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解説 第33話〜第34話


 

ついに歴史が動きました。オスカルたちは忙殺されて歴史に翻弄されています。自分の気持ちや体の事などかまうヒマもない彼女の動きを追いながら、色々な角度で物語を見てみました。

 

 

時代の激流

 三部会が始まり、オスカルとアンドレの仲は足踏み状態。和平的に世の中を変えようとする議員たちの為に、彼女は職務に徹するのだ。彼女の敵は議員たちの話し合いを妨害する貴族達の圧力である。

 アンドレはベルナールの元を訪れ、これから栄えていく民衆の強い信念と決意を感じ取っている。だが彼はオスカルの元を離れない。彼女の行動と信念が、正しいことを信じて、共にあろうとしているのだ。

一方、オスカルは城に出向き、傾きかけた王室の実態を見ている。そこには新しい時代どころではない重苦しい空気が流れているのだ。

 ちょうどこの頃、フェルゼンはアントワネット夫妻の絆を見て、帰国を決意している。柱の陰で自分に言い聞かせるようにうなずく彼の姿が印象的。

そのフェルゼンの帰国をオスカルに伝えるアンドレ。「お前によろしくとの伝言が届いている」とかなりくだけた報告。オスカルはその件には触れず、ただ三部会警備の訓練に入ることを告げるのみ。彼女の心にフェルゼンはもういないのだ。反対にアンドレに対する気持ちが次第に大きくなっているのか、上の空になっているオスカル。それぞれの想いが伝わってくる雨の司令官室…二人きりの部屋での沈黙…。ロングに引いた画面からはそんな事を感じるのだ。

 

三部会

 激しく変わろうとする時代の中で、いたいけなジョゼフの死は、ピエール坊やと並んで物語中最大の悲劇。アンドレの目も悪化しており、オスカルを心配させているが、その彼女も血を吐き、日増しに衰えていく。物語は佳境に入り、世相はだんだん暗くなっていくのだ。

 民衆の希望だった三部会。だが、波乱の幕開きに民衆の不満はつのるばかり。貴族と民衆の板挟みとなったオスカル率いる衛兵隊はやむなく議場を閉鎖。それでも横暴な貴族に立ち向かう、オスカルと兵士たちの努力も焼け石に水の状態。やがてアランの言う通り、事態はおさまらず、国民議会の誕生となる。

 

平民の敵・オスカル

 ラサールの免罪、アランたちの救出などを経て、オスカルは兵士たちの信頼を得て来た。もっとも、アランの救出にオスカルが奔走したことを彼らが知っているかどうかは語られないが、現実、善い行いが必ず報われるとは限らない。病にむしばまれるオスカルのつらそうな様子と、アラン救出の喜びが一緒になった顔を見る者はいない。 彼女の態度は、身分差を感じさせないほど冷静で現代的。兵士たちも又、能力主義で、今では隊長が女であろうが貴族であろうが、関係ないらしい。

彼らは平民議員たちを必死で守ろうとするオスカルの姿を見て来たはずだし、平民の味方をする隊長の行動を評価しており、まず、彼女に逆らう理由もない。

 ところがアランはこの頃、やたらオスカルに突っ掛かっている。かと言って指揮には逆らわないのだが、彼女を貴族と見なし、皮肉るのだ。これは何かというと、オスカルが貴族であり、これから栄える民衆の仲間ではないということなのだ。確かに彼女は民衆の味方にはなるだろう。だが、虐げられて来た民衆の苦しみを体験してはいない。彼女が民衆の味方をしているのは理性によるものだ。

 オスカルにはこの後、ベルナールやロザリーと言った、平民側にいる彼女の理解者だけではなく、縁もゆかりもない平民たちとの直接対話の場面がある。そこでオスカルは「貴族」というだけで憎まれるのだ。それでなくとも、アランすら彼女につらく当たっているというのに。

 何と、彼女は平民の敵として描かれているのだ。今まで自分たちの税金で贅沢な暮らしをしていた貴族の将校に、俺たちの苦しみがわかるのかと言われたら、残念ながら苦労を共有していないオスカルに返す言葉はない。民衆を苦しめて来た「貴族」のオスカルに、彼らの熱望は代弁できるはずがない、これが厳しい現実である。

すると困った事に、オスカルは自由・平等・友愛の精神を掲げて民衆の先導ができなくなるのだ。当然、民衆の先頭に立って、かっこよく戦えるどころか、ただ、民衆の敵として沈黙するのみ。

 だが、彼女は権力維持のために武力すら辞さないという貴族には戻れない。そして平民の仲間にもなれないという、どちらにも付けない孤立した位置にいるのだ。

では、となると、オスカルは何を信じて戦ったのかという疑問が湧いてくる。

 

オスカルが信じた道

 彼女が独り、孤独の中で信じたものは、自由・平等・友愛の精神ではなく、武器も名もない民衆の力になろうという決意である。自由・平等・友愛の精神を掲げる事こそ、虐げられてきた民衆の特権であるとし、貴族である彼女自身は、民衆の願いを掲げることを謙虚に遠慮している。

 民衆の敵である彼女が、決しておごらずへりくだって彼らを守ること。それは民衆の熱望「自由・平等・友愛」が出来るだけ平和に実現するために、自分には何の栄誉も見返りもない捨て石になる事なのだ。

 未来の主役である民衆の「自由・平等・友愛への熱い思い」と、その敵である貴族オスカルの「謙虚な決意」は物語の中で別のものとして描かれている。

 

読者の視点

 作品を見る上で、読者がどの位置でベルばらの世界を見ているかを考えてみよう。原作ではバスティーユまで、ほぼオスカルの目線で物語は進行している。手法として、オスカルのモノローグを多く入れる事。

それによって読者は彼女の気持ちをダイレクトに「言葉」で受け止め、自分で考えるまでもなく彼女の思考に同化しやすい。

つまり、ひたれるのだ!

オスカルの視点で物語を見た方が彼女に感情移入がしやすいし、絶対的な主人公としてオスカルを描くならこの手法が適当だと思う。ただ主観的な意見だが、オスカルの視点で物語を見ていた私は、彼女の死後、視点を失ってしまい、民衆か、それとも貴族アントワネットか、どちらの味方をしていいのか、うろたえてしまったのだ。

 一方、アニメの目線は鳥瞰図的、もしくは一番近い所ではアランの視点。

だが鳥瞰図的に見た場合、オスカルは民衆からすれば単なる「税金泥棒の貴族」。

これでは未来の勝利者(民衆)の前で彼女は滅びて行く悪者(貴族)の一人に過ぎない。勝てば官軍、勝利者・民衆が善として見なされるのだ。これでは視聴者はオスカルになりきってひたれない。

それでも「悪者オスカル」は、民衆に疑われても、視聴者に理解してもらえなくても、無言のまま民衆の為に無償で尽くすのだ。

もちろん、尽くしたところでその行為は報われず、彼女は戦いに散る。…のだが、このままではどうにも歯切れが悪い。

 で、最後の最後で、再び視点はアランに返ってくる。彼はオスカルとアンドレの不条理な死に、(視聴者同様)納得がいかない様子なのだ。

そして結論として、民衆の勝利が決して善ではなかった事、つまり、大切な命を散らす戦いの虚しさを彼に語らせて物語りは幕を閉じる。

 原作・アニメ共に、やがて断頭台の露と消える女王にまつわる物語はやはり滅びの物語なのであろう。オスカルも貴族であるがために例外なく命を落とすのだ。

 

つぶやき…まさに激動の時代を駆け抜けていったオスカルとアンドレ。物語も駆け足になり、解説する私もカメラを持って追っかけているみたいで、息が切れます。

 

1998.12.31.up