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解説 第40話


 

オスカルが倒れるところ、気が弱いので見たくない見たくない……ぶつぶつ。でも解説のためなら見なくちゃ、という事でビデオが傷むほど見ました。見過ぎて涙も枯れた……。

 

アデュウ

 オスカル、倒れる。

一斉射撃を受け、崩れ落ちる。銃弾の衝撃にあおられ、しりもちをつき、そのまま仰向けに倒れてしまう。一度起き上がりかけようとしても結局出来ない。

これは銃弾を受けたダメージだけではない。彼女が既に疲れ果て、バスティーユへは気力だけで立ち向かっていたからなのである。彼女はアンドレを失ったときに、命のほとんどを失っていたのだ。そのオスカルをバスティーユへと奮い立たせたのは、仲間にとって、民衆にとって彼女が必要だったからである。彼女の司令官としての鉄のような戦う意志。その意志が必要だったのだ。 だが、戦いの場に崇高な理念はない、ただ戦いあるのみ。彼女は父やアンドレに教わったのではない、自分で身につけたその強い意志で、残りの命をかける。もうアランにさえ弱みは見せない。死の間際まで彼女は非情な司令官を演じ続ける。未来への希望すら、人々へ託す情熱すら語らず、ただサヨナラだけを残して息絶えるのだ。

 

滅びの物語

 この物語は、革命を越えた民衆の物語ではない。革命を越え、果てしない動乱の時代を経て、現在へと至る希望の物語ではないのだ。フランスの王室という絶対権力が栄華を極め、そののち滅んで行く過程と、その中で運命に翻弄されながらも次第に強くなりながら人生を歩んで行く女たちの「滅びの物語」なのである。

もちろん、心中ネタでもない。

 

追憶

 時は5年後。生き残ったアラン、ベルナール、ロザリーの3人は再会する。しかし、何だ?この喪失感は。情熱のままに生きた原作オスカルの、あの異常に高まるばかりの感動とはほど遠い喪失感。

 最終回の前半、かなり早い地点でオスカルは息絶え、その後はえんえんと彼女の追悼番組となっているのだ。

アントワネットの奮闘も描かれず、処刑も軽く流し、最後までオスカルとかかわった人間が彼女の死を悼むのである。物語の進行から切り捨てられたアントワネットでさえ、オスカルを偲んでいる。彼女に思いを馳せると心が休まると…。

 オスカルの死後5年、革命のたどった道をあらすじで彼らに語らせながら、行き着いたのはアントワネットが化粧紙で作った、オスカルをイメージする白いばらの花。

何物にも染まらず、気高く、そしてそれはアンドレなら彼女をそうイメージしたであろうというアランの推測でありながら、ロザリーは心から納得している。

アンドレがオスカルのことを白いばらに例えたのであれば、彼と心が通じ合ったオスカルは何も言うまい。二人は本当に愛し合っていたのだから…と、彼らは信じている。だが、彼らはふと、思う。あの二人は何も残さずに逝ってしまった、と。

形見も言葉も残っていない。ただ、二人を永遠に失ってしまったという喪失感のみ。あの気高く高貴なオスカルを語るものが、何と化粧紙のばらの花だけとは、そんなの寂しすぎる!と思ったのは私だけだろうか。

 

彼女が残したもの

 何も残っていない?果たしてそうなのだろうか。いや、余命幾ばくもないオスカルが残りの命をかけたものは、自分を使い切り、何も残さないことだった。

心の命ずるままにひたすら人の中へ入り、人と共に生きようとした事。

 「人は一人では生きられない!」

それはやはり、命の期限を切られた彼女だからこそ、人とのつながりをより実感しようとしたことに他ならない。

そしてオスカルに対してあれほど反抗的だったアランの態度の変化で、オスカルが民衆へ溶け込もうとして行く過程がわかるのだ。結局、オスカルに頭が上がらないとわかったアランは涙ながらに、オスカルの最後の命令に対して最敬礼で応えている。

 特に後半の演出はオスカルの言葉や思想ではなく、彼女の行動に重点が置いてある。沈黙するオスカルは考えの全てを、行為で語る人だったのだ。

原作・オスカルの掲げた情熱が、たとえ彼女が死んでも人々の心に生き続け、未来の人間に託せるものだとすれば、アニメ・オスカルの「自分の欲を捨てて人に奉仕する行為」というものは、彼女の死と共に失われてしまうものなのだ。

 では、行動が物語るのであれば、死ぬと何も残らないではないか、という問いに答えてみよう。

 

オスカルの価値

 戦いには彼女の武力が必要だった。だが、本当に彼女に求められていたのは武力ではない。人を守るためには、どんな困難にもめげずに立ち上がって来る、人間としての強さなのだ。

そう、アニメ・オスカルは、死と隣り合わせの戦いの場で真価を問われる人物ではなかった。困難の中も生き続け、人とかかわりながら助けあうことの大切さを態度で示すべき女性だったのだ。

又、思想を語らず人に奉仕することは自分を犠牲にして個性を殺すことなのかと言えば、そうではない。

生き残ったアランたちの心の中に、「どんなに世の中が乱れようが、確かな誠意を貫いた人がいたのだ、人間も捨てたものではない」という安らかな気持ちをもたらし、彼女は強烈な印象を彼らの中に残していっそう個性的に生き続けるのだ。

 だが、そうやってオスカルが人にかかわり続け、アランたちの心に食い込んでいった深さが深いほど、彼女を永遠に失うことが損失となるのだ。

民衆こそが主人公だと言い、物語の主人公であることを放棄したオスカル。だが、その姿勢は人と深くかかわろうとしたことの現れであり、結果的にオスカルは、この「人とかかわる」物語の要であった。

 そしてオスカルの死後、このテーマを託されたアランたち。だが、その肩に掛かって来た「人とかかわる」ドラマの責任の重さに、ただオスカルを惜しむことしかできないでいる。

 

虚無、そして希望

 戦いを回避しようとし、だが人を守るために戦いに散ったオスカル。死ぬべきではない人間が真っ先に命を落とす、何たる不条理。

あまりに寂しい白いばらの造花。感動というよりは落胆。

これこそ、失ったものの大きさに愕然とする落胆であり、感動と言うよりも、オスカルの不条理な死(現実)を、納得できないままに追悼しなければならない、いらだちの気持ちなのである。

 ならば、オスカルは本当に死ななければならなかったのかと、我々がテレビに問いかけても、もちろん答えはない。

しかも画面の時間は容赦なく一方的に流れていき、オスカルは過去の人間として追悼されて処理されてしまうのだ。

…ただ確実なのは「人は必ず死ぬ」と言う現実が残るのみ。

そしてラストシーンを終え、我々の前からオスカルどころか、ついにはその世界も消えていくのだ。

 あまりの不条理に涙した最終回。だが、この部分に、原作と同じ「オスカルの死」を求めては、混乱の元である。

又、彼女の生きざまを、単なる男装の麗人の悲劇と解釈してはもったいない。生きること、信じること。人生のテーマはもっと深いところにあるのだ。

 激動の時代を生き急ぎ、報われる事なく、ひっそりと去って行ったオスカル。

名もない人々を守ろうとし、無償の行為に命をかけた女性。

人は一人では生きられない、だからこそ彼女は、人のつながりの強さを信じたのだと、私は思う。そう言うオスカルの前向きな姿勢を見る限り、このアニメベルばらは希望を目指した物語であった。

人と人とのつながりが薄くなったと言われる今、余計にそう思う。

 原作とは全く異なるアニメ版・ベルサイユのばら。もしこの先、アニメがリメイクされても、このアニメ版オスカルだったらいいのにと、私は願っている。そして彼女が、夫のアンドレの腕に抱かれるのが天国ではなく、バスティーユ後も生き続ける二人のねぐらであればなおさら良いと思っている。        

つぶやき…納得がいかないまま追悼。もうこの一言に尽きます。テレビという一方的に与えられる情報に、我々視聴者は参加できずに、ただ受け身のみ。

くやしい。そんな想いが残ると共に、命がけでがんばってきたオスカルの信念で胸が熱くなるような、この物語。

ただの「男装の麗人」の物語だけでは済まない、人として生きるとは何か、を問いかけているような気がしました。

 今回解説の一部に「原作」について書きましたが、決してアニメとの優劣の比較のためではありません、念のため。

 

1998.12.31.up