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ここは「ベルばらな日記」のページです。
ベルばらな想いを書いていく予定です!
あくまで予定??



ベルばらな日記の過去ログです。

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2004年1月15日(木)
ベルばらな日記  ..No.1
■気が向いて、ベルばらについて色々と書き込む日記を作ってしまいました。
全くの衝動日記作成です。
続くかどうかもわからないというのに?!
とは言え、作ってしまったのでとりあえずサイトにアップしておくことにします。

■さっそくですが、最近、ベルばらが入ってるなぁと思ったこと。

いつも聞いているFMから流れてくる歌。
なかなかしんみり聞いてしまう、平原綾香さんの歌う「ジュピター」。
ホルストの組曲「惑星」の中の「木星」に日本語の歌詞を付けたもので、去年、この「木星」はCMでもおなじみになっていました。

実は聞いているうちに最初はずっと「009が入っているなぁ」なんて思いながら聞いていたところ、よくよく聞いていればベルばら(アニメ版)も入っているやないの!と思うようになりました。

と言いつつ、実はじっくり歌詞を聴いていない。(^^;)<ヲイヲイ
きれいなメロディラインと低くて響く声。なんかそれだけで体に響いてくる。
愛とか孤独とか、結構聞き取りやすい単語が並んでいるので、いつかじっくり歌詞も味わってみたい。
その前にホルストのCD買おうかなぁ。


2004年1月17日(土)
解説を終えて  ..No.2
自分でもせっかくなのでこの際、解説を見直しながら感じた事をここに書いていこうかどうしようかと、ただ漠然と考えている。
まぁ、日記なのでその時々に思ったことを気楽に書いていけたらいいなぁという程度の事ではある。
が、ちらほら自分で解説を読み返して、「なんて事を書いているのか?!」という部分があると見直すのも恥ずかしくなる。

見直すという作業は、場合によると同じ場面を何度も反復するものなので、この日記で同じ話題を何度も繰り返し、同じようなことを書いて重複してしまう可能性が大いにある。
又、同じ言っているのか?ということも出てくるだろう。

解説の最後にも書いたが、解説自体が「原作をある程度知り、なおかつアニメを見た人」という人に的を絞っているので、表現がかなり「ベルばらファン」向けになっているのをあらためて感じている。
「従う」発言のあたりは、自分でも弁解の前置きしているものの、「オスカルは男性陣を立てただけである」だなどと、かなり男性陣に対して失礼な事も堂々と言っている。

この解説での表現は「ホント、原作のオスカルは好きだがアニメはちょっと…ね」と言う方に対して、出来るだけアニメもおいしく味わって欲しいという願望がちらほら出ている。

個人差はあれ、原作ファンとして「オスカル」と名乗るキャラにはやはり「原作らしいオスカル」を求めるものである。
原作のオスカルは誰に対しても、まして男に従うなんてことはあり得ない。自身の心の命ずるままに動くのである。
本人も言っているが「心は自由」ということ。

私がコテコテの原作ファンの頃は、オスカルにはみんなを従わせてしまう実力がある、又はカリスマ性を持っている、という設定があって欲しいと感じていた。

つまり解説での語り口は「原作のオスカルのオスカルらしい所を、少なくともアニメのオスカルも踏襲していますよ、全く違うわけではないですよ」という所に導こうとしている部分がある。特にこの「従う」発言の解説のあたりはかなりその傾向が出ている。

まぁ、これはこれで自分なりに解説したつもりなので、特にこじつけたという気持ちはないし、混乱の元かも知れないが、それ以外の異なる考え方も合わせて書いたつもりだ。

そもそもあの解説自体が、見て下さった方に色々と広い角度でアニメ版について考えていただければ良いなぁという想いもあった。
なので、あんな考え方やこんな考え方があるということも欲張って書いた。

実のところ私自身は、アニメのオスカルがあの朝、夫となったアンドレを頼もしいと感じ、「この人についていこう、妻として一緒に歩いていこう」と思わず感激して言ってしまったとしても全然構わないのである。
私はそんなかわいいオスカルも好きなのである。


2004年1月18日(日)
解説を終えて 2  ..No.3
今、衛星放送でアニメ版のベルばらを放映している。
そろそろ大詰めの頃だろうが実は一度も見たことがない。(^_^;)
土曜日の8時半というと、仕事で外出しているかデスクに向かっている時間である。

物語も大詰めに来ると「従う」発言とか「アニメ・オスカルには主体性が無い」「何を考えてるのかわからない」 とか、出崎さんや脚本家の方の発言とかが色々と論争を呼んだことを思い起こす。今回も色々と話題になっているのだろうか。

特に原作世代で今も原作ファンの方にすれば、またいつもの不満な「くだり」がやってきた!という感じかも知れない。
アニメファンにとっては寡黙なアニメ・オスカルの心情を語ってみたくてもどう表現していいのか非常に悩むところだと思う。
いずれにしてもファンをやきもきさせる、じれったい作品である。

確かに「原作と違う!!」とテレビの前でジタバタした経験者として、オスカルが衛兵隊の兵舎に戻ってから語った結婚宣言他の内容が「はぁ?」なのはよくわかる。
だがひとつ前の日記にも書いたが、オスカルが自分の考えでアンドレの言いなりになっても良いと思い、「愛する人が戦うから私も行くの!」という感情の高ぶりであの場にいたとしても、それはそれでいいと今は思っている。

出崎氏のコメントに言うところの、いかにも一途な「女性らしい可愛らしさ」があっても別に不思議とも思わない。我ながら変わった……と思う。

それまで自分の感情を包み隠してしまい、強くあろうと決意していたオスカルは何でも自分一人で黙々と背負ってしまっていた。
それがいつしかアンドレを信頼して一緒に戦おうと決意したり、第三者の前で自分の「幸せな」気持ちを素直に出せるまでに変化していったのだ。それまで押さえていた感情が堰を切ったようにあふれてきてもおかしくない。もうそれこそ可愛い女性だと私も思う。

それとオスカルはそうした女性としての可愛い一面だけでなく基本的に人間として別の側面も持っている。
彼女を突き動かしている根本は、アンドレや他の男達に対して可愛い女に見られたい欲求というものでもない。

彼女の考えの根底には、今時ダサイ言い方だが「愛がある」。
ものっすごく優しくておだやかな感情が彼女の基本にある。それは後半のエピソードの随所にあふれている。
慈愛の念というのか、アニメ版オスカルの性質は、元々は人を愛する為にあったはずなのだ。
だが彼女は厳しい現実の嵐の中に居たために、穏やかな本質を表に出せなかったのである。
その代わりに強くなろうともがいたり、自分一人で何でも背負ってしまった。
それはなぜかというと、彼女の「優しさ」がそうさせていたのである。

どんなに冷たい顔をしていても、無口にたたずんでいたとしても、それは彼女の本質である「愛」が姿を変えて、たまたまそういう「わかりにくい人間」と誤解されてしまうような態度として出てきただけである。

それじゃあオスカルの「愛」ってなんやねん?という事だが、人と人とが関わっていく上で相手を大事にしたいという気持ち、という感じのホッとするような暖かい想い。

たとえアランに「男みたいな女」とか、「あんな女に惚れては男は命がいくつあっても足りない」などと言われたとしても、私はアンドレではないがオスカルの本心がよく読めるのである。
わかってしまうと、むちゃくちゃ良いヤツなのだ。

ここまで言うとはっきり言って私の妄想モードであるのは間違いない、が!しかし!私は彼女の気持ちが分かる。わかるよぉ〜〜!オスカル〜!!
わかっているから自分ではあのアニメ版オスカルに非常に満足しているのだ。
物語の結果はどうあれ、あんな人がいた(架空ではあるが)というだけで、ホッとしたのである。おかげで救われないラストも少しは救われた。

いや、もうコレは解説じゃないから理由なんて書かない。私が感じた事なのである。

そう言えばアニメの話になるとたいてい、ベルばら(原作)の本質とは何か?オスカルの定義とは何か?ということがよく話題に出る。
そう言う次元の話かどうか解らないが、私はアニメ版オスカルの「人」としての根本が「愛にあふれている」ことと、理想として「争いのない平和」を前向きに望んでいることがはっきりと解った瞬間に幸せを感じたのである。
さらに言うなら彼女の「優しさ」が、厳しい人生に立ち向かうために非常に強い力を発揮したことに感動して共感したのである。

その感動が大きすぎて、かつて望んでいたベルばらの本質とは?という問いかけがどこかへ行ってしまった。ただ、それだけの事なのである。
大人になってからこのアニメ版のベルばらを再び見たときに、原作ベルばらのベルばららしい所ではなく、アニメの「オスカル」というキャラに惹かれてしまったのだ。
ましてアニメを見ながら原作のオスカルが頭をよぎることはない。別の人なのだから。

言ってみれば、あのアニメ版ではオスカルの「心」がきちんと描いてあったので私は満足したのだし、原作のベルばらの本質?がアニメで語られていなくても特に不満がないのである。
個人的にはこのアニメ版で私が感動したこともそれなりに「ベルばららしい」と思っている。

いや、だからといって原作で語られたベルばらの本質とは何か?という事が無視されていいのかと言うとそんな事は思っていない。それはそれで大切な事だ。
だが、原作については私は語る準備がない。他力本願で待っているだけなのである。


2004年1月19日(月)
衛星放送クラスマックス・・・らしい。  ..No.4
衛星放送ではついにアンドレが戦死する回が来ているらしく、ふと「アニメ・アンドレ無駄死に論」を思い出す。
オスカルをかばったのでもない、主人公として華々しく散ったのでもない。
オスカルが射殺した兵士の撃った最期の弾が運悪く当たったのである。

この場面には賛否両論がある。

原作の初めの頃、アンドレはオスカルのために命をかけると誓った。
この誓いがここで直接的な伏線として生きてこなかった事。
アンドレの最期がオスカルの盾になるというベルばら「らしい」ドラマチックな場面ではなかった事。確かに納得がいかない方もいらっしゃるであろう。

反面、非常時における命のはかなさを彼の死が物語っていたのも確か。
「命の重み」は主人公であろうが名もない兵士であろうが同じであるという事を描いてあるのだ。
まして非常時である、何が起きても不思議ではない。
そしてアンドレの死がオスカルの「ために」ではなく、彼女にアンドレの死の「責任」がかからないように回避してある。
又、少なくとも彼がオスカルに命をかける覚悟で生きてきたことは間違いなく、かつて誓った決意そのものは嘘ではない。
私は彼の死はアニメ版ならではの展開だと思っている。

ではなぜ賛否両論となったのか?
それはこの「賛否両論」という事自体、「原作が標準」という前提なのである。
原作物のアニメ化・映画化作品は、どうしても元になった作品との違いを比較検討されがちである。
当たり前かも知れないが、作品が他者に手渡った時点でもう原作「そのまんま」のものはまず作れない。制作者のスタイルや意図、作成時の時代背景、色々な制約などが入ってくる。
アレンジされている以上、原作に強い思い入れのある人全てが満足できる物にはならないのである。

このアンドレの死については「原作の筋運びと違う」と言う事が主な賛否両論の原因なのだと思っている。
アニメ版の独立した物語としては、アンドレの死はアニメ版のテーマに添っている。
単に原作と違うというだけでは、アニメ版の筋運びが間違っているとか、レベルが低いという次元ではない。

そもそも作品に対する批判にしても賛美にしても、その作品が嫌いであればどうとでも言いがかりは付けられるし、好きであればいくらでも美点を見つけられる。
つまり作品を語る人の見方によってプラスにもマイナスにも批評できるのだ。
作品論を見るときは、書いてある内容以外にそれを書いた本人の感情が織り込まれていることもあらかじめ考慮しておくことは大切である。

個人的な意見だが、特にこういう個人サイトで作品を語る場合、必ずしも公明正大に作品が語られているとは限らないと思っている。
だからこそ個人サイトのそれぞれ思い入れは、個性や特色があって面白いと言える。

私は一応管理人だが、「アニメ版は良い作品」という所に結論づけた上で語っている。
アニメは良いよ〜感動したよ〜とすぐにヨイショしてしまうので、決して公明正大ではないのだ(笑)。
そのせいで今までにどなたかの貴重な意見に気が付かずに通り過ぎてしまったかも知れないと、反省を込めて時折思う。やはり思考は柔軟な方が良い。

さて話はぶり返すが、原作とは違うアナザーストーリーのベルばらとしてアニメを見ると、彼の死は決して無駄ではなく、悲しいながらも命を落とすことでテーマが浮かび上がってくる(アニメ版のテーマとは何かについては解説で長々と語ったのでここでは省略する)。

……と、やはり私は思っている。

なので、アニメ版のアンドレは物語のテーマを体を張って示したので、(あくまで芝居を楽しむ上での話として)有益な死に方をしたのである。

……と、こうもはっきり言いきるとやはり虚しい。

生き方と共に死に方によってもテーマを語るという趣旨はわかったが、こちらとしてはアンドレやオスカルの最期をただ見ているだけで口出しも出来ずひたすら歯がゆくて悲しい。

今回の再放送をなかなか見られないのは時間的な余裕だけではなく、こんな重い物語を朝から見てしまうと、一日が重くなりそうだからかも知れない。


2004年1月20日(火)
蔵出し文章 前置き  ..No.5
毎日毎日続けて日記を更新している私はヒマ人?と言われそうだが、実は今までに書きためた文をちょっと手直しして出しているだけである。

以前、各話解説を書いている時に、解説には直接関係ない部分を省いてきた。
いつかそれをまとめてフリートークとして出そうと思っていたが、手っ取り早いので日記の形で少しずつアップしていく事にしただけである。
そのうちネタが尽きるのでやがて日記になるだろうが、今のところ正しく言うならこれは日記ではなく、フリートークである。

今日の「蔵出し文章」は、だいぶん前に書いた物のようなのだが、お蔵入りしていた文である。ひょっこり出てきた。
メールしようとしたのか、サイトにアップしようとしたのか、今は不明。
最初の解説として書いた「ちかぴぃの研究工房」についてのものらしい。

この「蔵出し」を書いたのはサイトを開設して間もない頃なので1999年頃と思われる。
何か熱くなって一生懸命に語っているので日記にしてアップする事にした。

文の中に新聞のコラムが出てくるが、おぼろげな記憶では「牛になる」というタイトルで丑年(1997年)に朝日新聞に掲載されたものだと思う。
サブタイトル?が「オスカル・それは遠い星」というものだったような気がする。

以下、次の日記で本文をアップする。


2004年1月20日(火)
蔵出し文章 本文  ..No.6
↓↓↓↓↓以下、最後の行まで当時の文章↓↓↓↓↓

原作とアニメは別物・・・??
そう簡単に割り切れるものじゃない!!
ごもっともです。
そもそも私自身も、アニメを語りながらどうしてもちらつく原作の影を気にせずにはいられませんでした。
いくら別の作品と言っても「この場合、原作オスカルは…」と頭に浮かぶことがほとんどとでした。
しかし、今回、特に「原作を引き合いに出さずに…」と何度も繰り返したのは、アニメを語る際に原作を比較の対象にしたくなかったこと、又はアニメを単独の作品として語りたかったことが気持ちとしてあります。

ここで少し原作について語ります。
原作オスカル、カッコいいです。
身分も高いです。立場も普通の女ではなかなかそうなれないほど優位です。男よりも男らしいし、強いし、賢いし、聡明だし、女のカワイイ面も持っています。それでもって人間ぽい所もあって、憎めません。
特にこの物語は「女だから」と言うような、現実の中での「性差」を意識せずに、オスカルに浸りきって読めるところが痛快でした。それどころか性差さえはねかえすオスカルの優位さ・強さに、同じ女性として憧れました。
原作を、感受性の強い少女時代に読んだことも、強く印象に残る一つの要因だとも思います。
ひたすら彼女に思いを寄せる男性にかしずかれ、なおかつ絶対的な主人公としての原作オスカル。彼女は物語中、絶対的な主人公だったと思います。
アニメについて色々と意見を聞きますが、原作オスカルの絶対優位性が省かれていたこと、この辺がアニメの賛否両論のひとつではないでしょうか。

何年か前の新聞のコラムに「オスカル、それは遠い星」というタイトルで、記事が載っていました。タイトルが的を得ているなぁと感じ、今でも覚えています。
彼女は原作連載当時、少女たちの願望を背中に負い、物語の中でどんどん大きな存在になっていきました。アントワネット主体のはずが、いつしかオスカル中心の話になっていったのは周知の事実です。
オスカルにはこうあって欲しい、そうやって欲しいという要望が盛り込まれ、まさに少女の夢が体現したような原作のオスカル。
女性の生き方のひとつのモデルとして、その後彼女を目標とし、心の支えにされている方もファンの中にはいらっしゃるのではないかと思います。

又、原作以外のメディアのベルばら(アニメ・宝塚・映画等)を見ても、それは原作をよりいっそう完全にさせてくれる媒体であって欲しいという願望もあったと思います。アニメや宝塚についての意見も「原作を完成させてくれなかった不満」が多いのではないでしょうか。

実写の映画版では、オスカルの体が生々しいのは人間が演じているのだから当然です。又それはそれで良さがありました。
アニメは動画と音声でかなりイメージが固定されましたが、オスカルを中性的に描く(女性の体を意識せずに)上で、原作に近かったと思います。放映時はさぞファンの期待も大きかったことでしょう。
今はそうではありませんが、実は私も当時、期待して夢やぶれた一人です。

本当にどのメディアのベルばらも原作から離れて独立した物語になってしまい、原作を完全にさせる作業は結局、読者の手に任されたのかも知れません。
原作だけではなく、今はどのジャンルのベルばらについても同じ事が言えます。

では…読者は、オスカルの面影を何に求めれば良いのでしょう?
ベルばらグッズ集め?イラスト?似顔絵?小説?マンガ?それとも意見交換?
方法は色々あります。ファンはその中から何かを「得たい」のですから。
オスカルって何?ベルばらって何?
わかっているようでわからない、そんなものかも知れません。

そうですね、本当のオスカルって何でしょうか。
私は読者の一人一人、全て違うと思います。その中で共感を持てる意見もあり、反対の解釈もある。ファンの数だけベルばらは違う作品なのかも知れません。
原作とアニメとのエピソードがごっちゃになってしまうことだってあります。

原作オスカルは思想に命をかけ、恋愛に命を燃やし、悔いなく生きた。
確かにそうかも知れません。
でも私がオスカルの生き様に感動したのは、彼女のかっこいい言葉や思想のために命をかけた、などと言う大義名分の次元ではありません。
女の子でもやればできる。男の添え物じゃない、立派に自立した一人の人間である、彼女はそう教えて勇気づけてくれたキャラクターだったのです(もちろん、当時、他にもそういう優れた少女マンガの主人公はいました)。

ただ、そんな完璧な生き方が現実に出来るはずはない。そう思い始めたのは大人になってからだと思います。
現実に思想と恋愛を両立するのは難しい。男と女の関係はマンガみたいに夢みたいな事ばかりじゃない、等々。
オスカルは遠い存在…まさに遠い星でした。
その現実を知ったとき、久しぶりに見たアニメのベルばらはとても懐かしく、抵抗もなく共感をもって見ることが出来ました。

そもそも原作を読む上で、私は「オスカルらしさの定義」がどうしても頭から離れませんでした。
原作でのセリフ、行動、物語の展開、おきまりのシーン、これらのものが定義となり、「大輪のバラのような生き方」以外の部分は「オスカルらしさ」から外して、二の次にしていたのです。
(関係ないですが、ジャルジェ将軍ともみ合うあたり、私は忠臣蔵の松の廊下とダブってしまうんです。それとか場面場面で決まった型があってこそベルばらという思い込みがあるのも歌舞伎の型のような気がするし、すごく日本的なものを感じています)

オスカルは颯爽としてカッコよいこと、それが大事なんだと。
……でも、彼女の生き方が現実ではないとわかり始めたとき、「少女の夢」の時代は終わりました。
私もしばらくベルばらを忘れていました。しかし新刊が出るたび本屋で手に取ったりし、今も現役でがんばっている?オスカルを見ると思わず励ましていました。

変ですね、現実ではないマンガの登場人物を、大人になった今でも「こんなのただのマンガじゃないの」と冷めた目で見られないのはなぜでしょう。

そう、かっこいいだけのキャラクターなら他にもいっぱいいるし、飽きられて忘れ去られていったはずです。
じゃあ、現実を知った上でも「懐かしいだけの気持ち」だけではなく読めてしまう原作って何??

まだ原作を知らない方、アニメや宝塚しか知らない方、ぜひ原作を読みましょう。読んで下さい。そしてオスカルのカッコいいとこばかりじゃなく、彼女の人間らしい面、語られなかった気持ち、ぜひとも感じ取って下さい。
彼女の気持ち、それはカッコいいポーズやセリフだけではありません。
ベルばらは奥の深ーい物語です。


2004年1月22日(木)
ベルばらは悲恋か?  ..No.7
ベルばらな日記 6

ベルばらは悲恋か?

いきなりマジなタイトルをつけたが、そんなに深い意味ではなく主にオスカルとアンドレの恋愛を考えてみた。

またのタイトルは「オスカルは悲劇のヒロインか?!」

…我ながらあきれるが、相変わらず大袈裟なタイトルが好きなようである。

全員にアンケートを取ったわけではないのだが、多分ファンにとってオスカルの生き方を悲劇的と感じていない人は多いと勝手に想像している。

私も原作やアニメ版その他のジャンルに問わず、彼女の生き方そのものを悲劇とは思っていない。
ただ以前にアニメ版に関して、悲恋である…と書いたことはある。

互いに思い合う男女が、紆余曲折の末、やっと理解し合って向き合い始めたとたんに死別するということは、その後に待っていたはずのささやかな幸せを奪われたことでもあり、その後生きていたら体験したであろう幸・不幸を取り混ぜてあらゆる可能性を絶たれたわけである。
これは男にとっても女にとっても、互いの明るい将来を夢見ていた二人には悲しい出来事だと思う。

だがニュアンスとして、確かにオスカルに対して「悲恋」という表現がしっくりこない。
どうしてだろう?

ところで過去や現在に悲劇や悲恋を実際体験した方には勝手な解釈をいきなりはじめてしまって大変申し訳ない。
きっと本当の悲劇は、悲劇などという言葉で表現できるものではなく、口に出すことさえ出来ないほどつらいものなのだと思う。
ここではオスカルに「しっくりこない」と思われる「悲恋」とはどういう事なのかについて考えてみた。

悲恋という言い回しには色々解釈はあれど、その意味に近い言葉で「悲劇のヒロイン」という、女性を示す表現がある。

この言いまわしも色々解釈できるが、運命に翻弄されるばかりで「ふんばり」がきかない弱い女性、自立心がなく誰かの庇護を受けられなければ生きていけない女性、自主性がなく周囲に流されるだけで自分の意志を持っていない女性、又はあまり良くないイメージで言うと、自分がかわいそうだと思いこみ自意識過剰になっている女性というイメージが一部にある。

ただし、弱い性質の女性が決して悲劇のヒロインだとは思わない。そのような女性はきっとスーパーマンのような強くて優しい男性が放っておかないだろう。

ここで言うのは自ら悲劇だと誇張したり、何事も第三者の責任になすりつけたり運命のせいにしてしまう女性が「悲劇のヒロイン」の中に含まれているのではないかということである。

これらの意味あいをオスカルに当てはめると、どうも彼女のイメージとは違うなぁと首を傾げてしまうのである。
オスカルは自分の生き方を自らが切り開き、結果がどうであれ悔いなく人生を生きたこと、そのことが「悲恋」や「悲劇」であるはずがないだ…とファンが感じても当然と言える。

原作の二人はたとえ死んでもそれぞれに納得しあっていたように見受けられた。
アンドレはオスカルの身代わりに敵の弾からかばったことを誇らしく感じていたとも解釈できるし、オスカル本人も悔いなく生きたと言っているほどで、悲しい中にもどこかスッキリと心の中で整理がついた。

一方、やはりアニメ版のオスカルとアンドレの恋愛については、うまく語る言葉が見つからない。
アンドレの「これから」という時のあっけない死、そしてアンドレに「ごめんなさい」を言えずに後悔するオスカル。
あの悲しみの深さは原作と違い、とても視聴者は救われない。
どうしても架空の話なのだからとあっさり割り切れないのだ。

私としては不条理まみれの結末。あまりに不条理すぎてアニメ版を見終えた後は「こんなんウソやろ…」と感じて沈黙してしまったほどだ。
だからといって、決して気の毒な人達という印象ではない。悔いはあっても、精一杯前向きに生きようとしたのだから。

余談だが「悲恋・悲劇」という表現と共に、オスカルが幸せだったか幸せでなかったかという事も人によって想いは違うだろう。
これも幸せとは何か?とは各人によってさまざまなのだから、きっちり白黒つけるような答はないと思っている。

ただ、最初の話に戻るが、これから先にあったであろう彼らの人生を想像し、どう考えても恋愛に関しては思いを残す事の多すぎた2人を思うと、胸が痛む。
やはり気の毒…かも知れない(ボソッ)。
そういう意味でアニメのあの二人はやはり悲恋であったのだと捉えている。


2004年1月23日(金)
物語の中の悲恋  ..No.8
ベルばらな日記 7

物語の中の悲恋

一つ前の日記で悲恋について語ったので、その余談。

悲恋とひとことで言ってしまっても、「現実の悲恋」と「ドラマにおける悲恋」とでは意味あいが違う。
ドラマという虚構の世界での悲恋はあくまで物語であり、なりきって虚構の世界に一時現実逃避出来る「気分転換」の材料にもなる。
又、時には現実の世界から見ている私たちに何かを暗示するものとして写る。時には悲恋は物語のテーマを語る。

我が身に置き換えて胸も張り裂けんばかりに悲しんだとしても、それは虚構なのだから美しい物語として悲恋の主人公達を心の中でどのようにでも変換し、自分なりに作り替えることも出来る。脳内の妄想では生き返らせることも可能だ。
そして虚構だからこそ、その世界やキャラクターにひたることが出来、翌日の会社や学校で楽しい話題にもなるのだ。

その、あくまで私自身の心の中でのアニメ版ベルばらのオスカルとアンドレは、虚構の世界の中の人物ではあるものの、とてもなりきってひたれない。
我が身に置き換えたくないほど残酷な運命によって追い込まれていったのだ。
よく本人達は最後までいじけずに、人生を投げ出さずにいたものだと思う。

あれだけ語った今でも、どうしてアニメ版の二人が死ななければならなかったのかと思うこともあり、仮にあれがドラマだったとしても翌日に会社で話題にする気にはなれないに違いない。どうにも話題にしたくないほど気分が重くなるのだ。

そう言えば原作では、オスカルやアンドレが死んでしまうことは「やっぱり…」と、ある程度あきらめて見ていた。
少なくともアニメ版の二人に比べると、その死についても心の中で整理が付いた。

革命の起きる前にオスカルが血を吐くのも、いきなり戦闘死では読者へ与えるショックが大きいので、読者への気配りとして前もってオスカルをさりげなく病気?にしたというのは有名な話だ。

が、それ以外に、オスカル自身が最期に「フランスばんざい」や「悔いはない」ときっちりセリフとして語ったことによって、オスカル本人がこの世に思い残すことはなく、安らかな気持ちで死んでいくのだと読者にちゃんと説明してある。

これもやはり結果的に読者に対する気配り、そしてそういう風にグイグイと読者を引っ張る魔法のような筋運びだったのだろうなと思う。
それを考えると、セリフの「力」は読者の気持ちを操るものであり、絵の表現力と並んですごいものだと感じている。

アニメ版では、この言葉の持つ強い魔力をあえて脇へ置き、オスカルの置かれた状況を(制作者が)我が身に置き換えて考えた結果、「悔いの残るオスカル」になったのではないだろうか?
確かに現実で考えたら、オスカルの後悔は当然とも言える。制作者はきっと少女漫画の甘い魔法にはかからなかったのだろう……。
そのあたりが賛否両論であろうが、アニメ版の脱少女漫画傾向なのだと思う。

もしも、…もしもだ。
原作において、同じ展開で同じコマ割で、あの時、オスカルが「もっと生きたい、アンドレと二人で生き続けていたかった。そしてこれからの新しいフランスのために役に立ちたい」というセリフになっていたとすれば、読者は救われなかったのかも知れないと、今さら振り返る。

当時のように今でも「フランスばんざい」という彼女の最期の言葉がファンに支持され続けているとしたら、このセリフには読者を「救う力」があったのかも知れない。


2004年1月24日(土)
ベルばら再燃のきっかけ  ..No.9

ベルばらな日記8

ベルばら再燃のきっかけ


記憶というものはいい加減なもので、記録程度に当時の思い出話を少ししてみようかと思う。以前にも少し触れたので重複している。

はまるきっかけは偶然だが、思えばベルばらに吸い寄せられたのかも知れない。
何と、私が再度ベルばらにはまるきっかけは映画版(アニメ本編編集版)だった。それも社会人になってからであった。アニメ版のベルばらが放映されてから15年以上は経っていたものか……。(遠い目)

ある日新聞のテレビ欄を見たらたまたまテレビで放映されると載っていたので、あまりに久しぶりで懐かしく、その昔、自分がとてつもなくアニメ版にブーイングをしたことすら忘れ、ただ単に心うきうきさせてくれる「ベルばら」のアニメ版なのだと、抵抗もなく見てしまった。

これがいけなかった。その後長い時間をかけて解説を書く羽目になってしまったのだ。

しかし、独りで見たものだからこの感動を分かち合える者がいない。仕方ないので身内から攻めようと思い立ち、あわてて姉に伝えた。
幸い姉はベルばら世代であり、マーガレット連載中はベルばらをむさぼり読んでいた。
当時からオスカルを描いていたし、オタクの素質もあり、幸いキートン山田氏のファンである。

アニメ版に関しては当時の私と同じく、かなり不満を持っていたらしいが、それから年月がかなり経っている。
どうせ昔のことは覚えていないだろうと思い、キートン氏がものすごく良い役で出演されていると伝えたらさっそく見たらしく、案の定、キートン氏だけでなく内容にも速攻でハマった。

もちろん、一度ハマればテレビ版を見ない手はない。週末になるとすぐにレンタルビデオ屋に走り、テレビ版を借りに行ったのだが全て貸し出し中。
がっくりして家に帰ると、姉から勝ち誇ったように「ビデオを借りたのは私やねん、どやっ!」と電話があった。身内で奪い合いしてどうなるねん?の世界である。

それからしばらくは情報もないので二人だけでストーリーを作って遊んでいた。
と言っても、子供時代からヨシモトに染まり、ボケとツッコミが得意な関西人の事である。どんな内容かはご想像におまかせする。もちろん門外不出である。(笑)

その後はファンの集まりの存在を知り、色々な方と知り合いになることが出来た。
ちょうどFAXが普及しているときで、便利な連絡手段になっていた。
その前は手紙や電話が主流だったのだろう。コミュニケーションの手段はだんだん便利になっていく。
現在その方々はほぼネットに移行し、色々なジャンルで活躍されている。


2004年1月25日(日)
かわいいオスカルは好きですか?  ..No.10

ベルばらな日記9
かわいいオスカルは好きですか?
サブタイトル:かわいいオスカルはダメですか?

<可愛い>
「愛らしい」も同じような意味あいを持つ。

もうずっと前…かれこれ●十年前だが、男性社員の何気ない仕草に「かわいい」と言ったところ「アホにすな!」と怒られた事がある。
どうやら「かわいい」はホメ言葉ばかりではないらしい。使い方によって自分より劣る者、小さい者に対する表現にもなりうる。特に目上の人に使うとバカにしていると捉えられる場合がある。

上記の経験で言うが、女性から「かわいい」と言われて嫌がる男性がいるのも確か。
反対に男性に「かわいい」と言われて反発する女性もいるだろう。
立場や人間関係によっては同性同士でも嫌なものかも知れない。
些細なことだが、相手がどのような言い回しに過敏に反応するかなど前もってわからない。敬語と並んで言葉の使い方はやっぱり難しい。

アニメ版は「男性が作った」と言われている(人によるのだが)せいか、オスカルを「かわいい女性」という感じに描いてあると、まるで男性がオスカルを馬鹿にしたような印象があるのかも知れない。
だが普通、その人間がかわいいことが「良いことなのか悪いことなのか」という判断に正解はない。

たとえば、女性の可愛らしさを表現するためにオスカルが衛兵隊へ向かうアンドレの後ろに付いていたことも、ああ…「守って欲しい願望」をオスカルが持っていても不思議ではないわな、と思う。アンドレも自分の女性を「守りたい願望」ってあったのだろうなぁ。
あれって、お互いの了承があってそうなったのだから、多分、視聴者は「見せつけ」らけていたらしい。ちっ!ノロケかいっ!?(爆笑)

だがこの場面、女性VS男性という視点で見ると、オスカルを「かわいいといいながら女性は従うものだと男性が言っているに過ぎない」とも解釈できる。
時には女性としての可愛らしさ、という表現も人によれば苦痛になる。プライドの高い女性にすれば、軽々しく「女の可愛らしさ」を連呼されたくはないだろう。

多分、それを許せるとしたら本人が認めるほどそれなりの強さを持つ男性であろう。
まさに弱肉強食。女はより強い男を好むものである、と言っちゃおうかな。
だけど、それなりの強さを持っている男性を見たら、それより強くなってやろうとがんばってしまう女性もいるだろう。ナンバーワンやオンリーワンになりたいのは男女に区別はない。

では反対に女性は男性のどんなところに可愛らしさを感じるのか。
ベルばらのエピソードから取り上げると、たとえばアンドレが袋叩きにあった後の場面。
オスカルが駆けつけたにもかかわらず、アンドレは泣きながらオスカルの結婚を否定し続けるのである。
普通、男性としては想う相手の女性の前で無様な格好はプライドにかけてもさらしたくはないだろう。

だが、女性側にすると案外相手の男性の人間性がポロリと出てくるような弱い一面に感動するものである(ただし、これは人によるので一概に言い切れないが)。
まぁ、そもそもこの場面が「かわいい」のかどうかは微妙だが、母性本能くすぐられそうだからまぁ勝手に良しとしよう。
(解説であんなに母性本能が云々と言いながら軽く使っている私も私だなぁ(^^;))

それにしてもこういうアンドレのボコられた姿って、男性から見てどうなんだろう?
見たくねぇ!とか、反発ないのかなぁ。

で、そろそろまとめに入るが、愛するが故に相手にさらけ出す自分の「かわいい」一面。アニメ版でそういう場面が互いに描いてあったのは嬉しいことだと思う。

今は「かわいい〜」という言い方もかなり定着したので、そんなに拒絶反応を示す人がどれほどいるのかよくわからないが、「可愛い」とは、自分が相手に対して敵意がないことや、どうでもいい相手を少しは見直した場合にも使える言い回しである。
言葉は毒にでも薬にでもなる。是非、使用方法を確認して使いたいものである。
…と、夜も更けてきたし、無理やりまとめてしまおう。


2004年1月26日(月)
解説を終えて 3  ..No.11

ベルばらな日記 10

解説を終えて 3

日記と言いながら、解説を書いた余波でここのコーナーが出来たのは前述した。

あらためてサイト内の解説群の紹介をすると、まとまりがあるのは最初にアップした「ちかぴぃの研究工房」であり、これはそもそも過去に各話解説として書いた「解説ノート」のダイジェスト版である。
これが文の長さからして、飽きずに一気に読めるぐらいにまとめてある。
当初は「ちかぴぃ」と「なーかる」が別人物のようだったので紛らわしかった。

確かにまとまりは良いのだが、サイトを開設するに当たって初めてアップしたもので、今見ると画面のレイアウトがおそろしくダサい、文の行間のあきが変。
巨大化した文字と背景色の組み合わせには我ながら引く。(^^;)
手直ししてもいいのだが、今のところあの初心者丸出しの「いてまえ精神」がなつかしくそのまま放置している。

各話解説は「研究工房」の元にもなった「解説ノート」から抜粋・加筆したもので、「研究工房」に比べるとさらに踏み込んだ内容となっている。
解釈を何通りか書いてみたり横道にそれたり、アニメ版のベルばらをより深く味わうために作品には直接関係ない部分にも踏み込んだ。

何度も言うが色々とてんこ盛りにし、少し欲が出たのは良いのか悪かったのか今もその方向性の善し悪しを色々と考える。
アップに当たってはこうであると、一つの筋道をビシッと書くか、あるいは、ああである反面こうでもありと多角的な見方で書いていくか、どちらにしようかと迷った。

やはり自分なりにこうなんだ!と、好き勝手書きたい気持ちもあったが、読んでくださった方に、アニメ版ベルばらが色々に解釈できること、そして多くの解釈を書くことにより、そこからさらに発展させた解釈をして下さる事を願い、玉虫色の優柔不断な文になった。
少なくとも、自分としてはこうであるという部分については断言した部分もあるから、まぁいいかと思っている。

そしてその中にも分類できず入りきらなかった文をストックしていたがこの日記である。そろそろ半分くらいはネタを使ったので、前にも書いたがそれを使い切ればお気楽な事でも書く予定である。
そのネタもついに無くなったら、きっと私がベルばらに燃えるエネルギーが無くなった事であろうと思う。そうなれば更新はしない予定である。