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後書き


■後書きについて(前置き)

後期の「概要解説」で、ラストシーンを見終えた後のむなしさを、この後書きで「希望」に向けたいと言う風なことを書いた。
実はその時にはこの後書きは出来ていたのだが、思惑としてはもう少し「希望」へ導いた内容に加筆するつもりだった。

だが、やはりこの後書きは解説を完成させた当時(1998年)のまま、今も気持ちは変わっていない。
確かに、いま読み返してみて、果たしてどれほどこのアニメを「救いの物語」として締めくくることが出来ているのだろうかと多少疑問に思うし、所々加筆したり文章をさわってみたい気もするが、この時の熱い気持ちを置いておきたいのでそのままにしておいた。

下記の文章は最後のまとめとして、「神」という言葉を用いて考えているが、ここで言う「神」や「神の愛」は特定の宗教上の信仰の対象である「神」ではない。宗教については素人の私がそのようなおそれ多い話をここで持ち出すつもりはない。

言うなれば日本国内で日常広く一般的に言うような、漠然とした表現としての「神」である。
又、これをお読みになる方がたとえ信仰を持っていないとしても、それぞれに持つ「神」という概念やその姿のイメージに強く束縛されずに…(束縛という表現が適切でないならば)…あまりこだわらずに、出来るだけ柔軟なイメージを持って読み進めていただきたい。
「神」というイメージは人によって異なっているので、受け手によって解釈が違ってくる。そうなれば誤解の元にもなりかねない。

ここで言う「神」は、天におはす神様というよりは、人の内面における主体的なイメージとして語っている。
あくまで人が生きる上で信じ求めるそれぞれの真実、自分がそうありたいという正しい心のあり方、自分なりの生き方を模索し、前向きに探し求める願望や願いのようなもの、という身近な感覚でとらえてもらうと良い。ただしこれらもかなり漠然としているのだが。

人の信条・生き方考え方、ひいては人はいかにして生きるかという事を、ただ一言「神の愛」という言葉だけで語るつもりは今のところない。
神という概念を想い描かなくても、「人の生き方」とは、自分なりに自由奔放に生きてこそ値打ちがあるという考えや、人の思考や行動は自律神経を安定させるためにあるのだという意見もあるだろう。
又は自身の潜在意識に自分なりのこうありたい姿をアプローチしていく事だと言う人もあるかも知れない。

それに神、あるいは神の愛という表現は万能で、何事もその一言で完結しうる表現でもある。
人は神の愛で生きるとさえ言えてしまう。
それも良いのだろうが、人の生き方を語る言葉は色々ある。ましてベルばらを語るために、この一言で完結してしまっては解説としての「ひねり」がない。
また、たとえ「人は神の愛で生きる」ということが真実だとしても、「神の愛」とはどういうことなのかを、色々な言葉を使って考えることは良いことだと思っている。

では以下が「後書き」である。



■後書き1

 ごたいそうに、いかにもアニメオスカルが偉業を成し遂げたかのように前書きでも述べたが、こうして書き終わると、普通の当たり前の事しか書いていないような気がする。
これまでオスカルが何を訴えたのか、母性であるとか男性性や女性性とかいう言葉を使って考えて来た。
だが最後には、人間の愛情というものに少し触れて、締めくくってみたいと思う。

 「愛している」という言葉はよくドラマでも耳にするが、男女の恋愛だけでなく広い意味での愛情と言うものをあれこれ考えていくと、愛情とはこのようなものだと断定するにはまだまだ人生が足りないし、言葉にして説明できないもののように思う。むしろそんな簡単に表現出来るものであって欲しくない。

オスカルは享年33歳。人生を語るには若すぎ、だが人生について何も考えなくてよいほど若くはない(当時の寿命の感覚ではないが)。彼女にも何か考えがあっただろう。それにアニメではほとんど触れなかった、神や愛という言葉。彼女が人生に求めていた愛情とは何なのだろう。
広い意味で、人が信じる対象としての「神の愛」を考えてみたい。

 神の愛は完全であるにしても、人間の愛情とは弱く不安定で、限りがある。だから人は余計に完全なものへと心がひかれるのだろうが、実際、オスカルが体験したように、神の愛は目に見えない。だから人々は崇高な理念に神の愛を探したり、またある者は、人の心の奥深くに内在する(であろう)神の愛を探す。

 だが、たとえば崇高なものへの愛を人が実現しようとすると、その過程で、その人は血の通った愛を犠牲にしてしまうのだ。
言ってみれば自分の信ずるもののために、自分の命や恋人を捨てたり、家庭をかえりみないことである。
崇高な理念に神の愛を見た原作オスカルは、理想に情熱を傾けた結果、恋人を失い、自らも命を落としている。そしてその後に彼女の意に反して崇高な理念は見失われている。結局、彼女は信じたものを夢にこそ見たが、手に入れることはなかった。

 反対に人の命そのものを大事にする余り、その人が持っている信条を捨てなければならないこともある。
他者の中に神の愛を見たアニメオスカルは、人とかかわる事に真実を求めた結果、彼女が非暴力的で流血を嫌っていたにもかかわらず戦闘の矢面に立ち、命を落としている。彼女も結局、信じたものを見る事はなかった。

これら二つの物語で表してあるように、神の愛へと至る道に「崇高な理念」を掲げるか、「人の命の重み」を掲げるかは全く違うのだ。
だがこの二つは本来、比較できないほど大事な事にもかかわらず、相反している。つまり互いに譲ることができず、両立が出来ないのである。一人の命の重みは世界の重みと同じはずなのに…である。

「人の命の重み」と「崇高な理念」。これらのどちらか一方を選択すると、どちらかが犠牲になる。…犠牲を伴う愛は完全ではないのだ。
そういう考えで見ていくと、二人のオスカルは人の生き方を追求し、それぞれがその両極端へと行ってしまったような気がする。
確かに彼女らの信じたことは感動を呼ぶのだが、その行動によって、同等の価値を持っている「崇高な理念」と「人の命の重み」というものの、どちらかが犠牲になったことで、我々は人の世の行き詰まりを感じてしまうのだ。

もし神の愛が完全であるなら、そこに流血はないはずである。
高い理想を求めることに犠牲が伴うのなら、その実行方法のどこかに不完全な部分があると言える。
そして、人の命が大事であるからこそ起きる争いも又、犠牲を生み、完全ではない。

 だが、どちらの生き方も愛情の表現には変わりない。
もし、彼女らが命をかけた「信念の深さ」というものが間違っていないとすれば、我々が学ぶべき事は、その信念の中に「人への誠意」という愛情を同時に刻み付ける事だと思う。
これはすでに男性性とか女性性とかの優劣ではない。ましてオスカルが男として育ったことも、人としてどう生きるかという次元では大きな問題ではない。

それとここでは、話として「神の愛」という言葉を持ち出したが、アニメでは神という概念はオスカルの口から一切語られていない。だから私もあえてオスカルは神を信じて、その姿を追い求めて戦ったとは断言しない。
彼女が何を信じたか、それは物語を見た一人一人がそれぞれの感情や言葉で感じたらよいことであると思う。
だからアニメオスカルが何を信じていたか、作中で明らかにならなかった事もそれでよかったと感じている。

 それに、人の心の奥底にあるのは本当に神の愛なのか、反対に身の毛もよだつ怪物なのか、確かめるすべはない。
又、幸いにも今、それを身をもって試される時代でもない。

 激動の時代を生き急ぎ、報われる事なく、ひっそりと去って行ったアニメ版のオスカル。
名もない人々を守ろうとし、無償の行為に命をかけた女性。
人は一人では生きられない、だからこそ彼女は、人のつながりの強さを信じたのだと、私は思う。

一つの物語として言えば、アニメオスカルは人の心を信じようとした。そういう彼女の前向きな姿勢を見る限り、この「アニメ版ベルサイユのばら」は希望を目指した物語だった。
 いやはや、とは言え愛情というものについて語るのは難しい。どうしても頭の中の空論になりがちである。それにあまり格好いい事ばかりを書いていると、あとで恥ずかしい思いをしそうだ。若者が何を言うのかと御笑覧いただきたい。


■後書き2

 アニメベルサイユのばら。
一話一話に分けて、その都度思ったこと、推測したことなどを書いてきた。
で、最終回を終えて、不満は今も残っている。

だが、あの寡黙で何も語らないオスカルに不満があったかといえば、そうではない。
私はあの、不言実行型の、何かを語りかけていたようなオスカルのまなざしが好きである。
彼女の物言わぬ瞳には、多分、言葉にできない深い愛情があったように思えてならない。
確かに何事でも、心を伝えるのにまず言葉があるのだが、心を打たれる出来事に必ず言葉が必要かと言えば、そうではないと思う。

それは、言葉にしてしまうと、大事なところが伝わらないもの。普段の生活の中では、そんな気持ちもあったのかと軽く流してしまうもの。でも、何か出来事があって、いざ自分の気持ちが試される時に、初めてその意味が実感として伝わってくるもの。
そんなものの事。

自分の信じたものを言葉ではなく、行為で表現し続け、それを訴えるのではなく、自然な気持ちで人に奉仕しようとした彼女の姿勢。
愛情に不信感を持ち、認めて欲しいという気持ちから、次第に変化していき、やがては人に対して気持ちを開いて、人に愛情を与えていく女性へと成長していったオスカル。
彼女の壮絶なまでに、人の心に食い込んでいった力というものが、やはり熱い情熱ではなく、人の気持ちを尊重して歩み寄ろうとした静かな誠意なのだったと今では思う。

私の不満とは、そんな彼女がなぜ最後に死という結末に至ったのか。彼女が行った行為に対して、正しい報酬が支払われなかったことが悔しいのである。
架空の物語として、見る者に希望を与える最終回にすることは可能であったはずだ。
この世で幸せになる、という形で彼女は報われるべきであったのだ。
現実離れした試練を次々とかせられたオスカルに対し、その死はあまりにも現実的すぎた。

自分の気持ちに素直に生きた先に、激動の時代が待ちかまえていたことが不幸だったと人は言うのかも知れない。

だが、彼女ならそれをこういって笑うかも知れない。
「どんな時代にも、人は孤独で、誰かに愛されたいと思っている。私はただ、そんな人のそばに行ってその孤独を分け合いたかっただけなのだ。そんな簡単なこと、私がいなくなってもきっと誰かが同じ事をするはずだ。本当に悲しいのは、そんな気持ちを人々が忘れてしまった時である」と。

 最後に、これは本来最後ではなく冒頭で書くべきであるほど大事なことなのだが、この作品のシナリオがいかに優れていようと、あの深い味わいを持った映像の美しさがなければ、これほど感動的な作品にはならなかったはずである。
程良くデフォルメされたキャラクター。

劇画とも、少女マンガともちがう、そのバランスのよいオスカルのしなやかな動きと華麗な姿。光が差し込む窓を背に立つ、長身の彼女の軍服姿は印象的。
そしてアニメーションならではの静と動のバランス。
女たちの揺れる心と、逃れられない運命が浮き彫りになっていた光と影の画面処理。
落日を背景に、去っていく時代の中を精一杯生きる登場人物が時には激しく、時にははかなく、現れては消える時間の連続性。

 そして知性的で涼しげな、それでもって色気のある田島令子さんの声、それから耐える男アンドレを明るく演じられた志垣太郎さんの声がやはりアニメ・ベルサイユのばらにはよく合っていたと思う。

 彼女が生きた時代は確かに現代へと進んできているにもかかわらず、それは明るい未来へ向いているのではない。
いつの時代も、大切なものを永久に失うということは、生き残った者が、生きるとは何かを常に考えなければいけないのだという警鐘なのである。

 また、この作品がもうアニメとしてはかなり古いものであるとしても、人とかかわることの大切さ、難しさを語った物語である限り、古さは感じない。
人と人とのつながりが細くなって来たと言われる今、余計にそう思うのかも知れない。
 愛を受けた者にありがとうを、そして、これからも生きていく人々にさようならを残して去ったオスカル。
さりげない「ありがとう」「さようなら」という言葉が非常に深いと感じる作品だった。

 思いの外、長文になってしまったにもかかわらず、最後まで読んでいただいた方へ「ありがとう」を申し上げ、感謝の言葉に変えさせていただきたい。

1998年6月

前置きのみサイト用に加筆 2003年10月



2003.12.18.up