アニメ版 ベルサイユのばら 徹底解説>HOME

解説 第28話〜第29話


 主題、副題等、物語には縦横斜めの糸がからんで進行しますが、アニメの場合、どうしても原作から入った私は原作標準に思考を発展させてしまいます。

まず、原作とアニメのオスカルとアニメオスカルを頭の中で切り離すところから始め、アニメの主題について考えてみました。



迷路

 女として生きられないオスカルは自分の女としての気持ちを見下してきた。

ロザリーやジャンヌが強かったように、アニメでは決して女性は弱く描かれていない。あくまで男になりきらねばと葛藤するオスカルは、自分の中の女としての気持ちを「弱いもの、不必要なもの」として押さえ込んできたのだ。その女としての気持ちがついにあふれた時、オスカルは自家中毒を起こして自分を見失いない、ますます女を否定するのだ。

かたくななオスカルに、アンドレもやれやれと言った所だろうか。

心から湧き起こる彼女の女としての感情は「誰か、私を女として愛して欲しい!」と叫ぶ。反対に彼女の理性は「でも私を女として愛してはいけない。なぜなら私は女を捨てたのだから」といさめる。

だが本当の自分を切り捨てられるはずもなく、彼女はもがき苦しむ。そこでと、自分を取り戻すために取った方法が「男になりきる事」とはかなり彼女も短絡的。 アンドレには痛い所を突かれている。「バラはバラだ」と。

当然、彼は「俺の心を奪ったオスカルは女だ。女である事は決して恥ではない」と言っているのだ…。が、それはオスカルにとって決して認めたくない「所詮、お前は女に過ぎない」という、彼女を卑下した言葉に聞こえてしまう。

そして、ここからはイイ年をした二人のひともんちゃくが起きる。あ〜あ…。

 フェルゼンとの別れを目の当たりにし、オスカルとの心の距離を感じたアンドレ。失明の不安から彼女に救いを求める彼も又、自分を見失いそうになっていたのだ。その上、オスカルのそばに居続けることが彼の存在意義だというのに、供をしなくてよいなどと突き放され、土俵際に立たされるアンドレ。

で、彼の理性のタガが外れたのは、目の前の女性が女を否定しようとして苦しむ姿がますます女らしく見えてしまったから。彼の言葉を打ち消すように頬を打つオスカル。彼女も自分では気が付いていないけれど、アンドレには自分の弱さをさらけ出すほど心を許しているのだ。

 「所詮、女」と思わずに生きてこられなかったオスカルに「答えろ!」と言われて、アンドレの答えはひたすら実行あるのみ。お前は俺の心を狂わすスゴイ女だ!と言わんばかりの激しい攻撃!

 しかし彼はオスカルの涙にひるむ。「俺が求めていたのはこんなことだったのか?」と、彼は自問しただろう。彼女を悲しませることがアンドレの愛情ではない。では何だったのか?♂☆♀♪?!…大混乱の中、とりあえず我に返った彼は、乱暴になった事を詫びてからオスカルに対して愛情を告白している。

そうやって誠意を見せただけでも、せめてもの救いだっただろう。

 一方、自分が一番認めたくない時に女を思い知らされたオスカル。ひたすら混乱して泣き続けるしかない。

 

愛し合うのは心と心

 二人の心は恋に苦しみ、最低の気分。だがアンドレはアコーディオンおじさんに「愛し合うのは心と心」であると励まされ、いち早く危機を脱出する。

オスカルを我が手に抱きたいと思い続けたアンドレも彼女の涙にはひるんだ。

光を失う闇への不安と、己を信じられぬ心の闇。その苦難の中、彼は一筋の光を見つける。「オスカルを愛する心は真実である」と。彼は自分の信じた道に再び自信を取り戻し、オスカルのそばにいて彼女を見守り続けることを決意するのだ。

 ところで、俗に言う、人の愛情とはどんなものだろうか。

それをまず大きくわけると、求める愛情と与える愛情になると、私は思う。

彼は決してオスカルの行動や考え方には干渉せず、ひたすら静かに見守るのだ。今、オスカルが必要としているのは、激しく「求める愛情」ではなく、彼女の孤独をやわらげる「与える愛情」のほう。だが、そんな事にも気づかず、彼女はアンドレを遠ざけようとしている。この事はオスカルが、女としてアンドレを求める気持ちから逃げている証拠なのだ。

虚像のフェルゼンに恋したり、目の前の求愛者に戸惑うオスカルは実はウブな女。だが、アンドレは彼女の葛藤など無視して、強引に押していく。オスカルの本当の心をわかっているのは自分ただ一人と信じているのだ。信じるものは救われる。屋敷を勝手に飛び出したアンドレは、オスカルの先回りをして衛兵隊に編入する。

 

男・女・人間…

 何かにつけ、女は自分の性を常に意識するように躾けられるという。「女の子は作られる」と、一般にいうものである。オスカルは女なのに男の気持ちで信念を持ち、男として世界を見ながら女として悔いなく生きようとした、などと考えると、ベルばらは結構ややこしい。単純な私なんぞは、こんがらがって思考回路はショート寸前になってしまうのだ。

 ところが我々も普段、たった一日の間にも、男らしい思考をしたり、女らしい気持ちになったり、そのどちらでもない「人間」として振る舞っていたりする。そう、まさに心は自由なのである。

 そこで、激動の時代を生きたオスカルの気持ちを、我々はきちんと整理して見ていく必要がある。実はこのアニメの物語には、二つの主題が縦糸として通っている事を述べておこう。

ひとつは「自分本来の感情を抑え続けて来た女が、本当の自分を取り戻して行く過程」が描いてあり、そしてもう一つは「貴族という、やがて滅びる側の人間であり、社会的地位もある人間が、名もなき人々のために命をかけて尽くそうとした誠意」が描いてある。前者には恋人であるアンドレとの触れ合いが不可欠であるし、後者についてはアランたち民衆に対するオスカルの思慮深い行動が目立つ。場面場面で、どちらの主題が描かれているのか、考えてみるのも面白い。

 女も常に女として生きているわけではない。どこかに争い事が起きて、無力に涙することすら、ただ女だからではない。何も感じず、無関心でいる事より、よっぽど人間的なのだ…と私は思う。

 

つぶやき…後半の物語を二つの主題にわけて見ました。オスカルの場合、やっぱ「名もなき人のために尽くした」ほうが多く描かれてるみたい。それはそれでいいんだけど、私としてはアンドレとのおいしい場面を増やして欲しかったなぁ。


1998.12.31.up