苦労」という点で太刀打ち出来ない。オスカルは生きていくために自分を汚したり苦労をするという体験をしていないのだ。
彼女たちに「あんたにあたしの苦労がわかるはずない」と言い放たれたら、オスカルは反論できない。
アニメ・オスカルなら平謝りするだろう。原作オスカルは…どうだろうか。

確かにオスカルにも、男たちの中で軍人として生きて来た苦労はあっただろう。だが、それはあくまで貴族社会の中で優遇された者としての苦労である。ロザリーのように悲しい思いで体を売ろうとしたり、ジャンヌのように強がって悪女に徹することもなく、アランのように貧乏に泣いたこともない。
また、貴族の女としてもシャルロットのように、ロリコンと結婚させられることもない。
ちゃんと一人前の人(男)として認められていたのだ。これは虫けら扱いされていた民衆とは雲泥の差がある。

それに、これから興隆して行く民衆側の人間を主人公格で描くと、滅びる側の人間はどうしてもその勢いに「負け」てしまうのだ。

そしてまず、自由平等を熱望していたのは民衆側のほうである。オスカルはもともと優位に立っていた人間。たとえそのような自由や平等を求めていても、又、その熱望を理解していても、彼らにとってはあくまで他者、貴族であり滅びる側の人間なのだ。オスカルもアントワネットも旧体制の中で優遇されていた人間である。アニメではオスカルが民衆に受け入れられない場面が多々描かれている。

彼ら滅ぶ側の人間は革命をきっかけにして、自分の運命に立ち向かうのだが、やがては朽ち果てていくのだ。
それがベルばらという滅びの物語の結末である。

 もし、オスカルが一度でも汚れ役をしていたら、または民衆の中に身を置いていたら、「貴族なんか嫌いだ」と心の底から叫び、心の底から情熱を燃やし、革命後も雑草のようにしぶとく生き延びたと思う。まさにロザリーは貴族でありながら、しっかり大地に根を下ろして生きている。
だが、オスカルに民衆と同じようなみじめな生活や汚れ役はさせられない。
彼女はやはり華のある人生を歩んで来た貴族の令嬢なのだ。その汚れない、なにものにも染まらない潔さ、それがオスカル・フランソワの「定義」なのだ。

原作オスカルがバスティーユで死んだので、アニメもそうしたのか?という単純な理由ではあまりに情けないが、確かに「原作のオスカルらしさ」を考えると、オスカルが最も美しく散る場所がバスティーユだったと思いたい。


■アニメにおける革命の描かれ方

だが、原作とはキャラクターが違うアニメのオスカルの死は「オスカルの定義」だけなのかと言うとそうではない。
アニメは、原作とは正反対で、民衆の苦しみをオスカルは代弁していない。よって、彼女は自由・平等を口にしない。民衆とオスカルは身分こそ違えど、同じ時代に生きる対等の登場人物として描かれている。特にオスカルだけの主観を前面に出して強調していない。
また、彼女の感情も、信じたものも、活字や言葉では表現していない。時には動作や目線で、そして音楽などであらわしていく、まるで映画的な手法。

彼女は物語に登場する人物の中の一人となり、時代の流れ・革命に振り回されるのだ。
そして、オスカルやフェルゼンが恋に悩んでいる時にも民衆は飢えに苦しみ、悪政に泣き、オスカルとは別の所で革命が進行しはじめる。
革命に向かう民衆のエネルギーは現実的な話として描かれ、オスカル個人の話と革命は、独立した二つの柱として同時に展開する。
本来きらびやかなはずのベルばらの世界で、最小限に留めたい民衆の現実。

だが、オスカルの置かれた状態を説明するためには、彼女の生きた時代を浮き彫りにする必要がある。そのために身分制度が倒される時代を描く必要があった。
ところが、革命が近づき、民衆の力が高まって来るにつれ、歴史的な展開が求められてくると、民衆の声を代弁していないオスカルは、これから栄える側のエネルギーに押され、話の中心から弾き出されるのだ。

それは後期に入って「歩き始めた人形〜嵐のプレリュード」までの4話がオスカルとアンドレのじれったい恋愛劇だったのが、その後の「たそがれに弔鐘は鳴る〜合言葉はサヨナラ」の4話になると、三部会が始まったとたんに民衆を中心とした歴史的な出来事が物語の主流となり、オスカルは活躍すらできず沈黙してしまうことでよくわかる。確かその間に、原作ではオスカルとアンドレがお互いの愛を確認し、ドラマが一番盛り上がる所なのだが、それもない。恋愛している暇もないほど、世間では緊張が高まっているのだ。

そして、最後の「熱き誓いの夜に〜最終話」の4話では再び物語の主軸がオスカルに返ってくるのだが、その地点でオスカルは自ら話の中心になることを辞退するのである。そして彼女は、主役は民衆であると言いはじめる。なんと、主人公が主役を放棄すると言う、前代未聞の事態に陥るのだ。これではオスカルは華々しく散れない。

 本来、過渡期を描く物語は、やがて勝利する民衆側の誰かを主人公にした方が描きやすいのだ。わかりやすい例で言えば「逆境から始まり、苦難の末に希望を見つける」という一般的なパターンである。それでもとことんオスカルを「正義」として目立たせたいならば、ジャンヌは三枚目に、民衆はオスカルと接する機会もない端役として描くしかないだろう。

それに現実を描いて行くと、ロベスピエールの策略があり、民衆は暴徒と化し、アニメの演出では革命に酔えない。
原作のように、革命までをオスカルが中心になって引っ張って描けない以上、オスカルは民衆からは孤立し、民衆の情熱とは一体化できないのだ。
当然、民衆の声を代弁しないオスカルは、あくまで貴族として存在し、民衆の輪にも入れない。革命間際までアランはオスカルに対し「あんたたち貴族」とつっかかっていたし、そんな衛兵隊すら、寝返ったとてすぐには民衆に信用してもらえなかったほどなのだ。

 だが、それが現実だと思う。貴族と平民はそれだけ住む世界が違った存在なのだ。革命までの盛り上がりを一手に引き受けていた原作オスカルのように、彼女を前面に出す演出をしない限り、貴族の身分である彼女は、革命へと沸き立つ民衆の情熱から完全に切り離されてしまう。

もちろんこのままでは民衆の仲間になれるはずもなく、民衆が、アンドレが、革命へと心を燃やすすぐ横で、彼女は貴族の一人として、民衆の敵として、沈黙せざるを得なくなるのだ。彼女が何を言っても、「貴族のあんたにわかるはずがない」と言い返されたらぐうの音のでない。オスカルもその事実を認めて、アランの皮肉に対し、怒りを示さない。
未来の主役である民衆の「自由・平等・友愛への熱い思い」と、その敵である貴族オスカルの「謙虚な決意」は物語の中で別のものとして描かれている。


■アニメ版オスカルの真意を考える

 では、彼女は一体、何を信じて戦ったのか…。
貴族にも平民にもなれないオスカル。
そんな彼女が独り、孤独の中で信じたものは、自由・平等・友愛の精神ではなく、武器も名もない民衆の力になろうという決意である。自由・平等・友愛の精神を掲げる事こそ、虐げられてきた民衆の特権であるとし、貴族である彼女自身は、民衆の願いを掲げることを謙虚に遠慮している。

 民衆の敵である彼女が、決しておごらずへりくだって彼らの盾となり、守ること。それは民衆の熱望「自由・平等・友愛」が出来るだけ平和に実現するために、自分には何の栄誉も見返りもない捨て石になる事なのだ。

 よって、その民衆の敵であるオスカルがどうやって隊員と協力し、バスティーユへと行くのかと言うこと、そこから後がアニメの作品作りの重要な部分である。
オスカルが衛兵隊の部下たちをいかに信頼させ、いかに民衆たちと手を組むのか、彼女の「行動」にかかってくるのだ。
ここでアンドレの存在が大きくなって来る。彼は平民であり、衛兵隊の仲間である。それに一応、彼らは男同士。アンドレの一途な気持ちも知っていただろう。彼女はそのアンドレに従うと言ったのだ。それも彼女が自分の職場でこれを言ったことに意義がある。何せ男社会には意地とプライドが付きまとっている。
オスカルは貴族の身分を捨て、隊長であることも捨て、ただの女であると、部下の前で報告する。普通の妻ならそうであろう平民の女と同じなのだと彼女は言ってのけたのだ。

彼女の決意は平民という身分に尊敬と誇りを持てると物語っていた。いや、アンドレを真に尊敬するオスカルであるからこそ、身分制度そのものを否定できたのだ。むしろ身分がどうこう言うより、人は人としての尊厳が有るのだという現代に通じる考え。
そのオスカルがアンドレに惹かれたのは、心の奥底で彼らが同じものを見つけたからであり、アンドレにしてもそうだったのだろう。アンドレがオスカルに対して抱いていた静かな愛情。恨みや憎しみのような爆発的な感情ではない、もっと強いものの存在。アンドレはオスカルを守ろうとし、オスカルもその気持ちをいつしか自分のものとして身につけている。

自分を与え、損得なしに人を守りたい気持ち、2人はそれを共有していたのだ。
彼らは互いに影響されあったのか生まれ持った物なのか、どうやら似た者同士である。

だが貴族のオスカルは、民衆の自由平等を求める気持ちこそ、これまで虐げられていた彼らの特権であるとし、あえてその言葉を遠慮して、口に出さずに沈黙していたのだ。彼女の謙虚な態度からは「滅びる側の人間に出来ることは、興隆していく側の人間の熱望を黙って守ることだ…」という謙虚な思いが伺える。
だから、オスカルの口から革命に至る道程、ないし情熱は語られない。このあたりは原作と大きく違っている。

確かに、起こした行動は同じく7月13日なのだが、戦いの原因が違っているのだ。原作オスカルは自分の情熱を燃やして民衆たちの先頭に立って戦い、アニメオスカルは民衆(具体的に言ったのは隊員たちの家族のこと。多分、その人たちは武器もない貧しい労働者だと思われる)を国王軍の攻撃から守ろうとしたのだ。
このアニメの展開では、くどいようだが、彼女が先頭を切って「自由平等を」と叫んでも、平民側からは、そんな偉そうなことを言って、本当は俺たちの苦労なんかわかりっこないと言い切られてしまえばおしまいなのである。

 そこで彼女が同時代に生きる人々とかかわる方法、それは人に奉仕することだったのだ。
みずから貴族の立場を捨て、それだけではなく彼らの役に立ちたいという誠意を見せたことだ。それも押し付けがましいものではなく、自然に、である。
そういう心のあり方で、人とかかわる道をオスカルは選んだのだ。彼女が対象にするのは常に「人」である。抽象的な理念ではなく具体的なのである。
民衆より一段下に下がり、へりくだって、彼らに「従う」こと、役に立とうと言う気持ち。

いや、役に立つと言っても、価値ある自分を人に示すということではなく、どちらかと言えば喜んで自分を差し出す、と言った方がいいかも知れない。
それは見返りを期待しない無償の行為である(女の特権という意味で考えれば、これは彼女が女性だから名誉などの欲がない分、余計に隊員たちには真実として受け入れやすかったのではないだろうか。アンドレに従うと言って、女性らしさを強調したのも、この際、得策だった?…とたびたび我ながらすごい偏見)。
また、衛兵隊を疑う民衆の前に立ち塞がり、隊員たちを信じてやって欲しいと、命を張って説得したり、オスカルは隊員たちだけでなく、直接民衆たちにも、ありのままの心でぶつかっていく。

それだけで部下たちはオスカルを信用したのだが、彼女は何と、とことん、誠意を実践してしまう。全てを捨てて、そして全てを失ってまでも、彼女は戦い続けたのだ。彼女はその時、民衆が最も必要としていた司令官としての力を提供し、最後までその姿勢を保ち続けた。
果ては、人を守ることの究極、命すら失って、誠意が本物だということを証明するに至る。

 アランはオスカルに、そこまで望んではいなかったと思う。そこまでしなくても、親友の妻になった彼女をオスカルと呼び捨てにするほど親しみを持ちはじめ、「共に歩もう」としているし、戦闘にかけてはオスカルの指揮に従っている。また、オスカルも限りなくアランたちに歩み寄り、隊員たちは一体化していったのだ。彼女に命を落とすまで司令官を演じ続けてくれとは誰も言ってはいない。
むしろアランは、戦いに徹したオスカルの意志の堅さに、反対に、もう少し弱くてずるい人間になった方がいいと思ったはずだ。
なんと、オスカルに対してあれほど反抗的だったアランの態度の変化で、オスカルが民衆へ溶け込もうとして行く過程がわかるのだ。結局、オスカルに頭が上がらないとわかったアランは涙ながらに、オスカルの最後の命令に対して最敬礼で応えている。

 そして本来、バスティーユ以降はアントワネットが物語を引っ張るべき所だったのが、バスティーユ直前にオスカルが民衆に歩み寄る過程を描くうちに、この物語は「革命期に生きた、滅びる側の女たちの物語」ではなく、「滅びる側の女が、栄えて行く側の人々といかにかかわって行くか」という、人と人とのかかわりかたを描くドラマへと変わって行ったのだ。


■原作オスカルの死を回避する

 アニメオスカルが誠意を尽くして、「人間と人間のかかわりとは何か」を突き詰めて行くうち、物語は華々しい女の生きざまを描くものではなくなってしまった。人とかかわる中で、自分の欲を捨てて奉仕しようとした、果ては自分の存在を主張せず、ひたむきな態度で壮絶なまでに人を守ろうとした女の話に変わっていたのだ。
先にも述べたが、原作で我々が感じた事。革命に全てをかけた原作オスカルの死は一体何だったのかという「疑問」がある。革命後の流血を彼女が希望したのではないにしても、事実、オスカルの信じた道の先に流血は起こったのだ。

革命後、崇高な理念が見えなくなっても、原作オスカルの命がけの行為が無駄だったとは思いたくない。彼女の行為は正しかったのだと信じたいという気持ちが我々にある。だが、バスティーユにオスカルを置き去りにして、歴史は進んで行ったのだ。当然、アニメでも彼女の死に対し、同じような虚しい気持ちを味わいたくはない。
そこで、オスカルの信じた道の先に流血が来ないようにしたのが、アニメにおけるアレンジだったと思う。
バスティーユの白旗の直前にオスカルが息を引き取ったのは、バスティーユの陥落、さらに革命の行方は、決してオスカルの生き方を物語ってはいないという事なのである。

つまり崇高な理念ではないもののためにオスカルは戦うことになった。これが原作のオスカルの死について我々が抱いた疑問への一つの答え、もしくは原作オスカルと同じ死を回避しているのである。
アニメオスカルが最終的に信じて選んだものは崇高な理念ではなく、隣人への愛情である。

ところでその一般的に使われる「愛情」というものをもう少し詳しく言うと、二つに分けることができる。それは求める愛情と、与える愛情である。
オスカルは最初、与えられる愛情を拒み続け、強く一人で立とうとしていた。求めずに与えるのみの愛情は、一見、欲がない強い人のように見えるが、実は人からの愛情を拒絶し、人を知らず知らずのうちに傷つけているのだ。
一方、アンドレはオスカルに対し、「求める・与える」二つの愛情を持ち続けている。だが彼は押し倒し事件からこっち、与える愛情に終始しているのだが、その「与える愛情」にこそ、オスカルはやがて気が付くのだ。

彼女は初めて心の底から、与えられた愛情を受け入れ、素直に彼を求めている。
そしてその愛情はやがて二人だけに留まらず広がって行き、アンドレのみではなく全ての人に向けて愛情を分け与えていく事になるのだ。
もちろん、今こそアンドレと共に、二人で心を一つにして、である。…愛情は人と分かち合うことで増えていく。…だが、普段こんなセリフ、誰も口にはしない(書いていてもちょっとはずかしい)。
よって彼らが戦いに身を投じたのは、やはり「崇高な理念」として言葉で言い切れるものではなく、…隣人を大切にしたい、互いに尊敬しあいたい…というようなもので、言うなれば崇高な理念ではないものの、理想にも似た「心がけ」なのではあるが、人と人との関わり方の基本的な気持ちなので、どうにも格好よく言えないのである。

だが、愛情から動いているオスカルの謙虚な姿勢には、貧しい民衆がかわいそうとか、助けてやりたいというおごりはない。
ここまで徹底した誠意を見せられたら、アニメジャンヌであろうが、オスカルに太刀打ちできない。真心(愛)というものは恨みや怒りすら打ち破るのだ。
誰も自分の得にならないことに命までかけてしまう無謀な人間に勝てはしない。いかにジャンヌでも自分はかわいいのだ。
後半のオスカルの強さは、そんな徹底した奉仕の態度である。

また原作のように、オスカルを愛するアンドレが、みずから望んで彼女のために犠牲になり、情熱の巻き添えになったのでもない。死をも恐れぬ激しい愛情を表現していた原作を思えば、どうやらアニメは原作から離れ、激しい恋愛ドラマではなくなっていると言えよう。
たとえば砂糖の入っていないクッキーを口に含んで、じんわり甘みを感じるまで待つような、地味で渋い恋愛劇のようである。
どうしても原作ベルサイユのばらを考えると、二人の恋愛期間がアニメでは非常に短いことが気になるのだが、こうやってアニメ版を色々と考えていくうちに、恋愛部分が話全体の一部として描かれ、地味な表現になっていたことも、それはそれで味があるので良いかも知れないと思えてくるのである。


■語らずのテーマ

 確かにアニメオスカルの思いは原作ほどかっこいいものではなかったと思う。それは例えば、人は一人では生きて行けない、とか、親や兄弟に発砲してはいけないとか、普通で当たり前のこと。
でも当たり前の事ほど、おろそかになっていることも少なくない。そして人々とどう接していこうかとする彼女のさまざまな思いは語られず、ただ沈黙あるのみ。

楽しいこと、悲しいこと、色々な思いを人に伝えようとしたとき、言葉は反対に少なくなるように、オスカルの思いは言葉として出て来ずに、その行動として現れて来る。
彼女が黙ってバスティーユに臨んだのも、何も語らず死んでいったのも、彼女がただ愛情から奉仕したいと願っているさまざまな思いは、言葉にできない事を知っていたのではないだろうか。

「私は人々を守りたい」と言っても、それだけではただの概念である。
だが、事実、彼女は人々を守ろうとして行動を起こし、命を落としている。

 運命の扉を開けるために立ち上がったオスカル。国王軍への応戦、そしてバスティーユでの戦い。どちらも命の危険が伴う事ばかりであるが、彼女が残りの命を華々しく散らす場所を探していたとは思えない。
彼女はアンドレに語りかけている。「小さな教会を見つけて結婚式を挙げて欲しい」と。そこには命の期限を切られて、やけになっている様子はない。残り少ないから尚のこと、命を有効に使い、悔いのない人生を送ろうとした彼女の願いはいかにもささやかで、ありきたりの幸せを求めていたかがわかるのだ。

ただ、その幸せの前に立ち塞がっていた大きな戦いに対して、自分の心に正直に行動し、自分の誠意をつらぬこうとしたのだ。
もちろん、彼女の想いの中には民衆の気持ちと同じ自由平等への熱望もあったと思う。ただ、その心を実践した彼女の行動は、情熱を内に秘めたまま相変わらず外見はすまし顔の冷たい女なのだ。

 一見、自己犠牲に見えるアニメオスカルの行動。
自己犠牲。…宗教・信条的なイメージによく登場するこの精神なのだが、アニメでは不思議と神という概念が彼女(オスカル)の口から語られる事は全くない。
「おお、神よ」という程度すらないのだが、彼女の行動を説明していくと、あくまで私の感じた主観なのだが、どこか「キリスト教的なイメージ」もしくは「神を信じる心」が浮かび上がってくるように思える。
ヨーロッパを舞台にしているにもかかわらず、物語全体(ただし演出の変わった後半についてのみ)を通してこのアニメ作品には、キリスト教についての「言葉」がオスカルの口からほぼ出て来ないのは、制作者・視聴者共に西洋の神という概念に不慣れな日本人であるからなのだろうか。原作ですら使われているのだが、なぜかアニメ版オスカルは神について語らない。

確かにマンガならともかく、あまりアニメで「神様」を連発されてもセリフが大袈裟になるからかも知れない。
それに宗教的な表現には規制があるものなのか、たとえそれに引っ掛からない程度の表現に限っても、オスカルは「神」という言葉を出さない。
がしかし、日本人にもある「誠意を尽くす」という精神、彼女はそれを実行しようとして、苦しみに突入してしまう。

 原作との大きな違いである、命の期限の宣告。それを知ったオスカルが何をしようとしたのか。

余命幾ばくもない彼女が残りの命をかけたものは、自分を使い切り、何も残さないことだった。

心の命ずるままにひたすら人の中へ入り、人と共に生きようとしたこと。自分と人との関わりを実感しようとしたのだ。

「人は一人では生きられない」。それはやはり、命の期限を切られたからこそ、より短い時間の中で、心の内に激しい情熱を持って、人とのつながりを実感しようとしたことに他ならない。
そして彼女がもっとも深く心を分かち合いたいと思っていたのは、間違いなくアンドレの事だろう。

ただ、彼女の場合、性格上、病気にならなくても同じことを考えていたのではないかと思う。タイムリミットがあった分だけ、想いがより濃縮していただろうけど。
そしてこれはきれいごとの推測にすぎないが…。
もうすぐ自分がこの世界と時間の中から去っていくという事実に対して、これが平和な時であれば、世の中すべての物がいとしく、美しく見えてくる。そして、何か生きている実感を得ようとするのではないだろうか。可能な限り人と接し、心から深く交わりたいと思う気持ちをオスカルが持っても不思議ではない。

しかしこの非常時にその気持ちがどういう行動に出るか。武力を持つ彼女の場合、虐げられた人を守るという大局的な実行に出る。
それが、弱さも感情も殺して民衆の盾となり、彼女が鉄の意志で司令官を演じ続けたこと、である。彼女は死に際して涙すら浮かべない。それがオスカルの自制心の強さなのだ。
だから、そんな彼女であるから、余計に戦いは生き延びなければならなかった。黙して語らない彼女の行動そのものに信念が現れてくるのなら、ささやかでいいからその愛情を、生きて、生き続けて、これからも行動で示し続け、困っている人には直接手を差し伸べ、そのまなざしで人々の肌に感じる愛情を注ぎ続けなければならなかった。オスカルの行動はこれからも続けられることによって、もっと広がり続けたはずだった。


■失ったものの大きさ

 だが彼女は沈黙し、守りの戦いに徹した。まさにその時、死はやって来たのだ。
もしバスティーユを落とし、新しい扉を開けた後にアンドレと共に生き延びてさえいれば、夢も希望もあったのだ。少なくとも命の期限の半年間は…。
それにアニメでもオスカルは、バスティーユ以後は民衆の暴走から分離しなければならなかったであろうし、当然、この後の民衆による貴族への復讐劇に参加するはずはない。あくまで社会的な弱者につこうとするオスカルは、バスティーユ以降は戦線離脱し、暴走する民衆から孤立していたかも知れない。

そもそも彼女はバスティーユ攻撃に崇高な理念を掲げてはいない。「力ある者は弱い者を守るべき」という気持ちを持ち、不当な暴力から民衆を守ろうとしたのだ。
その後、革命が進み、自由や平等という理念が見えなくなっても、直接、民衆とかかわり盾になろうとした彼女の「弱いものを守りたいという意志」は、戦いの意義を失ってはいない。
たとえ武力でなくても、弱いものを守るという行為は、生き残った仲間と共に続けられたはずなのだ。それもひとつの戦いである。

そう、彼女の思いはバスティーユ以降にも通用するものだったはずだ。だが、守ることを信念とする者が攻撃に身を転じた結果、つまり彼女の死によって、意志は実行されないまま終わるのである。

むしろ衛兵隊の兵力が失われ、隊の統制が取れなくなった以上、武力とは無縁の医療とか教会の活動とか「命を守る」などの、違う方面で奉仕しはじめていたかも知れない。いや、そうあって欲しいと思う。彼女のような向こう見ずな人間に剣を持たせることはそもそも間違いだ。
とは言え、どう転んでも彼女の余命は半年なのである。奇跡を信じる以外、彼女の未来をどうこうとは論じられない。

原作の場合、バスティーユはオスカルにとって最も美しく散る舞台だった(と思いたい)。新しい時代を信じ、情熱のかぎり命をかけた原作オスカル!
ベルばらならではの展開として、オスカルはバスティーユで散る、という定石からは逃れられないのだ。
そしてあれほどオスカルらしさの定義からはずれていたアニメオスカルでさえ、オスカルは気高く汚れなくあるべきであるという、ベルサイユのばらという滅びの物語の「らしさの定義」からははずれられない。

そんな、オスカルらしさからかなりはずれて描かれていたアニメオスカルが、かろうじてオスカルでありえるために、ただそのためだけにバスティーユで死んだとすれば、これは華々しいどころか、彼女の人生を物語る話としては、彼女の生き方を描き尽くす前に、あるいは彼女の全部を明らかにする前に、ちょん切られてしまったという落胆を我々は味わうのだ。アニメオスカルの人生は、見ている我々の側から言えば、放送途中打ち切りの状態なのである。

アニメ版で、オスカルがアントワネットと分離した時点以降、オスカルの行動が「ベルサイユのばら」という歴史物語としての重みを失ったとしても、すでにアニメ独自の「人はどう生きるか」という重要なテーマは、原作を離れて独り歩きを始めようとしていたはずなのである。
アニメ版オスカルはオスカル単独でアニメのテーマを牽引できるはずであったのだ。

後半の演出はオスカルの思想ではなく、彼女の行動に重点を置いている。
沈黙するオスカルは考えの全てを、行為で語る人だったのだ。
行動が物語るのであれば、死ぬと何も残らないではないか。
アニメ版オスカルは、死と隣り合わせの戦いの場であるバスティーユで真価を問われる人物ではなかった(しつこいようだが、これは原作と比較して語っているのではない)。
困難の中も生き続け、人とかかわりあいながら、助けあうことの大切さを、態度で示すべき女性だったのだ。

戦いには彼女の武力が必要だった。だが彼女が本当に求められていたのは武力ではない。あるいは崇高な理念を後生に伝える事でもない。
人を守るためには、どんな困難にめげず立ち上がって来る、人間としての強さなのである。
又、思想を語らず人に奉仕することは自分を犠牲にして個性を殺すことなのかと言えば、そうではない。

生き残ったアランたちの心の中に、「どんなに世の中が乱れようが、確かな誠意を貫いた人がいたのだ、人間も捨てたものではない」という安らかな気持ちをもたらし、彼女は強烈な印象を彼らの中に残して、いっそう個性的に生き続けるのだ。
その彼らの心に「人はやさしくなれる」という希望を残した彼女は、それを貫くために命を落としてしまったのだが、たとえその志が半ばであろうが、反対に長く生き続けようが、愛情を示す行為がどんなものであろうが、彼女が最後まで持ち続けた愛情自体は決して変わらないのである。
だが、そうやってオスカルが人にかかわり続け、アランたちの心に食い込んでいった深さが深いほど、彼女を永遠に失うことが損失となるのだ。


■脱力感の原因

 失ったものは、本当は失ってはいけないものだった。その喪失感。
彼女を失った喪失感が大きいのはその為である。
そしてオスカルがいかに人とかかわっていくかを描くドラマに変わったからこそ、バスティーユ以後はテーマからはずれたアントワネットにバトンタッチができず、彼女は早い地点で切り捨てられることになった。
そして人とかかわるドラマだからこそ、オスカルが人とかかわれなくなった(死んだ)地点で、もう話は続けられなくなったのではないだろうか。

物語の主人公であることを放棄したオスカル。だが、その姿勢は人と深くかかわろうとしたことの現れであり、結果的にオスカルは、この「人とかかわる」物語の要(かなめ)であった。
革命の勃発を舞台にして、オスカルただ一人の壮絶な生きざまと信念を取り上げることになり、結局、民衆とかかわることを拒絶したアントワネットの死は詳しく描かれないのだ。そしてその証拠に、アランは最後までアントワネットを嫌っている。

 オスカルの死後、滅びる側の人間として気高く散ったアントワネットの強さ、そしてオスカルがバスティーユで残した「崇高な理念」が消えることのない炎として読者の心に燃えている原作。
それに比べ、バスティーユ以降も生き続けて「自らの信じた行動」を継続させてこそ真価を発揮するアニメオスカルが、運命に立ち向かったばかりにバスティーユに臨み、果てはこの世から永遠に失われることによって、人々に与えた損失の大きさが、見る側の我々にまで損失感を抱かせるアニメ版ベルサイユのばら。

そのくせ、彼女が精一杯、運命に立ち向かったことに対して、たとえ死でもってその戦いに終わりを告げたことは、もうこれ以上オスカルが厳しい道を歩まずに済むのだという安堵感。その、心から彼女には安らかに眠って欲しいといういたわりの気持ちを抱かせる彼女のひっそりとした最期。

彼女がひたむきに人々と生きようとしたことは、彼女自身の精神によるものであり、たとえ、彼女の死に立ち会った人が少なくても、バスティーユの陥落を見ずに死んでも、決して残念なことではない。それらの結果は、彼女が精一杯生きた証ではないのだから。

 そして見ている我々の心には、生きるも地獄、死ぬも地獄のようなオスカルの人生(お…大げさな…)を振り返ると、彼女は一刻も早くこんな苦しい人生からオサラバして、死んで楽になるべきであったという事。
又、それとは全く逆の、彼女は生き続けて、その愛情で人にもっと歩み寄り、人とかかわり続け、もっともっと人々を直接照らし続けなければならなかったのだ、という事。
死んで楽になって欲しい、生きていて愛情を注いで欲しい、アニメオスカルに対するこの二つの相反する我々の希望。

また、ここが肝心な所なのだが、彼女の死が損失として感じられる一方で、彼女の死によってさらにテーマが明確に浮かびあがってくるという皮肉にもすばらしい演出。
テーマを語るべき人が、死を以て葬り去られたことで、よりテーマを物語るとは?!
「オスカルらしさの定義」のみならず、アニメ版のテーマを浮き彫りにするためとは言え、こんな所にもオスカルは死ななければならない理由が合ったのかと呆然としてしまう結末。

この矛盾をどうしたらいいのか、そして、何でオスカルは死ななきゃならなかったのかと自問して、パニックになっているうちに、ドラマはそんな我々を無視してラストシーンまで進んでいく。

バスティーユを生き残った民衆、アラン、ベルナール、ロザリー。
オスカルが、彼らこそ主役だと言い、みずから脇役へおりたはずなのだが、アランたちはオスカルの死後、その肩に掛かって来た「人とかかわる」ドラマの責任の重さに、ただオスカルを惜しむことしかできないでいる。
原作オスカルの掲げた情熱が、たとえ彼女が死んでも人々の心に生き続け、未来の人間に託せるものだとすれば、アニメオスカルのあたかも自分の欲を捨てたような「無心になって人に奉仕する行為(行動)」というものは、彼女の死と共に二度と見ることはできず永遠に失われてしまうものなのだ。

 戦いを回避しようとし、だが人を守るために戦いに散ったオスカル。死ぬべきではない人間が真っ先に命を落とす、何たる不条理。

 情熱を燃やすことに幸せを見いだせた原作オスカルが、少なくとも情熱のままに充実して生きたとすれば、彼女には悔いはなかっただろう。それに最愛の人、アンドレが彼女を迎えに来ていたようなのだ。
アニメオスカルも、自分の選んだ道なのだから同じく悔いがないとしても、苦しんでいる人がいれば自分も幸せになれないと感じる彼女の「自分に出来るだけのことを精一杯する」行動が、結局、自分の幸せを犠牲にしてしまったのだ。そのあげくが完全な死である。何もなくなってしまうことのみ。

もちろん、作中ではアンドレも迎えにこない。
そんな彼女が恨みや後悔すら漏らさず、つらい事実さえ彼女が受け入れてしまった事は、見ている我々凡人にとっては、感動よりも、「何か不満はなかったのか、言いたいことはないのか」と、問いかけたくなるほど悔しさが残るのである。

 ならば、オスカルは本当に死ななければならなかったのか、幸せになる方法は本当になかったのか、たとえあんな抜き差しならない状態でも、彼女にはどうにかして生き残るチャンスは万に一つもなかったのだろうか、という我々の問いかけに対する答えはないまま、確実なのは「人は必ず死ぬ」と言う現実のみが残るのである。
サン・ジュストの言ったセリフがここに再び浮かんでくる。
「時代がどう動こうが、人はある瞬間生まれて来て、そして死んでいく。だから誰も生きている間は自分の事を考えている」と。
その言葉の全く逆(人のことを考える)を徹底的に実践したオスカルも彼の言葉通り、ある日突然死んでいったのである。
また、自分のことを考え抜いた結果が、他者のことを思いやることであったのならば、まったくもって彼の言葉通りなのである。どちらでもいいがとにかくむなしい。

架空の物語のはずなのに、ここぞとばかりに容赦なく、人生なんて、人の生き方なんて答えなどあるはずないと、夢も希望もなく、ひたすら現実が我々に突きつけられるのである。
さらに、原作とは違った意味で、オスカルはなぜ死んだのかという虚しい気持ちを味わうのだ。


■急ぎ足で去っていくオスカルの面影

 我々がテレビにかじりつき、「なぜ?なぜ、オスカルは死ぬのか?」と、オスカルの不条理な死に疑問と不満を持ち、たらたらとその後の顛末を流す画面に向かって食ってかかっているその間にも、何も答えてくれるはずもない画面では、急ぎ足で一方的に時代は流れていき、オスカルは過去の人間として追悼されて処理されてしまうのだ。
そしてラストシーンを終え、我々の前からオスカルどころか、ついにはその世界も消えていくのだ。

あまりに寂しい白いばらの造花。感動というよりは落胆。
最終回を終えて、オスカルの死を悲しむ前に、ただ失ったものの大きさに愕然とするアニメのラストシーン。
これこそ、失ったものの大きさに愕然とする落胆であり、感動と言うよりも、オスカルの不条理な死(現実)を、納得できないままに追悼しなければならない、いらだちの気持ちなのである。

 あまりの不条理に涙した最終回。だが、この部分に、原作と同じ「オスカルの死」を求めては、混乱の元である。
又、彼女の生きざまを、単なる男装の麗人の悲劇と解釈してはもったいない。生きること、信じること。人生のテーマはもっと深いところにあるのだ。

言い方を変えると、オスカルは何か目に見えない強い力に導かれて戦っていた。
それを「強い意志」と表現してもいいのだが、この最終話の後半、特にオスカルの死後については、生き残った面々が今は亡きオスカルの「意志」を感じながら生き続けている。
原作ではあまりにも衝撃的なラストシーン。
アニメはそれとは全く違うラストシーンではあるが、主人公とは言え避けられない死という現実、又は無常観というような抗いがたい時の流れを、ラストシーンの静かな海岸と空を自由に舞うカモメが象徴しているのだ。

アニメのラストシーン、アランの言葉少なの表情がアニメ・ベルばらの本質を、そしてオスカルとアンドレの生きざまを強く強く物語る。

もし、今は亡き2人が、そして仲間たちが、崇高な理念を胸に戦ったのであれば、アランは信念に命をかけて革命の中に飛び込んでいき、命の最後まで戦っていたであろう。
それが死んでいった者たちへの彼の誠意であり、生き残った彼の生き方であり、亡くなった者のたちがいつまでもアランと共に生き続けることになるのだから。そう、原作のアランがそうであったように。

だがアニメではアランはそれができない。
何も語らず、ただひたむきに捨て石になることにすら命をかけたオスカル。
ただ、家族を守りたい、仲間を幸せにしてやりたいという気持ちのみで戦って散っていった仲間たち。
人が戦うとは一体何なのか、そしてあの戦いは何だったのか、アランは彼らの生きた後を振り返ってみる。
そこで彼はたびたび繰り返されてきた人類の悲しい歴史に直面し、根本的な「人はどう生きるのか」という壁に行き当たるのだ。

オスカルはオスカル自身の道を走り去って行った。アンドレも、そして仲間たちも。
まるでアランにはアランの行く道が有るのだからと、突き放すように。
おかげでアランは、もう生き急ぐことすら出来ない。

アランの脳裏に一瞬、白い薔薇を手に取り微笑む二人の姿がよぎる。
“俺はまだ色んな想いを引きずって生きて行くよ…。なぁ…”

ふと、アランは遙かな海を望む丘に立つ二つの十字架に目をやる。彼の守るべき人たちがそこで安らかに眠っているのだ。
そして遠い地の丘に立つ、同じような二つの十字架に思いを馳せる。

“あの2人も今は安らかなのだろうか”
柄にもなく感傷的なことが頭に浮かぶ。だがそれもつかの間、彼は我に返る。急いで耕さなければならない畑が目の前に広がっているのだ。彼はクワを振り上げた。

“生きているだけでやっとなんだよ”
それがアランの選んだ生き方なのである。
無心に生きている間は人は争わない。心にも正直に生きられる。そして孤独すら友にできる。

なぜ彼ら死んだのかという明確な答はきっとアランにもわからない。
なぜ死んだのかという問いは、どう生きたかという問いでもある。
その答は一人一人の心の中にある。
生き残った者たちは自らの人生で問い続けるのだ。

真実は亡くなった者の胸の中に永遠にしまわれたまま、いつか忘れ去られていく。
そして人々が忘れ去った後も、暖かい光を抱いて日は昇り、うち寄せる波や、風に乗るカモメはいつまでも変わることなく永い時の中にいる。
美しい光景を背景に、何と人の存在の小さい事か。

オスカルやアンドレも今は全てを過去に残し去りカモメに姿を変えて空を飛んでいるのか。
あるいはカモメになり風になり、生き残った者たちを見守っているのか。
または亡き人の面影をカモメに重ねる人々の想いをよそにカモメはただ自由に空を舞っているだけなのか。
それは誰にもわからない。


■ベルナールの「フランス革命小史」

かなり重い話になってしまった。ついでに長いし。少し頭をほぐそう。
最終話の進行のためにベルナールの言うところの革命回想録の話が出てくるが、ファンの心をくすぐるシチュエーションである。
亡き人の日記、あるいは生き残った人による回想というのはもうすでにサイドストーリーなどでファンによって書かれていると思う。
アランやジャルジェ家の人たちがオスカルの病気のことを知ったのはいつなのだろうか、革命以後、ばあややジャルジェ家の人々はどうしたのだろうか、ロザリーはオスカルの最期をばあやに語ったのだろうか、アンドレがつけていた日記の行方、亡くなった人たちの埋葬はどうしたのだろうか等々、ファンが気になる細かいことは全て描かれていない。

ベルナールにしても、どうにかしてオスカルやアンドレの生き方を後生に残したくて仕方ないのだが、知らない部分も多く、書いたとしても「民衆のために戦った」という程度で、きっと上記の私の書いたネチネチとした解説もどきの追悼文では感情的すぎて記事にはできないだろう。ものすごく長いし。
革命小史という設定はベルナールとアランを再会させる手段としての演出だろうが、アランも態度で示しているように、あの二人を雄弁に語る言葉は出てこない。
又、ベルナールも著作のために来たはずなのにアランに対して深い追求はせず、ただロザリーの質問についてきただけにも見える。

結局、オスカルやアンドレを知る者が、亡き二人を偲んで会いに来ているのである。
彼らは五年経過してやっと重い口を開き語る気になったのかも知れない。彼らを決して忘れないという意志をお互いに確認するために。
また、歴史を記録する使命感を持った新聞記者のベルナールが、二人のことを語らずにいられないという気持ちを持っていても当然だろう。

最初、この五年後の三人を見たとき、「すごく年を取った」という印象を受けた。
彼らの空白の五年間はどんな風だったのだろう。革命で友を失い、顔には苦労の後も見える。そして亡き人に思いを馳せるのだが、今ひとつすっきりしない。
なんともしまりのない3人なのだが、順調に年老いているさまがいかにも生き残った強さをあらわしている。

実在の人物ではない二人のことを描いた、実在しない回想録。
もし出来上がっていたとしても「貴族の身分を捨てた女性隊長とその夫」という冒頭文で、「民衆の盾となり、自らの尊い命を未来のために捧げた」という超抽象的な文章で、五十文字以内に収まり、名前ぐらいは残ったかも知れない。
後生に伝えきれない、隠れて目立たない人の偉業とはそんなものかも知れない。


■最後に

 最後にちょっと多少脱力する話になるが、オスカルが命をかけて戦ったバスティーユ。
だが、直接的にそれ自体が未来を築いたとは言い切れるのだろうか。
オスカルたちが身分制度の象徴であるバスティーユを落としたことによって、議会が勢いづいて民衆側にとって有利になったのであろう。

シンボリックな物を打ち壊すのは物理的な勝利より精神的な勝利という印象が非常に強い。
が、斜に構えて見てみるとこのバスティーユ襲撃は極端に言えば破壊行為であり、国家の建設のために働いていたのは議会なのである…と、ものすごくひねくれて考えてみる。
ものすごくひねくれているのは百も承知だが、どうしてもアニメ版オスカルの活躍の場が本当にバスティーユだったのか、今も考える。

あり得ない話ながら、アニメ版オスカルが国民議会に居たならば、または民衆側のブレイン、あるいは民衆の「理性」として献身的に働く立場だったなら?などと空想してみる。
人としてどう生きるかと言う物語を描くとすれば、理性と感情のバランスがとれたアニメ版オスカルは、ベルばらという枠から独立した物語として継続することは可能だったと思う。時にはエピソードを引っ張り、またある時は誰か(ゲストキャラ)の脇役・聞き役となりエピソードの進行に徹するという役回りもこなせたであろう。
ただ、そうなれはその物語はすでにベルばらではなくなってしまうのが何とも割り切れない。私にすればこのアニメ版オスカルもまた「ベルサイユのばら」のオスカルなのだ。

史実はどうだかは知らないが、物語としては彼女は生き残って「人はどう生きるか」そして「癒しのテーマ」を物語り続けていけたのではないかと思えば思うほど、そうなれなかったことが非常に虚しい。

だが、オスカルたちの死は決して無駄ではない。新しい時代の扉は確かに彼らの尊い犠牲によって開いたのである。
とは言えバスティーユを落としたという事実も原作と違って、オスカルの生きざまの結果(成果)ではない。
気を取り直して最終回のあらすじに進みたい。





余談…最後のところ、アランのサイドストーリーみたいになってしまいました。
原作とアニメでは同じアランでも年齢的に10歳ほどは違っているように見えますが、たまたま革命時期に20代だったか30代だったかという年齢の違いだけで、アラン自体はどちらもさほど性格設定に大きな違いはないと私は思っています。

気が向いて上記のような隠遁者アランを書いてみたんですが、「エロイカ」に登場した、生き急いでいる感のある原作アランも結構好きかも。
実のところ、アランはどう生きてもサマになる男、非常に味のある男です。



2003.9.9.up