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     アニメ版 ベルサイユのばら 徹底解説>HOME

まとめ


■「まとめ」の前に

アニメ版ベルばらについてあれこれと書いてきたが、実のところ、語りきれていない部分は多々あると思っている。
又、各話で書きそびれたこと、後から気が付いたこと、取りこぼしも後から出てくる。
ついでに書いたか書いていないかわからなくなって重複している事もある。我ながら情けない。

たとえば第31話「兵営に咲くリラの花」の回。
アルデロス公の護衛のエピソードはアニメのオリジナルで、緊迫した最後半の急ぎ足な展開から思うと、一見、余分なエピソードに見える。
が実は、オスカルと兵士たちが公を守り通して功績を上げたことが、ラサール釈放の時にオスカルがブイエ将軍に対して使った「切り札」になっている。

そしてその「ブイエ将軍」へのお礼に向かうオスカルとアンドレが、パリで襲撃された事件へとつながるのだ。
さらに襲撃を聞きつけたオペラ座のブイエ将軍と同席していたのがフェルゼンで、オスカル救出に駆けつけることになり、そこで「私のアンドレ」が飛び出し、フェルゼンとオスカルの「和解」を経て、この場面が二人の最後のツーショットになるという豪華な演出。
ちなみにここで出てきた「剣を持った青獅子」というジャルジェ家のエンブレムが何ともオスカルらしい。

ついでに事件を予感したアランがさりげなくスペードのエースで導入するあたり、原作の某シーンを思い起こしてしまう前ふり。
そしてオスカルと兵士たちの共同作戦をエピソードとして残すことで、最後の戦いにおいて、彼らが心をひとつにして戦うことに深みを持たせることが出来る。

これだけ見ても、メインのエピソードの間にオリジナルのエピソードをはさみ込み、ちゃんと出来事をつないでつないで話の流れがスムーズに動いている。
以前は原作のエピソードを盛り上げる仕組みなのかなと、あまり深く考えていなかったが、後から思えばこのテンポの良さ!!さすがにプロは違うと感じたものだ。


■「まとめ」について

この以下に書いてある「まとめ」は、アニメ版ベルサイユのばらにハマった初期に書いたものである。解説をまとめるのに2年弱かかったので、年代で言うと1996年あたりだと思う。なので、本当は「まとめ」ではなく「はじめに」なのである。

当時はインターネットもさほど普及しておらず、情報を集めるのは大変だった。なによりアニメ版について私が頷ける内容の物はなかった。
後で思ったが、頷けないからこそ、自由に語れるし自分の世界観を勝手に組み立てようと言う意欲につながったのかも知れない。

偶然にも知り合ったomoteさんがアニメ版のファンだったこともあり、その後はアニメ版の良さを語り合う事が出来たのだが、とにかくアニメを語る相手がいるという事だけでも嬉しかった。その当時はアニメ版が好きという声を聞かなかったので、ひょっとして日本全国で5人ぐらいしかファンがいないのではないか?と話したりもした。

そんなこんなでとにかく心にくすぶっている感想を語りたいという気持ちが先走り、下記の内容についてはかなり荒削りで、「まとめ」と言えるほどまとまっていないし、訴えたいことの的が絞られていないのも難点である。

解説で何度も語っているが、やはりベルばらという作品は読者である私が「男VS女」の図式で読んでいたというのがこのまとめを読めばよくわかる。
ベルばらというと、真っ先に「性差」を意識して、そこを出発点に作品を読み解こうとしている傾向がよく出ている。

又、原作を改めて読み返してベルばら熱がぶり返したり、アニメ版を語りたいがために、何かと大げさに書いている。
さらに原作を語るにあたっては、当時の少女マンガの世界で自主性を持っているヒロインはオスカル以外にもいたのだが、この解説ではオスカル一人をその時代の代表者としてヨイショして書いている部分がある。

そうやって私自身が当時の他のヒロイン達と一線を引いてしまうのは、オスカルが女性という性差の枠を越えて自由な活躍をしたからだと思っている。
他のヒロインのように物語の中で成長したり困難を経て自立していったと言うよりは、初登場場面から絶対的なオスカルの存在そのものが「女性への応援歌」だったのだ。
まさに女性のしがらみを感じない、夢のような存在。

アントワネットのきらびやかさと比較しても劣らないオスカルの存在感は連載第一話から見て取れる。
もちろん、その存在自体が家督を継ぐという目的のために不自然に作られた微妙な立場なのだが、あえてそれも彼女の「強運」として処理できてしまう。

何より原作を語りはじめると、自然と性差の事や自己啓発めいた事を熱く語ってしまう。これはやはり原作の燃えるようなパワーの影響であろう。
そんな不思議なパワー持った原作ベルばらの魔力は、くたびれかけた心に効く速攻の栄養剤であり、前に向かって歩くときの後押しをしてくれる。
何度もベルばらを卒業したはずなのに、人生の節目でベルばらにパワーをもらい、ハマってしまったという人は案外多いのではないだろうかと思う。

さて、以下の内容について前もって申し上げておくが私は決して女性解放運動に参加するほどの根性はなく、ただ単に、一般的な女性論に便乗して自分勝手な考えや、個人的な不満を言っているだけである。女性論についても特に独自のことは書いていない。
また一部内容に、男尊女卑の風潮について過剰に受け止めている所もある。

今、読み返すとこんなに口角泡を飛ばして書く内容ではないと思うのだが、会社員生活をしていて、納得のいかないことが無意識に文章に出てしまったのかも知れない。
もし女性であることが社会にとってハンディキャップなら、ごちゃごちゃ言わずにまずそれを乗り越えようとする努力をすればいいことで、何もせずに文句だけを言っていては何も始まらない。

何事も心のあり方で気分が変わるように、夫の後に付いて歩く妻にしても、主体性もなくただ夫の言いなりになっていると考えるか、夫の保護者として付き添っていると考えるかで全然違ってくる。
人間関係には様々な確執があるものだし、そこで起きる色々な問題は何も男女の関係だけには限らない。

また性別に限らず、特に共同で道を行く者同士なら、精神的な余裕の度合いもあるだろうが、きれい事を言うとしたら思いやりと感謝の気持ちを互いに持つことが大事であろう。
もちろん、どちらか一方だけに思いやりや感謝を強いるのは感心しないが、たいていは互いに相手に迷惑を掛け合い、互いに世話になっているものだ。

とまぁまず、こんな何でも解ったような事を書いている私自身が、どれほど書いていることに対して現実が伴わないか、毎日反省の日々である事は間違いない。
いずれにしても何度も言っているような気がするが、人間関係には様々なケースがある。
特に男女の問題はデリケートなので、今ここで詳しく語るつもりはない。

要は自分がどう生きたいか・どう生きているかを自分自身が把握することなのである。
これは案外、日々変わったり、解っているようで解っていないものかも知れない。


ちょっと脱線した。
この「まとめ」は上記の通りあまりまとまっていない。
ただ、ハマりたての熱い気持ちで何か書きたい!という気持ちは断然出ていると思う。
性懲りもなく「男らしさ・女らしさ」のことに触れているが、考え方としてはいままで語ってきた本文の内容のほうが後日に書いているので、こちらの「まとめ」については「最初はこんな考えをしていたのか」という程度に軽く読み流してもらえば幸いである。

その時にしか書けない内容として、表現のわかりにくいところや流れが良くないところを除き、ほぼ原文のままとした。
社会現象にまでなった当時の熱狂についてや、原作の持つパワーとは何かについては、もうすでに多くの方が語られているだろうし、あまり触れていない。まして目新しいことはそんなに無いと思うが、これはこれなりに記念としてこのまま置いておく。
俗に言う「私とベルばら」という感想文になっているが、気が向いたらお読みいただきたい。

では以下が「まとめ」本文である。


★★★まとめ★★★
 ここまで広げておいて、どうやってまとめようか…というのが本音である。それにこのまとめは、本文よりもかなり前に書いたものである。つじつまがあっているか、少し不安もある。


■まとめ1
☆原作との出会い

原作との出会いは小学生の時である。姉がベルばらにハマっていたので、週刊マーガレットは常に我が家にはあった。歴史物語の中にオスカルという架空の人物を設定し、史実とからめながらドラマを盛り上げていく発想のすごさと見事な展開の手腕はいまさら語るまでもないだろう。

で、とにかくオスカルはカッコ良かった。
中学や高校生になって、初めて見た時より少しは冷静に見ることが出来たから、これでいいのだろうかというところはあったが、そんな事すら「まあいいか」と思うほど、やはりオスカルはカッコ良かった。
オスカルが黒い騎士の役を無理やりさせたからアンドレは目を怪我したのに、オスカルは彼に謝らない。それどころかベルナールに鞭を振り上げて怒りまくるのだ。普通、考えたら自分がやらせた事で他人が傷ついたら大問題である。でもなぜかオスカルなら許せてしまうのだ。いや、「も〜っ、オスカルったら〜大胆不敵っ!」で笑って済んでしまう。むしろ、ベルナールに怒りを向けて大爆発するオスカルに、もっとやれーっ、とゲキを飛ばしそうになる。

もちろん私はサドではない。これがマンガの演出だと知っているから楽しめるのである。いちいち謝らなくても、当事者のオスカルとアンドレはお互いにそれでいいと思っているのだ。
ここで大事なのは頭を下げる下げないなどの現実ではなく、あくまで「謝らなくてもよい」ほどの、オスカルの立場の強さ、それと彼女の絶対的な主体性なのである。

アンドレへの想いも全てベルナールへの怒りに転じ、激しい感情を表に出すオスカルの確固たる主役としての自信。何をやっても心のおもむくまま伸び伸びと出来る自由奔放さ、そして普通ならオスカルの立場は男にしか体験できない事なのだ。
だがオスカルは人の上に立って命令も出来るし、ケンカも買うわ、女の子にもモテる。どれも現実では女に体験出来ないような優位にオスカルは立っている。これが気持ちいいのだ。
電柱の陰でひそかに弟の成功を祈るスポ根物や、選手の勝利を願うマネージャーなど、内助の功は女性の役目だった。

それをオスカルは次々とひっくりかえしていったのだ。内助の功はアンドレにまかせ、アランとやり合い、自分の選んだ道を選び、献身的なアンドレと深い愛情によって結ばれる。
そう、彼女は男女のおきまりの役割分担を逆転させた。
そして立場が逆転することによって、女も「自分の人生の主人公は自分である」と確認したのだ。それは「女性の自立」への応援だったと思う。
だからこの際、男のアンドレにはしばし激情を耐えてもらおう。彼はオスカルが許可することによってはじめて気持ちを受け入れてもらえるのである。

そんな優越感の気持ち良さに比べたら、多少の疑問には目をつぶってしまうのだ。ましてそれが相手(男)に都合の悪い事ならなおさらである。これまで女は耐える役目を演じてきたのだから、たまには逆もいいだろう。それに普段、実生活では女は男に比べて地味で目立たない役目が多い。
何をするにしても人の事に気を使い、人の気持ちを考えたり人を優先させたりして、まず人を立ててから自分の存在がある、などと、考えてみたら女なんて報われない無償の行為が多いのだ。

何より、女としてまず男を立てなければならない一般常識に腹を立てながらも、現実には(常識に従って)自分のことより男を立ててしまう自分自身のスケールの小ささにもうんざりする。
せめてオスカルに感情移入することで主役の気分を味わえ、元気も出るというものだ。

 そして物語は身代わりになったアンドレの死と共に彼女は死を意識し、同時に自らの信念を証明するバスティーユ攻撃で散っていくのである。まさにバスティーユは彼女の散り際だった。
オスカルは命をかけて一人の男に愛され彼の妻となるのだが、ここでも又、「亭主に従う奥さん」の役目を果たすこともなく、実生活という華々しさから縁遠いものも体験する事なく命を落とすのだ。
二人が死んでしまうのは悲劇だが、激しい恋愛から転じた先の、夫婦という一般的な役割分担の現実(オスカルが家事?)を見ずに済んだのである。
オスカルは当時の私にとって、見たくない現実を上手くかわしてくれたし、女性にとって都合の良い物語展開だったと思う。

では現実にオスカルのような女性が存在できるのかと問われたら、オスカルの存在自体がマンガならではの自由な発想なのだから、現実がどうのこうのという問題でもないのだ。
今となっては世の中の現実に目を向けるようになったと思うので、より現実的だったアニメも楽しむようになった。スーパーヒロインではないオスカルと、耐えるというよりは彼女を見守りリードし続けたアンドレも好きである。
だが原作オスカルがカッコ良かったこと、強かったこと、そして彼女が自分の情熱を持っていたこと、それが当時どんなに痛快だったか、今でもやはり読み返すと懐かしく思い出すのだ。

又オスカルの死後、「男にならねば」の言葉通りに厳しい運命に立ち向かったアントワネットの強さも印象的(厳しい表情がオスカルに似ていると何度となく感じた)だった。
原作は私にとって、かつて胸をおどらせ元気を与えてくれた大切な作品なのである。


■まとめ2
☆男らしさ・女らしさ、そして自分らしさ

かつて、アニメオスカルをどうしても受け入れられなかった原因のひとつに、自分自身の中にある女らしさを否定していたことがある。 

 一般的に女性らしさとは感受性が豊かで、受け身で、物事を受け入れる柔軟性、あるいは苦痛に対する強い忍耐力などであろうか。
一方、男性らしさとは攻撃的で、能動的で、貫通する力・意志などであろうか。これはそれぞれ違った性による特徴からきているという。
もちろん、男女共に両方の性質を持ってはいるだろうし、役割分担などというように、どちらかの性質のみばかりを押し付けられるものでもない。

 これまで、女性の受け身の態度はどうしても男性への服従として扱われてきた。
そして、女性は常に男性の支配下にあり、彼らに従うべき劣った者と考えられてきた。また、戦前の教育を受けた女性は自分の中で良妻賢母という型にはまった女性像を植え付けられ、それを理想像としてきたと思う。
それが戦後の男女同権教育で一気に価値観が変わり、女性はこれまであった確固たる理想の女性らしい女性像を失ってしまう。そして男性も戦争で多くの強い男たちが亡くなり、女性と同じように男らしい理想像を見失ったという。
戦後教育を受けた女性は自分の持つ性というものについて、自分で「らしさ」を見つけていかなければならなくなった。

この時点で、かつての「女性らしい」というイメージは女自らの手によって、男性より劣ったものとして卑下され・忍耐のみを強いられるマイナスイメージのものになってしまった。
戦前教育を受けた母親から「○○ちゃんは大きくなったらお嫁さんになるのよね」とか、「おしとやかに・男の人より一歩さがりなさい」とか言われることは常にあった。
社会に出ても、何かの壁にぶつかった時、母親の示す解決策は「結婚すること」のみ。

女には結婚しか生きる道がない。
こんな言葉に誰でも一度は疑問を持ったと思う。
何で女だけが(自分だけが)自由がなかったり我慢したり損をしなければならないのかと、その問いに満足な答えはなかった。母親は女だからそうなのだと言う。だが、これも戦前の彼女らの世代では女の生き方はそれしかなかったのだから仕方がない。

ところが、男女同権を学んだ我々にすれば、そんな堪え忍ぶ女性の姿と自分を重ねることが出来ない。…損なのだ。社会的にも、経済的にも。
もし自分の中のそういう女性性を認めることは、女にとって自分自身の自立への障害として写ってしまう。誰だって劣っていると決めつけられるのは嫌だ。

 だが、女性らしい、男性らしいという理想モデルがなくなった時、「自分らしく」という言葉が出て来たのだが、原作が描かれた頃は、まさに女たちが自分らしいとは何か、自立とは何かを必死に探していた頃だと思う。
…そこにダイナミックな印象を持った原作オスカルが登場した。
男と同等、いやそれ以上に強く、自分の意志を貫き、それなのにさりげなく女性らしい可愛らしさも合わせ持つという一つの理想的なモデルとしての女性像。

女にも、オスカルのように強く、芯を貫き、悔いのない自分のための人生を送ることが出来る。そんな希望を読者に与え、女も強いとエールを送った原作オスカル。
それまで、女は男の夢のために内助の功をしても、自分の夢に突き進むなんて常識ではなかった。ところがオスカルは、自分のために燃やすエネルギーを持っていた。そのことが私には大変衝撃であり、そしてそれを広く少女たちに示したのだと思う。

オスカルとはイコール、強くて、いわゆる男性のように自由に行動し、男と対等かそれ以上に力も持ち、自立して自分の進む道を考え、なおかつ彼女を理解する心優しい男性に女として愛される、という一つの方向性を持ったモデルだったと思う。
女性としての生き方も捨てる事なく、特に彼女の強さで強調されたのは、いわゆるこれまで女であるが故に活かされなかった・認められなかった、攻撃的・能動的・貫通する意志という「男性的な強さ」ではないだろうか。
一つの方向性とは、女性の生き方はオスカルのようではなくとも他にも立派な生き方が多くあるので、彼女はあくまでその中の一つという事だ。

だが、現実の男性優位の社会の中では、やはり女というだけで対等にはならない。そして、少女たちはオスカルのような生き方を諦め、耐えること・現実を受け入れることをし始める。…つまり、これまで敗北だと決めつけていた自分の中の女性性と真に向き合うことになる。たいていの少女はこの時までにオスカルを忘れる。

しかしオスカルの生き方を消してしまってはいけない。
そんな思いも女たちは持ち続けている。たとえ忘れていても諦めてしまっていても、かつて理想に目を輝かせた少女期を誰もが今でも大切な思い出として持ち続けているのではないだろうか。

オスカルが今でも心の理想像として生き残っているのは、そういう自分の生き方を模索していた時代に出会った大きな目標だったからだと思う。
「ああ、こんな時、オスカルならどうしたたろう」とか「オスカルならこうしたはず」という、自分の思考にオスカルを重ね、彼女の強さを借りた少女時代。
まだ自分自身が一人歩きできなくても、オスカルという強い意志を持つ女性の思考があれば、弱い自分をカバーできたのだ。

男(アンドレ)を支配する、と言えば乱暴なのだが、どこか男がうらやましいと思っている女性は、勝ち気で攻撃的で男勝りになるという。…もしかしてひとごとではない話だ。
そんな女性は自分の中にある、一般的に女性的とされる「忍耐」とか「受け入れる」とか言う、これまで男に従ってきた要因としての「女性性」を「弱いもの」と見なして直視出来ず、自分の中で虚構の強い自己像(オスカル)を組み立て、それを心の鎧にし、壊されないように必死で守るという。

アニメが出て来た時、私は「原作が壊される!」と、そういう気持ちになったのだ。自分の中の「女性性」に自信がない、だから本当の自分に向き合えない。
もし勇気を出してそれに真に向き合おうとしたらまず、自分の心の中で盾になっている虚構の強い自己像(オスカル)を破壊しなくてはならない。それはダブルの打撃である。
原作オスカルはそれほどに個性を持ったキャラクターだった。だから余計にアニメを否定したかったのかな、とも思う。

そんな一つのモデルとしてのオスカルを、アニメにおいて敢えて180度違う性格のオスカルにしてしまったのは、かなりの勇気がいったのではないだろうか。
オスカルとはこうあるべき、としてきた像がアニメでは完全に消し去られている。そう感じたのだ。

アニメの出現で、原作のオスカルが訴えた「女たちよ、立ち上がれ。男の持っている強さは男だけの物ではない」というメッセージが消された・汚されてしまった。と言うほど、まさに原作が抹殺されてしまったという所まで思い込み、被害者意識に陥った。
これまでの「どうせ女だから」とか、「女には無理」というような一般常識。男だけじゃなくて女自身すらまだ自分自身に自信を持っていなかった時、原作オスカルは力強い姿を手本として見せてくれて、「私は弱い」というそんな思い込みの鎖を断ち切って、思い悩む少女たちの心を自由にしてくれた。

それをアニメでは、女は男に「従い」、思想などを考えず、ひたすら受け身になるべきなのだと言っているようで、少女たちを再び不自由な鎖につなぐものとして受け取られたのではないだろうか。
それもよりによって、少女たちを自由にしてくれた原作オスカルというキャラクターを使って、彼女が成し遂げた偉業(?)とは全く逆の行為をアニメでオスカルが行ったことで、プラスマイナスゼロとなり、せっかくの原作オスカルの行為が無になってしまった…、これは女が社会で台頭するのを押さえ込もうとした男性(制作者)の陰謀だ〜っ、と憤慨。とまで言ってしまえば大袈裟かもしれないが…。

確かに女たちは自立するために、女らしさよりも力や強さが優先した。
男と同じか、それ以上の能力を持たなければ、女は社会的に男と同等に認めてもらえなかった。
そうしなければ、まず歩き出せなかったのだ。
オスカルが血を吐きながら進んだように…。

それほど原作オスカルの訴えたイメージは強かったのだ。
となると、全く異なる…と言うより相反する性質を持つ二人のオスカルを私の心の中に同時に住まわせる事はできない。どちらかひとりしか選べない。私はオスカルは原作しかないと思った。反対にアニメオスカルは、私の心の中で抹殺された。こんなのはオスカルじゃないと…。

それからかなりの年月が経つ。
自分自身も社会に出、男らしい・女らしい、そして自分というものを考えはじめると、少しずつ自分の中の女性性を認め・見直す気持ちも出てきた。
男らしく考えることばかりが強いのではない、人の強さは自分が決めることで今の社会に認められる事ばかりではない、と。

そもそも現実そのものが男社会なので、女性性(こういう事は女々しいと呼ばれている)が簡単には認められるはずがないし、そんな偏った男性優位の価値観の中で男と同じ次元で競争することは、益々自分の女性性を否定することになってしまう。つまり、女は損、女らしいことは弱いと自分自身で言っていることになる。男と同じ観点に立ち、女を見下すことになる。

原作オスカルの示したモデルパターンは決して、女性を卑下するものではなかったが、彼女が自分の意志を貫き、常に強くあるために「男にならねば」と決意し、軍服を身につけて男として育ったという設定が必要であった。
同じように今の女性もオスカルのように、現実の男社会の中で初めから立場(身分)的に優位に立っていなければ、才能の芽を出す女たちは力と競争の世界の中で周囲の男たちから頭を叩かれてつぶされてしまうのだ。

また、女性性を否定し、男性と同じ視点に立つと、「あいつは高ビーだ、思いやりがない」と周囲の女たちからも反感を買う。そして孤立。
…それが現実だと思う。

原作オスカルが貫いたものは、確かに女性への応援歌ではあるが、現実の中ではなんと難しい生き方なのだろうか。彼女のように生きようとして、挫折した者の数は遥かに多いだろう。本当にオスカルは遠い…と思う。

 ところが、アニメは反対に初めからオスカルは自分の女性性を前面に出している。面白いことに原作とは見事に性格が違うのだ。
彼女は男性的な理想を目指す情熱と言うより、感性豊かで暖かい母性・人を慈しむ感情がおもてに出、悪く言えば一見優柔不断で思想に乏しい。
普通、人は嫌いな人間などどうでもいいものだから一言で相手を判断する。

だが、好きな人を語るとき、なかなか一言では言い表せないものだ。私はアニメオスカルを一言で即断できない。人の生き方の一部をピンポイントでとらえて、こうだと決めつけることは、その人への理解をそこで止めてしまうことになるのだ。
今回、アニメオスカルを見て共感を覚えたのは、彼女が豊かな女性性を持っていながら、その特性を力に変え、女性性が非常に…信じられないほど強いのだと示したことだ。

原作オスカルと比較してしまうと、優柔不断にみえたアニメオスカルの沈黙は、不言実行型という事であり、思想に乏しいと思えたのは、思想を振り回す陰で犠牲になるものの大きさを彼女が知っていたからなのだ。
運命に耐え、自分のために何の得にもならない戦いに身を投じ、戦闘に徹した意志。これは男性的な攻撃・貫徹の意志ではなく女性的な慈愛の意志、徹底して弱者を保護する為の母性・無償の行為であるように思える。

このアニメオスカルの女性性を、今の私は否定するつもりはない。
むしろ彼女の行為は、もう女性性という枠には収まりきらないかも知れないとも思う。
そして原作オスカル同様、アニメオスカルも到底語り尽くせないのだ。
それにまだまだ彼女たちの本質には迫れない思いが強い。
それほどベルばらは味わい深い作品なのだ。
だから今は、同じ主人公でありながら全く違った性格のオスカルというこの二つの作品は抹殺しあうものではなく、全く違う作品として考えている。

彼女らを一言で言いたくないが…。
崇高な理念に神の姿を見いだし、自分の信念のために命をかけた原作オスカル。
反対に最も貧しい人の中に神を見いだし、自分を使いきり、命を投げ出したアニメオスカル。
この二人を並べて比較して優劣をつけることは、私には出来ない。


■まとめ3
☆アンドレ一路路線

実は私は、あのフェルゼンにオスカルがホレたのがどうもイヤなのである。私の希望では、オスカルは子供のころからアンドレの事が好きであって欲しい。少なくともルイ15世にアンドレを助けてくれと言った時に溯って、アンドレのことを自分にとってはかけがえのない男だと無意識に感じ取っていて欲しいと…。だから私の考えはこの「アンドレ一路路線」で出発する。

彼女のフェルゼンへの想いは、疑似恋愛であると思うし、それと貴族社会の女たちの結婚がほとんど政略結婚だったので、その悲劇を見てきているオスカルに結婚願望があったのかどうかも疑問。
ただ、女という体に生まれた以上、子供を産むことを頭では考えたことはあったんじゃないかと思う。で、そうなると、周囲に波風立てずに結婚する(子供を産む)なら、その地点で身分の低いアンドレは選択肢からもれる、と。その点、身分も申し分ないフェルゼンだったら、具体的に貴族としての「家庭」を思い描けるから、なんとなくその想像が恋に感じられただけじゃないのかと、オスカルは恋に恋する乙女からまだ抜け切れなかったのではないかと思いたい。

アンドレに一途であって欲しいが為に、私はフェルゼンをオスカルの心から少しでも多く追い出そうと必死になっている。それにフェルゼンは後半、主役からは下ろされているのだ。やむないとは言えアントワネットの元から3度も(ヴァレンヌ逃亡を含めると4度)去り、「英雄にもピエロにもならなかった」中途半端な描かれ方をした彼に、オスカルがそこまでひかれたのがどうにも不思議でならない。
もちろん、彼自身が半端な想いを持っていた訳ではないし、愛情に恵まれなかったのは不幸だ。

 ところで原作と違ってアニメ版のオスカルはアンドレの気持ちに長い間、気が付かなかったのを激しく後悔している。彼女、自分の生きざまについては後悔してないけど、アンドレのことについては別物。「ごめんなさい」を言えなかったことを絶対、後悔して死んだはず。

でも彼女はその後、そんな弱みも見せずに(アランには少し見せたけど、アランはあれで一生オスカルのトリコだな、まず)武人に徹して死んでしまう。彼女が最期にアンドレの幻を見たのはせめてもの救いだけど、死は死。アンドレに「ごめんなさい」は永遠に言うこともなく、オスカル・フランソワという女性の一生もそこでおしまい。その後の時間の中でアンドレとオスカルという二人の男女が二度と再び会うこともなく、二人はろくに夫婦として語る間もなく永遠の別れだった。

 だがアニメの二人なら、病気や戦いがなければ、それなりにやっていけたような気がする。だから、あの二人が死んでしまって悔しかったのは、破滅型ではない二人がたまたまあんな動乱の時代に生まれたばかりに早死にしてしまったからだと思う。もどかしいような二人の様子は、いい恋愛だったと思う。
オスカルはアンドレを気遣っていたし、アンドレも彼女を見守り、二人とも相手を真剣に想い、見つめていた。夢みたいに浮かれていなくて、そのままいつでも一緒に暮らせそうな雰囲気さえあった。さりげない二人…。

それと、アニメではオスカルの巻き添えでアンドレは死んでいないし、片目を失った責任も軽くしてある。どちらかに犠牲を強いてまで確かめ合う激しい恋愛ではなく、お互いが対等に相手そのものを認めてひかれ合ったように描いてある。
また民衆側に寝返る時も、オスカルは兵士たちに隊長を辞めると言っており、彼女の身勝手から起きる「人の生死にかかわる責任問題」が起きないように配慮してある。
オスカルは兵士らの意志によって再選され、隊長としての責任は負っているが、革命の戦闘へは兵士一人一人の自由意志による参加になっているのだ。人の命についての責任が、オスカルにかからないようにしてあるようである。

 なにはともあれ、生前から二人は結ばれていた、という演歌ではないが、性愛を盛り込んだドラマにしては、精神的な結び付きが前面に出た演出だった。



2003.12.18.up