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ベルばらな想いを書いていく予定です!
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2004年1月27日(火)
ベルばらで燃えるために その1  ..No.12

ベルばらな日記 11
ベルばらで燃えるために その1

どうしてベルばらのコミックスっていつも手元にあるんだろうと考える。
原作の違う版が出るたびに買ってしまう、というのは私だけではあるまい。
あのでっかい豪華版上下巻は大きいから迫力があるが、枕元で読みにくいのが難点だった。
MC版はボロボロで落丁も激しくもう読めない。今は集英社のバラの表紙全5巻が手に取りやすくて便利である。

どうやら不思議な原作のベルばらの魔力は、くたびれかけた心に効く速攻の栄養剤であり、前に向かって歩くときの後押しをしてくれるものらしい。
何度もベルばらを卒業したはずなのに、人生の節目でベルばらにパワーをもらい、ハマってしまったという人は案外多いのではないだろうかと思う(注:実際、多いかどうかはわからない。単なる思いこみである)。

特に十代に比べ、自分自身を燃やすための力や自分の楽しみを見つける力は徐々に衰えてくる(と、個人的には感じている)。
新たに自分を燃やす媒体も簡単には見つけにくいし、振り返ればリアルタイムの熱狂が懐かしく、熱く語ってしまうだけの魔力がこの作品にはあるのだ。
多分、少女期に見た記憶がよみがえり、気持ちが燃えるのだと思う。

ただし、ベルばらから得たパワーを持続させるには、やはりパワーがいる。
「継続は力」というほどに、ずっと自分を燃やし続けるのは難しいものだ。
特にベルばらのように古い作品には続編やリメイクもなかなか無い。
今、与えられたネタの中で語っていくとやはりネタ切れしてくる。
そうしたら、後は持続するため(燃えるため)に新しい燃料がいる。

少し前ならファンクラブに入会したり、何かのファンの輪に入って交流したり、今ならグッズが出たりインターネットのサイトで交流ができたり、と、燃焼の持続にはもってこいの状態になっている。

気をつけたいのだがこういう「パワーの持続が必要」な時、何のパワーを燃料にするか?である。

感動のあまり高ぶった気持ちをパワーにしたり、楽しい話題で盛り上がったり、創造の世界で妄想したり、というのはよくある話だ。
が、もう一つ、手っ取り早く自分をガシガシ燃やす方法は「怒り」のパワーである、と私は思っている。

そう、何かに対して「怒る」のである。
特にベルばらについての事ではないが、実生活の世界をぐるりと見渡すと、何かを「好きだ」と語るより、怒ったり抗議したり、それは間違っている!何かおかしい!と叫ぶ方がテンションも上がるし本能的に「燃える」のだ。
さらにそこに気持ちを同じくする仲間がいれば相乗効果でより燃えるだろう。

しかし、本当は怒りの表現とはものすごく難しくて高度なテクニックがいる。
筋道が通っていればいいが、怒りや批判はよほどうまく切り口を考えなければ、ただの言いがかりか、ヒステリックな戯言として、やがては発言した本人の人間性を問われる。
又、下手なツッコミをして、後でそれがトンデモ発言だったと発覚したら、恥ずかしいのは当の本人である。
なので怒るときほど冷静さが大事である。実は相手をヨイショしたり、好きなものは何でも誉める方が無難なのだ。

何だかベルばらの話をしているのか、生き方エッセイなのかわからなくなったが、せっかくはまったベルばら熱を持続して燃焼させるために、ひいては生活全般についても(大袈裟な)、怒りという負のエネルギーを借りて暴発するよりは、ちびちびでもいいから是非パワーを良い方向に向けて持続させたいものであ。
そして怒りのエネルギーはちゃんと変換して、建設的な事に利用したいものである。

と、………日々、自分に言い聞かせている私はイラチな関西人。


2004年1月27日(火)
ツッコミの定義  ..No.13

ベルばらな日記 12

ツッコミの定義

一つ前の日記で「ツッコミ」を使ったのだが、不意にこの言葉について考えてみたくなった。
ほとんどベルばらには関係ないかも知れないが、こういう自サイトでベルばらや色々と他に語っていると、いくら自分の城だとはいえ、不特定多数の人が(当サイトの場合は不特定少数)閲覧に来られているのであろうし、言葉の使い方などをいくらか気にしてしまう。

最近、ツッコミという言葉も日常化した。
私としてはこの言葉にそもそも漫才の「ボケとツッコミ」というイメージを持っている。

由来は知らないが、勝手に思うところ、この二つは「対」になっていて単独ではない。
ボケはぼんやりした人と言うより、誰にもあるちょっとした思い違いや思いこみの事で、ツッコミはそれを笑って済む程度にさりげなく軌道修正してあげる気配り、のようなものと思っている。

そう、人にはどこか人間くさい所があってこそ親しみが持てる。ツッコミとはボケに対する応えであり、互いにほのぼのした笑いを誘うものというイメージを持っている。

また、「ボケ」る人も、その場を和やかにするためにわざとボケてみる。
気の効く人はそこでボケた人の気配りをちゃんと感じる事ができて、あうんの呼吸で「ツッコミ」を入れるのである。

「ボケとツッコミ」とは、相手に対して友好的であることを互いが確認する手段であり、コミュニケーションにおける気配りなのである。
そしてツッコミどころはまさにタイミング。センスが必要なのだ。

そんな「ツッコミ」がいつのまにか独り歩きしている気がするのは私だけだろうか。
「ちょっとツッコんでみました」と言っても、相手がボケていないのにつっこむのはイジメ、もしくは批判・追求にもなりうる。
するどいツッコミというと、何となく優しく聞こえるが、その意味は「厳しい指摘」だと思う。

それでも相手がボケているからツッコんだのだというのであれば、勝手に相手をバカ呼ばわりしているのと同じである。
もし相手に対する愛情がなく、単に物笑いの種にしようと言うので有れば、これはもう微笑ましいとは言えない。

「ツッコミ」は響きが軽く、ファジィな言葉なので、幅の広い解釈が出来る言葉でもある。語感も良くて使いやすい分、無意識に使ってしまう。
相手(対象)をからかうためにも「ツッコミ」が使われているが、「ちょっとツッコんでみました」とは言っても、「ちょっとちゃか(批判)してみました」などという意地の悪いことは誰も言わない。

これでは気付かぬうちに、それを聞いた(読んだ)人までも何の疑いもなく無意識に「批判」を刷り込まれてしまうのだ。

多分、そう言う自分もきっとあちこちで厳しい「ツッコミ」を入れ、どこかで誰かの「ツッコミ」に対して無責任に笑っていると思われる。
この無意識に使ってしまうところ、又は脳内で勝手に処理してしまうところが、言葉の扱いの怖いところである。


2004年1月27日(火)
変わり身のオスカル  ..No.14

ベルばらな日記 13

本当に怒濤のように日記をアップしている。
今日は3つ目だが、何も今日、書いたのではない。
書いてそのままストックしているものを溜めておくのが苦手なのだ。
宿題は早く提出したい感覚でアップしている。学生の時とは正反対である(苦笑)。


変わり身のオスカル

これは原作の話である。
以前聞いたのだが、オスカルとアンドレがツーショットになっているイラストは「オスカルが女っぽくなってしまう」ので、アンドレ抜きでオスカルが凛々しくポーズを決めているほうが人気が良い?とか商品として選ばれる?とかいう(曖昧な記憶)話がある。
さすがのオスカルもアンドレと並んでいたら、女の顔になってしまうらしい。

女性らしいオスカル、それか男性のようにりりしいオスカル、実際どっちの支持が多いのだろう?

彼女の表情やセリフは色々あれど、やはり私が見たいオスカルは女性らしい可愛い一面を思わせる所だ。
ダントツ、アンドレに頼って可愛い女になってしまった所である。

彼女は何につけ才能があるらしいので、たいていのことはこなしてしまう。
それはそれでいい。だが、その彼女がどうしようもなく恋愛感情があふれ出て、アンドレに対してネコのように甘えてしまう場面が好きだ。
「私をひとりにしないで…」な〜んてオスカルってば、甘えるとあの上がり眉まで下がってしまっているではないか?!

男性のように理性的で冷静で、その上情熱を秘めているという彼女が、突然あんな可愛い顔をしてアンドレを翻弄するのである。彼もたまらんと思う。

そう、オスカルはものすごく二面性を持っている。
男性よりりりしいオスカルというよりは、女として異性を引きつける色気を持っている部分が何とも人間ぽい。
あの、普段の金モールの軍服に身を包んでいる時からは想像できないその小悪魔のような女性の可愛らしさ、このギャップがたまらない。

私なら、きっとオスカル一人のイラストより、ラブラブの二人のイラストを購入してしまいそうだ。あ、いや、やっぱり両方買う!?


2004年1月28日(水)
細腕繁盛記  ..No.15

ベルばらな日記 14
細腕繁盛記

かたい話ばかりでたまには軽い話題など一席。

先日、温泉紹介のテレビを見ていたら、ふと昔、新珠道代さん主演の「細腕繁盛記」というテレビドラマを思い出した。
確か高島忠夫さんが板前さんの役で、若女将の加代(新珠さん)とは何とももどかしい関係だったと記憶している。

旅館の若女将と板前・・・なんてまあ「ベルばら」が入っている妄想的な関係なんだろう。そんなことを思うのは私だけだろうか・・・。

【妄想 その1】

場所は辺流彩湯(ベルサイユ)温泉。
傾きかけた実家の老舗旅館「成瀬家」(ナルセ)を再興するために、末娘の明日香はあえて都会で順調だった自分の仕事を辞め、家業を継ぐことを決意した。
しかし明日香には数々の困難が待ちかまえていたのだ。

成瀬家旅館の乗っ取りをもくろむ堀屋久(ホリヤック)旅館の女将、旅館再興に協力しない頭の固い旅館組合長の部家(ブイエ)老人、融資を拒む銀行の副支店長・熱毛留(ネツケル)。
若い彼女を認めない従業員たち、その中でも班長の荒木は特に彼女に反発していた。
なにより明日香の父である麗仁衛(レニエイ)は頑固なまでに今までのやり方を変えようとしない。
彼女を理解し、ただ一人協力してくれるのは番頭の打宮(ダグウ)のみ。

そして子供の頃から密かに明日香に思いを寄せる板前の安藤も、影になりながら彼女を支えるのであった。

だが、明日香はライバルでもある「全国リゾートホテルグループ:ブルボン」の当地ホテル「ブルボンホテル・in辺流彩湯」の支配人・阿久瀬留雄(アクセ)に淡い恋心を抱いていた。

又、その阿久瀬留雄は、グループ社長夫人の留井真理衣(ルイ・マリイ)との道ならぬ恋心に苦悩していたのであった(以前はその苦しさのあまり、アメリカの系列ホテルに転属していた事がある)。
一方、真理衣の夫である現ブルボングループの社長・留井嘉兵衛(ルイ・カヘエ)は経営者としての才覚はなく、社員達の不満があちこちで噴出していた。

この絡みに絡んだ人間関係の中で、明日香は如何にして旅館を再興していくのか?
次回「安藤・青いレモン」、お楽しみに。

(BGMは某アニメの次回予告が流れているつもり)
(注:もちろん、明日香が都会で勤めていたのはブルボングループの本部です。肩書きは最速出世で部長あたり)

【続く】

あいや、ウソです。続かない!何より旅館業界は無知な私!
もちろん、これらの登場人物・設定はあくまで架空のものであり、実在する団体・組織・人物とは全く無関係です。また、単なる相関図だけでサイドストーリーにもなりえません。

こういうネタは多分、誰でも考えつくだろうなぁ。もうどこかにあったりして。(^^)
ちゃっかり和名は前から考えていたんだけど(何のために?>私)。

だけどベルばらって、こうやって書いてみるとやっぱり人物の相関図がすばらしい!
ベルばらのドラマ性がこんなに盛り上がるのはオスカルの活躍はあれど、その基礎は、やっぱり人間関係が蜘蛛の糸のように張り巡らされている事なのだとあらためて感じている。


2004年1月30日(金)
ベルばら表現技法 前編  ..No.16

ベルばらな日記 15
ベルばら表現技法 前編

ベルばら原作の表現の特徴として、絵に華がありセリフも詩的な表現が美しいことをまず思い浮かべる。今や絵柄は古いと言われるようになったが、あの華やかな雰囲気はそうそう誰でも描けない。やはり描く人の気持ちの持ち方や生き方がにじみ出るものだと思う。
誌面の印刷ならではの表現として、詩的なものはインクのにじみすら詩的に感じる。
原作は華麗な絵柄と共に、流れるような文章が美しい。そしてそのセリフひとつひとつが少女をはげましてくれたのである。

一方、アニメ版はオリジナルの一貫した骨太なストーリーと、映画のような場面展開が美しい。こちらも同じく描く人の気持ちが入っていて、表現者として映画の手法をどん欲に取り入れられたのだろうなぁと、素人ながら感じている。
アニメは再放送で人気が出たのだが、そんな話は他の作品でもよく聞く。こういう続き物のお話は週に一度よりは毎日続けて見た方が世界観をより味わえるらしい。

この間、日記を編集しながらふと感じたのだが、「セリフと場面」について、マンガやアニメでは視覚からはいる「ビジュアル」な部分が一番印象に残ると今まで漠然と思ってきた。だけどあながちそうではないらしい。

原作では時にオスカルのセリフは独り歩きをして、それぞれに強い印象として残っている。私はその場面の絵に関係なく日常にぽろりとセリフが頭に出てくる時がある。
もしあの印象強いせりふの数々が少しでも違っていたら、その場面は記憶から抜け落ちていたのかも知れないとも思う。
やはり言葉は「言霊」と言うだけあって命があるとしみじみ感じる。

以前、人間が想いを言葉に出来なければ、豊かな感情は生まれないという話を読んだことがある。ただ少し記憶が曖昧で内容が正確でないかも知れない。(出所は講談社:現代新書あたり)
思考は言葉である、と言うこと。言葉が無ければ「死」すら「単に動かなくなるだけのことであり」恐怖の対象ではないという。

自分が絵を描いて来たためか、目に見える絵や形になった作品(感覚的なもの)に重点を置いていたので、「言葉がそんなに人を支配しているのか?」と、その時は半信半疑で読んだものだが、言われてみればこうやって何かを言葉にして思考していることが私の存在であることは間違いない。
言葉に出来ない「想い」もあるとは思うが、「言葉=人」という考えは確かにそうかも知れないと今は思う。

話はさらに大袈裟になるが、クリエイター・表現者etc・・・色々な呼び名があるが、漫画家や作家や芸術家が創作に燃えるのは「何かを産み出す・命を創る」という神の仕事に人が近づこうとする壮大な計画なのである。

なので表現者は何かを作り出すために、又は良い作品作りのために、経験や想いなどを全てを利用する。
あるいはクリエイターのみならず、人は言葉や絵や態度を利用して、コミュニケーションをし、何かを伝えて影響しあっている。
本人が気が付かなくても人は何かを産み出しながら生きている…などとも思う。

後編に続く


2004年1月30日(金)
ベルばら表現技法 後編  ..No.17

ベルばらな日記 16
ベルばら表現技法 後編

前半からの続き

かなり風呂敷を広げてしまったが、何かを作り出すというのは産みの苦しみであり、私のような凡人にはそう簡単ではないということが言いたかったのである。

実はベルばらにハマった時、大した資料が手元になく、ベルばらに関するものなら何でも欲しいのにどうして良いかわからず、大きな声では言えないのだが、自分で物語を書くしかないと思った。
自分の頭の中に確かに居る「オスカル像」を目に見える形で、現実のものにしたかったのだ。さっそく後先も考えずにせっせと書き始めた。

だがしばらく書いていても、オスカルは頭の中に確かに居るのに、具体的に話を書いていながらなぜか人物像はっきりと見えてこない。
普段のオスカルは何を考えているのか?どんな思いで近衛隊にいるのか、日常レベルでの彼女の思考そのものがよくわからない。たとえ原作やアニメの中のお気に入りのセリフを使っても、まだ足りない。
そもそも元になる物語に描かれていない場面(日常や思考)は、頭の中でも全て白紙だったのだ。
アンドレに対して、革命に対して、王室に対して、民衆に対して、その他色々とどういう風に彼女が感じているのか、セリフ以外の想いはどうだったのか、もう訳が分からず目がテンになった。

そこで初めて、自分の持っていたオスカル像が単に他人様の作った借り物であり、オスカルと名前を付けただけの表面的なものであり、同時にものすごく抽象的な存在である事に気が付いた。
私の中では彼女にはまだ人格はなく、全然生きた存在ではなかったのだ。

こんな薄っぺらいオスカルはオスカルではない。そう思ったときに、創作は「各話解説」に変わった。まずとにかく自分なりの「オスカル像」を確立する、それには彼女の足跡をたどり、自分の思考をそこに同調させ、その都度彼女の視点でものを考えてみる、それしかないと。

結果としてもし原作論やアニメ論を書くなら、頭の中だけでオスカル像を想像するだけではなくて、手始めに自分の手で彼女の人生とその考え方を具体的に書き出してみるのが確実だと感じている。
部分的なこと、たとえば三部会の議場の門を閉鎖した場面のみとか、7月12日の夜のみとかではなく、オスカルの行動と思考を長期間継続して追うのである。
そうすることによって彼女の行動パターンと思考に一貫性を持たせることが出来るのだ。

すると、それまで書いていたことは、場面場面で自分の都合の良いようにオスカルの行動パターンや思考をコロコロ変えていたり、つじつまを考えずにいたことも気が付く。
逆から言うと、その人物の行動のつじつまを合わせるためには、長いスパンの物語を書くべきだと思う。そう、しばらくそのキャラと寝食を共にするのだ。

あくまで私なりの見解だが、出来ればアントワネットの輿入れ直前あたりから、それでなくてもとりあえず衛兵隊以降でも良いが、オスカルの日常を含めて、彼女の行動や想いを文字に書き出して形にすること(もちろん、個人が独りで楽しむという前提で)、これは大切である。
私はアニメ版の場合は各話を追うこと(レビュー)が一番手っ取り早いと思った。
本当はアニメでも、ほとんど触れられていない幼年期あたりから書くと、さらに奥深くなると思う。

とまぁ、何だか偉そうに書いたが、これは自分で感じて愕然とした体験である。
物語の構築方法は人によってさまざまだろうし、そんな面倒なことをしなくても、オスカルの人格を把握できる人もいるかも知れない。
あるいは単発でショートストーリーを書き、その都度オスカルの性格設定を変えるのもひとつの「楽しみ方」だろう。
だが、もしオスカルという「人」を語る場合は、やはり一貫性のある人格として捉えたいものだ。

たとえ自分の頭の中にオスカルの存在はあっても、そのままではものすごく抽象的でまとまっていないということ。
諸問題があるのでサイドストーリーを書くことをわざわざここで推奨できないが、オスカルの思考を含めたレビューを、自分のための内部資料として作るのは是非お勧めしたい。
自分で書き出すことによって彼女にどんどん肉付けし、人格を形成するのは決して無駄ではない。私的には基本だと思っている。

で、肝心のその創作はどうなったかと言えば、とん挫した上に、ボキャ貧なのに恥ずかしい言い回しをふんだんにちりばめ、時には歴史書で勉強した堅苦しい話やルソーなどを持ち出し、とても読めたものになっておらず、修復もままならずそのままの状態で放置した。もちろん門外不出である。

今日はこれを早朝に書いた。マジでベルばらな「日記」である。


2004年1月31日(土)
タイトル二つ  ..No.18

ベルばらな日記 17
自己嫌悪・・・

昨日、早朝に書いたときはよほど勢いがあったらしく、夜になって読み返してあまりの独りよがりというか、表現が硬いわりにだらだら長いのに気が付いて、ちょっと文章を要約した。
日記なのである程度は独善的になるのは仕方ないとは思うけど、読みにくいのはいただけない。
「作品論を書くときは先入観を捨て、その世界を鳥瞰図的に見つつ登場人物の立場になったら良いのでは?」と言いたいだけのことを長く引っ張った。

ちょっとぶり返すけど、ベルばらにこだわらずオリジナルについても言えるのは、物語を作るときはまずその世界(舞台)を造って登場人物を配置して、書きたいテーマと展開を考えて(これらは順不同)、造る人は創造主として全体を考えているものだと思う。
同じように誰かの作品を語るときもその世界観を把握するのは大切なはず。

んで、作品論を書くことによって「結果として自分が何を言いたいのか」と言うことを前もってしっかり持っていた方が良いと言うこと。
でないと、勢いで書いたら「自分の本当の気持ち」がどこか自分の思いも寄らないところに行ってしまうような気がしている。
自分では過去を振り返っているつもりなのに何だか怒っているような?・・・昨日の文はそんな感じがしたのでちょっと反省。
そもそも作品論などと言う高尚なモンを私が書いているのか?とも自問する。

作品を造るにも作品を語るにも、どこかに自分の言いたいことはにじみ出ると思っている。だから自分を知った上で書くということは大事だし、作品(作品論)を書くことで自分を知ることにもなるんじゃないかなぁ。

そう言えば昨日は勢いがありすぎて朝から首の筋を違えた。
今日は起き抜けにまだ首が固まったままのためか多少謙虚め。
人間は感情の生き物なんだなあ(苦笑)。




ベルばらな日記 18
補正のためのフリートーク

少し前に前後編で日記を書いたら、このレンタル日記が勝手に付けている番号とずれてしまった。訂正時に間違いそうなので補正する。

今日は土曜日で、先週まではアニメ版ベルばらを放送していた。
それなりに長い期間の放送だった。週一回のペースだったけど、今回の放送で新たなファンが増えていたら良いなぁ。

ところでこの土曜の朝というのはどうなんだろう?
一般の会社や学校はお休みだし、ゆっくり寝ていたい時間帯だろうに・・・。
毎回タイマーをセットするのも面倒だし、ベルばらを見ようと早起きするのも大変だったかも。

今回は私はなかなか見られなくてよくわからないけれど、ベルばらの前後にあるアニメ作品が結構、ほのぼのしていそうで好感が持てた。
よもやベルばら目的で見ていながら、そっちにはまったベルばらファンがいるんじゃないかなと思う。(^_^;)<よくある話です・・・。


2004年2月2日(月)
ベルばらな日記 19  ..No.19


ベルばらな日記 19
大河ドラマなベルばら

先日、頂いたメールに書かれていた話題である。
(○iさん、ありがとうございました!)

大河ドラマでベルばら、というのは私も某所で聞いたことがある。
すぐにオスカルを主人公に置き換えてしまったので、どこかピンとこないなぁと思って聞いていた。
後で思えばアントワネットが主人公ならいいかも?などとすぐに思い直した。

大河ドラマのデータベースサイトを見たところ、主人公は日本の歴史に関わった有名な男性が多い。まず老若男女全般を対象として楽しめる物語と主人公が選ばれるものだろう。
世代に関係なく共感できる人生というと、やはり歴史を背景とした有名人の立身出世話や、知恵のある人物の前向きな世渡り物語や群像物などになる。

一年という長い放送期間の中で人生が描かれるので、元々、歴史の表舞台から一歩引いているオスカルは元々自身のエピソードが少ない上に、長生きしていないので語られる要素があまりない。
ついでにベルばらは途中何年かの期間がポーンと飛んでいるので、その穴埋めの脚本が大変そうだ。
それでなくても確かにオスカルみたいに若い独身女性の立身出世?の話って、特に世の男性たちに支持されるものなのか?少し疑問である。

ジャンヌのように地の底からド根性ではい上がって来た女性なら共感も得られそう(ついでに色気もある)だが、オスカルは低い地位から努力して上り詰めたと言うよりは、生活仕事共に元々優遇されている。日本人の好きな「根性」や「努力」というものは彼女の場合それほど表面だって目立っていない。
又、結婚・子育て等の経験をせずに若くして亡くなっているので、女性の比較的高い世代から見ても、人生の半分ぐらいしか語っていないと感じられるかも知れない。

それでなくとも、男として育てられた苦労、そして意義や喜びというものは、物語としては面白いが、やはりフィクションとしての色が濃いのかも知れない。

だからと言ってここで独身女性を半人前に扱っているつもりはないし、立派に生きている独身女性は多いと思うのだが、まだまだ世間では女性の扱いがぞんざいなのかも知れないと、突然こんな所で斜に構えてジェンダーを感じたりしている。
が、冷静に考えれば、大河ドラマで人生を語られることが、人にとって最高の名誉かといえばそうではない。

ベルばらの物語の中でストーリーテラーの役をしていたオスカルは、革命の直前に至るまでは「物語を見つめる傍観者の目線」のポジションにいる。
歴史的な出来事やその他フィクションはたいていがアントワネットを中心に起きており、アントワネットなら歴史上有名な人物でもあり、大河ドラマで立派に主役を張れそうだ。

そう思えば、やはり「ベルサイユのばら」はアントワネットが主役だったのだなぁと感じさせられる。

まぁ、どんなキャスティングになるねん・・・という段階で実現性は薄そうだが・・・。
どうせなら○HKさん、海外版大河ドラマなんて作りません?(^^)

さて、オスカルを主役にするならどちらかと言えばやっぱり映画が良いと思う。
ベルばらを2〜3時間に凝縮するのはかなりきつそうだが、オスカルが物語るところの、たとえば「自由・自立」というものは、一年という長い話ではなく、短い時間の中で効果的に使う方が間のびしないでいいだろう。

アニメで作るならR指定のOVAという所だろうか。
いずれにしても夜中に家人に隠れてコソコソ見なくてはいけないのが難点である。
えっ?どんな作品を期待しているのだろう、私は・・・。(^_^;)


2004年2月4日(水)
トリビアの田島さん  ..No.20
ベルばらな日記 20

トリビアの田島さん

さっきトリビアの泉という番組で「ベルサイユのばらの舞台のパリの町はう○こだらけだった」というトリビアが取り上げられていた。
事実自体は聞いたことがあるのでそれはともかくとして、たまげたのは再現マンガ。

原作の中から色々な場面の絵を抜粋して、オスカルとアンドレがパリを歩いていると、どこからともなく臭い臭いがしてきて「うっぷ」となるオスカルに、「コレは糞尿のニオイ」だと説明するアンドレ。
だが、オスカルは「知っている、これがパリのニオイだ」と高笑い・・・という短いものながら、腸がねじれるほど爆笑した。

そんなん、声が聞こえたとたん、「田島さんやん!」とわかったし、アニメのオスカルがオーバーラップしてしまった。それにアンドレも志垣さんが!!
なんつー、セリフしゃべってるんですか、お二人とも!?
原作・・・にしてもイメージが違うが、アニメ版の比較的感情出さないオスカルが

「臭くて臭くてたまらないなぁ〜アンドレ!(爆笑)」

だなどと、どう考えてもギャップがありすぎですよ、田島さん・・・。

よもや田島さんの声でこのようなシモネタモドキを聞くことになるとは思わなんだ。長い間、ファンをやっていると色んな場面に遭遇するなぁ。
そう言えば田島さん、ちょっと低めの声に設定してあったなぁ。(^^)
それにアンドレもすっとぼけてたし。こんなベルばらだったら二人とも死ななかっただろうなぁ(しみじみ・・)。

後で池田さんの(無理をお願いして、らしい)了承も得たという解説と、田島さんと志垣さんの声の出演という解説でぶり返してふたたび爆笑した。

池田さん、前もってこのセリフをご存じの上でOK出されたのかなぁ。
どんなお気持ちだったんだろう。
だけど私は・・・はぁ〜、久しぶりに爆笑したわ(涙)。

それにしてもこのネタで笑える私って・・・。

ああ・・・ビデオにとっておくんだった・・・激しく後悔。(T_T)