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2004年2月5日(木)
トリビアの田島さん その2  ..No.21

ベルばらな日記 21

トリビアの田島さん その2

昨日は久々のベルばらネタで爆笑しました(突然ていねい語)。
だけど、こういうのをお好きじゃないファンの方もいらっしゃるのだし、見てショックを受けた人も当然いらっしゃるのでしょうね。

ベルばらという作品だけあって華麗で気高くて美しいイメージと、オスカルとアンドレの美しい愛の物語に「う○こ」とは・・・トホホ・・・ちょっと情けないかも。

私なんて、あまりのアホらしさにお腹をかかえて爆笑したけれど、自分のイメージが壊されたとか、他の人に「ベルサイユのばら」という作品が誤解されるんじゃないかということも含めて、マジで真っ青になったファンの気持ちも同時にわかりました。
悲しい気持ちになられた方には大変お気の毒だと思います。

だけど私としてはあの紹介のされ方は悲観していません。(^^)
まずMCコミックが出てきたときに、出演者の人が男女を問わず「あっ、べるばら」と叫んだときに、なんて知名度が高いんだろうとそれがヒジョーに嬉しかったです。

まず、今でも紹介されるほど有名で、よもや無視されて忘れ去られる作品ではないと言うこと。
それと、あの番組自体がウケ狙いのパロディであることを知って、視聴者が見ている可能性が高いであろうこと。
それから、少なくとも、正しいベルばらのあらすじを知っている視聴者が家族に弁明&説明したであろうこと。
で、こういうサイトを持っている立場として、ベルばらがどんな作品かをコンテンツや掲示板や日記なとであらためて紹介できる機会であるということ(気のせいか昨日はこんな小さいサイトなのにカウンターが結構回っていた)。

それと、無理矢理この内容を了承された池田先生が、単なるパロディで作品の品質が損なわれるはずがないと言う毅然とした態度を持って、なおかつジョークとして、笑って承諾されたのかも知れないとしたら、……なんてお茶目な先生なんだろう!!
これからは親しみを込めて理代子先生と呼ばせていただこうかなぁ?と思ったこと。

と、良いことばかり考えてしまいました。

ベルばらに関するショックで一つ思い出したんですが、私の場合、今でも覚えているのは、連載の途中か終わって直後に姉から聞いた、「オスカルは33歳で死んだ」ということです。
当時、小学生の私にとって33歳の女性とは母親に等しい年齢でした。

かっこいいお姉さんだと思っていたオスカルが「うちのおかーさん」とあんまし変わらんと知ったときはめちゃくちゃショックでした。
マジでおかーさんとオスカルがダブッた時は、あまりのリアルさに呆然としたものです。
私にすれば昨日のう○こどころじゃないショックでした。

今から思い起こすとあまりに幼くて苦笑モノだけど、当時の小学生から見た33歳=母親という年齢認識はそんな感じでした。
今の33歳と言えば颯爽とした女性のイメージもあるし、今の小学生の人たちから見ても、当時の33歳とはイメージは違うのでしょうね(と、願いたい)。

で、最後に私も情報発信者としてこの場で弁明しておきます。

ベルばらは愛と怒濤の歴史が織りなす感動的な物語です。決してシモネタではありませんよ〜!


2004年2月11日(水)
夏の夜空  ..No.22
ベルばらな日記 22
夏の夜空

学生の頃、友人たちが起こした天文同好会に入っていた。当時は友達同士のおきらくな会だったが、今は科学部になって「部」に昇格しているらしい。
文化祭ではミニプラネタリウムの説明員をしていたせいか、おかげで今でも星座はなんとなくわかる。

先日、期間限定の天体フリーソフトを引いて来たのだが、気になるところ、1789年の7月12日のパリはどんな星空だったのだろう。

まず1789年7月12日は日曜日である。
今の感覚で言えば、日曜に自宅待機していたところ、召集がかかったという感じ。
天体の実況をしてみると、さすがに天候は知らないが、夏の夜空なので天の川はばっちり見えている。
月が東の空に昇ってくるのが午後11時頃で、かなり遅めである。大きさは満月と半月の中間ぐらい。月齢は10という所か?まあまあ明るいだろう。

月のすぐ上には「秋の大四辺形」と呼ばれるペガサス座が上がってくることになる。
そのころには東の空高くには白鳥座が大きな羽を広げて天の川を渡すように十字でまたたいているだろう。
ちなみにこの白鳥座のデネブは「夏の大三角」のひとつとしても有名である。
ところでベルばらで有名な双子座は太陽と共に西の空に沈んでしまっていて見えない。

オスカル達が屋敷を出たのが夕刻なので、森に逃げ込んだのは日没前後だっただろう。
日没の時間がこのソフトではわからないが、見た目の感じでは午後8時50分ぐらい。
つまり夜の9時前に夕焼けってことかいなぁ?(?_?)

え〜〜っと、多分、緯度が高いと夏の日没が遅い…という理屈だったかどうか、なにぶんうろ覚え。日没時間の調査は今後の課題だ。(大げさな・・・)
そう言えばパリは日本より緯度が高い(札幌より北)しなぁ。
すると北極星の高さは西日本よりかなり高いはずだなぁ・・・ブツブツ。
それとこの天体シミュレーションはサマータイムでの計算ではないので、単純に現代の現地時間で、ということになっている。

このシミュレーション通りに行くと、日没後、暗い夜道を音も立てずにコソコソとパリへと向かう二人が森の中、蛍が舞う湖の淵であれこれ問答の後でホニャララしたとすると、月明かりのない真っ暗闇の中でという事になる。
もし月明かりをたよりにするには11時まで待たなければならないが、9時頃の日没が合っていればだいたい成り行きで11時頃というのもおかしくない。

まぁ、こーゆー事は明るくなければいけないって事もないから余計なお世話なのだけれど?!

さて、翌日13日の夜明けはシミュレーションでは午前5時頃。二人はあまり睡眠を取っていない。まぁ、これもいらぬ世話。
それを思うと、アンドレが撃たれたのも日没直前なので、日本時間の感覚よりはかなり遅い時間だったと言うことになる。

もう少し別のソフトも開拓して、日没や月年齢その他の天体の動きなども今後、気が向けば調べてみたい。
ちなみにこのソフト以外に別のものも引いてきたのだが、同じ日付でも星の位置が微妙に違う。観測位置などが少しずれている事もあるが、私が使いこなせていない可能性もある。

ちょっと信用おけない観測実況だが、夜空と歴史の関係ってなかなかロマンチックな世界だ。
歴史とは別だが、占星術などで人の運命と星の位置を色々と調べたら面白いのではないかと思う。まぁ、星に関する占いは知らないので勝手に言っている。(ま、ベルばら自体が架空の話なんだけど^^;)

日没が意外と遅かったり、月の位置や大きさなどもオタクとしては良いネタだなぁと密かに思う。特にアニメ版では天候が演出に使われているので、そのあたりと照らし合わせるとムズムズっと妄想心がうごめく。

リアルタイムの現代の日本ではこの寒い時期、午後8時ごろには双子座がほぼ天頂にある。寒いが観測には絶好の機会である。
又、今はフリーソフトで星の動きや月や太陽の動き、その他色々とすぐに手に入る。
なかなか気持ちに余裕がないと星空などは眺められないが、ちょっと息抜きに星空ソフトはおすすめである。

2004年2月13日(金)
星と歴史  ..No.23
ベルばらな日記 23

星と歴史

11日の日記で7月13日の日の出時間を6時にしていたが5時の間違いでした。
元のは慎んで訂正しました。(^_^;)


あれから気分転換に星座ソフトで遊んでいるが、天体というものは日々移り変わって面白い。
たとえばアニメ版の38話「運命の扉の前で」の冒頭、7月13日の夜明けにオスカルたちが馬でパリの衛兵隊に向かう時に、夜明けの光の中にひときわ明るい星が輝いている。
これは演出のためだろうが、実際、この日の夜明け前に火星が太陽より少し早く、東の空に上ってくる。

あの輝く星はマジで火星そのものなのである。
火星は戦いを意味する星で、この時、牡牛座に入っている。占星術は知らないがちょうど革命の直前ということもあり、占いの世界では何か意味があるのかも知れない。

私がもし歴史の物語を書くとしたら、この星(天体)の運行は是非取り入れたいと思っている。
歴史もそうだが、星の動きも時を刻んでいる。
遙かな過去を想う時に、歴史と星の動きは連動しているという事実が、自然の不思議と歴史のスケールの大きさを引き立ててくれるのだ。それを視覚で見せてくれる天体ソフトはなかなかイケている。

個人的な趣味で、地球規模で災害が起こり古代大陸が沈んだと言われる12000年前とか、はるか10万年前とかへ行ってみるのも楽しい。
あまりに過去にさかのぼると、北極星が今とは違っていたり、星座の形も今とはかなり違う。まさに悠久の時とはこの事だろう。

オスカルの言う「人間が長い間くりかえしてきた生の営み」も星の時間に比べると、ほんのまたたきにしか過ぎない。限られた時は貴重なのに、その存在は非常に小さいのである。
だから人は一瞬でも星のようにきらめいていたいものなのかも知れない。(ぬぁ〜んちゃって!)

ついでにオスカルの誕生日の星空も調べてみた。
1755年の12月25日、日の出は午前8時50分頃。日の入りは午後5時頃。日が短い時期でもあり、これはかなり昼が短い。
アニメでは嵐の中で生まれていたが、夜明けなのか日没後なのかはよくわからない。
今で言うと会社に出勤して始業寸前に夜明け、そして終業と同時に日が沈む。何だか不思議な感覚だ。

この日、オスカルの星座である山羊座に一番近くに位置している惑星は土星。土星は「サターン」とも言い、農業の神であると同時に山羊座の支配星でもある。
ひょっとしてオスカルは革命後に生きていたら、追っ手を逃れて地方へ行き、アンドレと農家を営んでいたのだろうか……などと考えてみる。
また土星は我慢強さや正義感なども意味しているとか?

この調子でベルばらのキャラの生まれた日を調べていくと日記のネタになる!という下心もあるのだが欲を出すときりがない。それは又いつか後日の楽しみにしておく。

人の一生が星に導かれているかどうかはわからないが、一瞬先は闇という人生、人は運命や宿命というものに惹かれる。
そのことを星が知っているかどうかは永遠の謎でもあるのだが?

2004年3月7日(日)
日記って……  ..No.24

ベルばらな日記 24

しばらく日常のことで精一杯でここの日記も放置したままになっていた。
更新しないときはこんなものだが、ネタをある程度仕上げたまま放置しているのは居心地がよくない。

だけど文章をまとめてアップする作業は波に乗るとテンポよく進むが、一度離れてしまうと感覚を取り戻すまでがとてもおっくうになる。

特にこの「べるばらな日記」はその日一日や日常での自分の気持ちを吐き出すためという性質のものではない。
ちょっとでもベルばらに関する話題を取り上げて、色々と考えて最後にオチをつけようと欲張るものだから、場合によるとすぐに仕上がらない。
オチもなくとりとめもなく書くときもあるが、私の場合、そうなるととてつもなく長くなる。

ただこうやって書いていると思うのだが、色々と浮かぶ思考を文字にしていくと、結果として何が言いたいのかをしっかり把握していないと的がはずれてしまいそうになる。

いつもは書きながら結果を考えるものだからその「過程」を書き出すだけで長くなるのだ。
なので結果として私の文章はどのみち長い。
短くするのは毎度ながらの課題である。

↑反省しているのだろうか、私?

2004年3月7日(日)
従わない女 1  ..No.25

ベルばらな日記 25

オスカル亡き後、ジャルジェ家はどうなったのかということはファンにも大変気になる部分だ。
これは原作やアニメ版に限らず同じ事が言える。
解説等で前述した内容とダブるが、ふと今も色々考える。

日記形式や追憶形式、仮定形式(オスカルが生き続けている場合)など、革命後のベルばらの世界はどんな風にも想像出来そうだが、原作ではジャルジェ将軍が牢獄のアントワネットを訪ねる場面があり、あれにはホッとしたものだ。
王室に背いてバスティーユ攻撃に参加したオスカルが戦死したせいか、ジャルジェ家は罪を問われなかったらしい。
だがオスカルという謀反人を出したジャルジェ家が、そのまま存続していたのは誰のおかげだろうか?と誰しも考えるのは当然だろう。

オスカルという人の死を経て、残された人々のさまざまな思いはいかほどかと時々考える。
誰しも自分の人生の主人公である。色々な立場で物語は成り立ちうる。
特にジャルジェ父。思いつき?でオスカルを跡継ぎにすると言った責任は重い。
そもそもオスカルの運命を大きく決定したのは彼である。

また、途中でオスカルに対して貴婦人になって子供を産めというのもあまりに身勝手な話で、確かに親のエゴはわかるが、こうなることははじめから読めていただろうに?ということは誰しも思うことだろう。
だが、この短絡的で後先を考えないエゴこそが「オスカルが男として育てられる」という大事な設定なのであるが、オスカルは男として育ったおかげで、父からどんどん考えも行動もはずれていき、最終的には裏切ることになるのだ。

女ながら男として育つという設定は、男女の関係のあれこれを問題定義するに当たっては非常に面白い。
オスカルが社会的に優位に立つことで見えてくる性差の問題。
性別による違いとしての「差」や「能力」に対して、優劣を付けてどちらか一方の価値を過小評価する事など。
むしろオスカルが「性差」の問題を見る(体験する)と言うよりは、読者が女性の性差に気付くと言ったほうがわかりやすい。

オスカルを通して見えてくるもの。
男でなければ社会では認められないという現実、さらに社会やルールはたいていの場合、家長である男性が決めていくことで、女性は従者になる場合が多いと言うことに気付かされる(それを思うと、アントワネットの母・マリア・テレジアの存在も貴重)。
また女性同士でも母親と娘の関係のように、上下関係が存在する。アントワネットやシャルロットも母親の支配下にいた。

その昔、読者だった少女にすれば大人の世界そのものが自分を支配する巨大な存在だった。ベルばらを読んで得た知識や教訓はさぞ大きかっただろう。そして当時シャルロットに同情した少女が、近頃ベルばらを読み返してポリニャック夫人に共感して苦笑するという事も大いにありうる。

関係ないが、オスカルに限って言うと母親の支配からは解放されている。どちらかというと母親を保護する立場にいるオスカルは、あくまで父と対立するのだ。
結果としてオスカルと衝突しなかったジャルジェ夫人という母親の存在。時には夫すらかなわないかも知れない、ベルばらの中で最強?の心優しい女性。
「従わない女」オスカルが対立せずに共生していた(唯一従っていた?)母親こそ、もしかして「もうひとりのオスカル」なのかも?とも思う。←我ながらとんでもない仮説だ。

オスカルはまさに生まれたとたん父に従わされ、そのことがやがて「従わない女」を形作っていくという逆説。
オスカルらしいという部分で言うと、最終的に自分の運命を操っていた父を裏切る、もしくは「父に従わない」という図式は当然の結果なのかも知れない。

それだけではなく、オスカルは第三者の目として体制を客観的に見、不当なものに対して「従わない」という自由な立場で動いていた。
原作においては、当時の風潮に「反発する」という、女性に向けた隠れメッセージが有ったとも思っている。

今となって、では?と色々思う。何かに従わないと言うのは、元々「何か」があり、それに対する否定である。誰かの「自発」に対する反発(受け身)でもある。
ではオスカル自身が自発的に何を信じ、そして何を肯定し、自分の心のおもむくままどのような信条に「従って」いたのか?

自分の心を信じて従うというのは確かだが、それだけではかなり曖昧だ。
その自分の心とはどんなものだったのか、具体的には何を思い、日常はどういう「心」だったのだろうとふと思う。
当然、作中で語られなかったことはファンの想像力にゆだねられている事ではあるが、ファンと言ってもオスカルというキャラクターの捉え方は千差万別である。一言では説明しにくい。

「自由・平等・友愛」という崇高な理念がオスカルの望みだったのかも知れないが、これを掲げたのはそもそもは民衆である。オスカルがそれらを心の底から必要と感じ、自発的にのどの奥から絞り出してきた言葉ではない。貴族のオスカルには「自由・平等・友愛」よりも勝る「特権」があったのだから、平民たちの熱望を考えれば現実的に見てオスカルは蚊帳の外である。
これはアニメ版でオスカルが民衆による革命の輪からどんどん外れてきたことでもよくわかる。

こう書くとまるでお前はファンか?と言う声が聞こえて来そうだが、これらはあくまで私の考えの中でのオスカルを見つけだす過程の「迷える思考&試行錯誤」である。つぶやきがたまたま聞こえた程度に思っていただきたい。

2004年3月7日(日)
従わない女 2  ..No.26

ベルばらな日記 26

文が長くなったので前項の続きである。

又、もし仮に彼女の想いが「自由・平等・友愛」というものだったとしても、それだけではかなり抽象的である。
もちろん、それは正しいかも知れないが、人というものは色々なことにまで思考が及ぶ。
周囲の人々に対する彼女の想いなども、今さらながら知りたいものである。30年前に戻る事が出来たら、理代子先生に是非書き足して下さい〜!とおねだりしてみたい。

同じことだが、過去にアニメ版に不満を感じていたのは原作からかなり違った物語になったという以外に、「原作の筋運びとオスカルの性格設定」はそのままでさらに「オスカルの細かい心理描写や想い」を付け加えて欲しかったのに、という部分がある。

今となっては元祖ベルばらの存在が大きすぎて、続編や原作者によるリメイクすら難しいのかも知れないが、過去にさかのぼらなくても、今の理代子先生の感覚で、漫画でなくてもよいので小説等で、ベルばらを再び描いてくださったらいいのになぁとも思っている。
もちろん、そうなったときにオスカルの性格設定その他が変わっていても仕方ないという覚悟はある。

さて、話が長くなったが、ここで結果というにはお粗末な論理過程と強引なオチだが、私としては、原作について言うと、オスカルの「自発」とは、ストーリーの表で起きた事象(オスカルの行動やセリフそのもの)ではなく、その裏に潜む「当時の風潮に疑問を持て!流されるな!何の疑問も持たずに従うな!自分の足で立て!」というサブリミナルなメッセージなのではないかと思う。

なんだか三段論法などと言うよりは、助走も無しにいきなり棒高跳びをしたような結果になってしまった。


*********************


ちなみにアニメではそのサブリミナルな部分がすっぽり抜けている(笑)。
オスカル自身が「従う・従わない」ということがテーマなのではなく、現実的な人と人とのつながりとは何かを、オスカルが地道に考えて動いていったという感じだ。
女性へのメッセージと言うよりは「人として生きるとは?」という性別不問のメッセージに入れ替わっているように見える。

まず話の流れからしてアニメのオスカルは「自由・平等・友愛」を掲げない。
革命に民衆に寝返る時も、その理屈はあまり語られない。多分このテーマのすり替えと、さらにサブリミナルな「従うな効果」がうち消された事は原作ファンに取ってはキツイだろう。ご承知の「従う発言」でガックリした原作ファンも多いかと思われる。

オスカルは世の中の慣例に従わないぞ!という刷り込みを持っているファンにとっては、永遠に目の上のたんこぶのようなセリフになっているかも知れない。
まぁ、自分の経験で勝手な推測を書いているので、別の理由で「従う発言」を認められないファンも当然いらっしゃるにちがいないのだが。

私としてはアニメ版のオスカルが「従わなかった」ものは、具体的に描かれていたと思っている。
たとえば歴史と自分自身を見つめる彼女が、体制に流されないという意志を持っていたことや、その時代に生きる人間としていかに理性的に振る舞い、正しい判断を常に取ろうと努力していたかという事。
そういう部分は抽象的ではなく、この私の贔屓目もかなり入っているとは言うものの、少なく見積もっても具体的に「従わない女」として描いてあったと思う。

そして、アニメ後半に消えたジャルジェ母。これはアニメ版のオスカルのキャラが母親とダブったせいだと思っているが、原作でも一目をおかれていたジャルジェ夫人とオスカルがダブルというのは興味深い。
「母性」というものを何度も持ち出したくはないか(がしかし、この言葉を使うと説明がサマになるという万能用語でもある)、「強い母性」というのもがそもそもベルばらの根底にはあるのかも知れない。

だがこれでわかるようにベルばらというお話はオスカルの性格を変えてしまっても、さまざまな人間関係、そして歴史というしっかりした背景を持つ性格上、充分物語として成り立つ(何度も言ってるのでクドいが)。

しかしテーマの違いが原作とアニメの作風を変えたのだと思うが、結果としてオスカルという名前を持つ以上、原作に従い、今後リメイクされたとしても残念ながらバスティーユで絶命するという運命からは逃れられないだろうと思っている。

ファンもここでオスカルが死ななければ…と願いつつ、ここで死なないオスカルを正規のオスカルと認められないものではないかと思う。
革命後も生き延びる彼女はファンの妄想世界の中だけなのかも知れない。

ただし、実写の映画版だけは彼女はその運命の輪からはずれたらしい。
新しい世界に一人放り込まれ、生きつづけるという運命を背負ってしまった彼女の未来をどう思い描いていいのか戸惑う視聴者に問いかけるラストは印象的だ。

さて、こうやって色々なベルばらの世界を並べてみると、やはり原作は読者を意識した造りになっていると感じている。ちょっと大げさに見えるポーズや詩的な言葉の言い回し、見所満載の名場面。
ちょうどお芝居のように、観客を意識した「舞台に作られた世界を見せる」ための作り方をしてあるように思うのだ。
アニメ版でどこかキャラクターとの距離感を感じるのは、その造りが「お芝居」の形式ではなく、リアルな描写で視聴者をその世界に引き込むような映画的な見せ方だったということではないだろうか。

原作とアニメ版。同じような二次元のキャラでありながら、色々と考えてみればみるほどその違いは大きい。

2004年3月18日(木)
「その時、日本で歴史は動いた!」  ..No.27


ベルばらな日記 27

西暦1789年あたりの時代の話にはなぜか敏感になってしまうのはベルばらのおかげなのだろうか。
たまたま通りががった兵庫県淡路島の五色町「ウェルネスパーク五色・高田屋嘉兵衛公園」にて拾ってきたお話です。

この五色町には1769年(明和6年)に生まれた「高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)」という人物がいました。
1769年はベルばらで言うと、アントワネットにルイ15世から正式に結婚の申し込みがあった年です。

貧しい農家の長男だった嘉兵衛はやがて才能を発揮、日本海航路の回船問屋として活躍することになります。
しかしちょうとその頃、日本はロシアとの通商交渉がこじれ、ロシア船の船長ゴローニンが幕府に捕らえられました。

たまたま通りがかった嘉兵衛はとばっちりでロシア船の副船長のリコルドに捕らえられ、カムチャッカへ連行されてしまいます。
しかし逆境にも言葉の壁にもめげずリコルドと信頼関係を築き、やがてゴローニン釈放と両国の和解を成し遂げます。
その後、彼は淡路島の発展のために生涯を捧げ、1827年(文政10年)に亡くなりました。

普通、囚われの身になったら捨て鉢になるか弱気になるかだと思うけれど、どっこい単身で大国ロシアとの交渉をまとめて平和に解決したなんて、なかなか出来ることではないでしょう。嘉兵衛なる男はただ者ではりあませぬ。

ベルばらとは全然関係ないのだけれど、フランス革命の同時期に日本でも歴史が動き、後世に名を残すような人が活躍していたのだなぁという(よく考えれば当たり前の事ながら)感慨深い想いで公園を散策しました。
また、嘉兵衛は司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」の主人公としても描かれています。
残念ながらこの本はまだ未見ですが、高田屋嘉兵衛公園のパンフレットには「今でも世界のどんな舞台でも通用できる人」と司馬さんが称えています、との事。
色々と学ぶことは多そうです。

高田屋嘉兵衛を偲ぶ施設は高田屋嘉兵衛公園周辺にあります。観光に訪れた際は是非お立ち寄り下さい。温泉やレストラン、宿泊施設も有り。コイにエサもやれます。(^^) 
3月は菜の花があちこちに咲いてとてもきれいです。
ちなみにこの五色町・都志の港には風力発電の大きな風車がブオンブオンとうなりを上げて回っています。波止はトイレ完備の良い釣り場になっていました(ゴミは持ち帰ってね)。

2004年3月19日(金)
好きと執着の間に その1  ..No.28
ベルばらな日記 28


日記と称して書いているが自問自答の部分が多く、内容がベルばらそのものから外れていることもある。
自分としてはベルばらを語る側面のようなものを書いているつもりで続けているが、不意にこんな辺境のサイトをたまたま見に来られた方にはお手数だが、つまらないところは無視してどんどん飛ばしてもらったらいいと思っている。
だが興味のない部分をスクロールしていくうちに、動体視力で瞬間的に「気になる記述」が中には見あたるかも知れない。それが何かの出会いであり「ご縁」だと思う。


アニメ版を見て再度「ベルばら」にはまってからもうかなりの年月になる。
毎日ベルばらのことを考えて過ごしてきたわけではないが、今も「べるばら」と聞くと他人事ではないように思える。

インターネットが普及し始め、サイトを立ち上げる気になった時、ちょうどコンテンツとしてまとまっているのがベルばらだった。
自分なりに語りがいのある作品であり、何かの形にして残したい作品でもあり、色々とアップしていくのが楽しくて今も相変わらずコンテンツを充実させ続けているが、冷静に見て、マンガやアニメ、その他等で好きな作品はベルばらだけかと言われるとそうではない。他にも色々とある。

今はベルばらに対して、昔のように「原作」に燃えてただ熱くなったという感情ではない。
自分にとってベルばらがどんな作品なのか、どういうところが好きなのか、かなり客観的に見ているつもりだ(あくまでつもり^^;)。
また当時のように急がず、ゆっくりと時間をかけて、私にとってのベルばらを徐々に理解し続けているとも思っている。

色々語ってきたが、いまだに最深部には到達できないと思うほどベルばらは奥が深い(と、ファンとして信じている)。
もちろんそれは作品自体がすばらしいからだ!とファンなら理屈抜きできっぱり言えるだろう。
なので、ファンとしては情報発信の場としてこれは良い作品だと主張するために、良い面をクローズアップしたり分析を続けていけばいいのである。

ただ自分としては作品への愛やこだわりという次元ばかりでベルばらファンをしているのではない。
今もベルばらに魅力を感じているのは、作品に感銘した事のみならず、むしろ自分がどうしてベルばらに惹かれたのか、その気持ちはどうしてなのかを知りたいという気持ちがある。

つまりこのサイトの一部は、自分の内面に向けてのアプローチであり、ベルばらという作品を通じて自己の探求をしている…といった、私個人のインナートリップの世界である。
なので、興味を持ってここをご覧になって下さる方に対しては、このような自己満足なサイトによくぞお立ち寄り下さっているものだと思っている。
m(_ _)m


この間の日記に、好きでいるためにはそれなりのパワーがいると書いたが、自分はどうやってパワーを継続させているのか、時々考える。
私は「ベルばら」という名の付くものはたいてい見て楽しむことが出来る。
拒絶反応は・・・今のところ無いと思う。
あの有名な小説版も正直言うと、最初読んだときはのけぞったが別にだからどうと言うこともない。どれも原作とは別物。別バージョン作品といて楽しめたらいいじゃないか?という風に割り切っている。「ベツばら」とはこの事だ。

なので、原作以外のメディアの「ベルばら」が批判されているのを見ると悲しく思い、心中穏やかではいられない時もあった。

問題はココである。

心中穏やかでいられないと人はたいてい怒りのパワーが出てくる。
このパワーをベルばらを好きでいるための原動力にするのは怖いな…と、ある日ふと気が付いたのだ。

たとえば、否定に対して否定を返したりするのは確かに燃えるだろう。そしてベルばらで私はこんなに燃えることが出来るという喜びも湧いてくる。
だがこれこそ終わりのない連鎖になる可能性がある。怒る→燃える→怒る→燃える→これではいつも怒っていなければならない。そのうち口角が下がって人相も悪くなりそうだ。

その2に続く

2004年3月19日(金)
好きと執着の間に その2  ..No.29
ベルばらな日記 29


また、ベルばらの話に限らないが、何かを好きで居続けるために「怒るネタ」を探したり、自分を燃やしてくれそうな敵を探すのは…私としては…虚しい。
それにベルばらの他に楽しいことがないからファンを続けているようになったら、多分、私はベルばらで楽しもうという意欲はなくなってしまっているだろう。

ベルばらにしがみつくだけのファンになれば、もうそれは「好き」ではなく「執着」になってしまう。
もし自分がそうなったときに、ちゃんと自分で気が付いてファンをやめる冷静さを持っていたいものだと思う。
「好きで居続ける」ことと、「執着」の違いも自分で把握しておきたい。

だが、「好き」と「執着」の違いを見つめるのも難しい。
何事にも、自分の居心地がよいとか、捨てがたい立場というものがある。
ベルばらに関する自分のポジションが居心地良ければ、執着してしまうかも知れない。
又、心の中で育てたmyオスカル像がいつしか自分の自我の一部になってしまったら、追い出すことは難しい。
気持ちを前向きに、心を楽しくさせてくれる「心の支え」としてオスカルが存在しているのならいいが、それなくして生きていけないほど依存したり、他人のオスカル像を認められなくなるとかえって色々と心が苦しいだろう。

それも元々は「好き」だったのだ。好きと執着の境界線はものすごく曖昧だ。
私もこうやって自分で問題定義しておきながら、境界線がわからなくなってきている。
まず「好きという感情」と「執着という行動」を横並びにして比較する事自体が混乱の元とも言えそうだ。
そもそも「好き・執着」というものを「感情」や「行動」に分類してしまうのもどうかと思う。
ああ、これこそ自問自答でありながら超あいまいな定義?!

……まぁ、こういうことは真剣に考えることでもないかも知れない。

「好きと執着」の違いをうまく語れなくて、自分でも今ひとつ歯切れが良くないが、ひょっとして執着しつつ楽しむ方法もあるのかも知れない。他人に迷惑をかけなければ執着することも各自の自由だ。
反対に好きだから何をやっても許されるかと言えばそうではない。

全ては心の余裕次第である。

それを思えば、好きと執着はあまり変わらないのかも知れない。はぁ、これでは結論にもならない。トホホ。

余談だが、ベルばらのファンになって気付かされたことがある。
作品を語るときは、「好きだ」という気持ちを込めるのが一番気持ちいいと言うこと。
ファンはたった独りだけでもなれるが、こうやってサイトで情報を発信している以上、様々なこだわりを持った、たくさんのファンの存在を無視することは出来ない。
「好き」を発信しても「嫌い」を発信しても、いつかそれはボールのように跳ね返ってくる。「嫌いボール」はぶつけた相手も痛いが、自分に返ってくるとさらに痛い。

きれい事かも知れないが、怒りや負ののパワーも使い方によっては良い方向へ転換できるのではないかと言うこと。まだまだそんな悟りきった心境にはなれないが、不可能では無いと頭では思っている。


以上・・・多少、暗い気分の時に書いた内容なので、何かを吐き出してすっきりしたい気分だったのかも知れない。
が、かえってとりとめが無くなってしまった。結局すっきりしないなぁ。(^^;)

2004年3月23日(火)
ベルばらな星座 2  ..No.30
ベルばらな日記 30

べるばらな星座:近いうちにネタ一挙公開・・・かも?

前回「星と歴史」という日記を書いたのですが、はっきり言ってその続編です。
そのうちネタにするかも?なんて言いながらさっそくネタに。
どうも重い話が多いので軽いネタしてみました。

この天体観測ソフトはお試し期間内じゃないと18世紀の星空は見ることが出来ないのであわててチェックしました。
時間の設定は現代の現地時間。サマータイムは無視しています。生まれた場所は細かく選べないので各国とも首都です。

フェルゼン 1755/9/4 生まれ
観測地:スウェーデン ストックホルム 緯度59度N 経度18度E
日の出 4:50頃 東北東から太陽が上がります。
日没 18:45頃 西北西に太陽が沈みます。
北欧は、原作の本編にも出ていましたが、白夜もある北の国。日の出や日没は日本とはかなり違うのでしょう。

この日、太陽は獅子座にあり、すぐ西に水星と金星があります。
月はほぼ新月に近く、太陽の少し前に沈むので夜間は見ることが出来ません。強いて言うなら夜明け前に消えていくモーニングムーンという所でしょうか?

フェルゼンは乙女座ですが、この日の乙女座には木星が入っています。乙女座はほぼ太陽の東、黄道(太陽の通る道)上の太陽のすぐ後ろに位置するので、夜間は観測できません。

星占いではないですが、フェルゼン(乙女座)は太陽を追いかけつつ結局は追いつけない。
彼自身は太陽の輝きにうち消され、愛する人を導けず、どうしても影の存在になってしまう。そしてやがては太陽を追ってひっそり沈んでいく乙女座こそ彼を物語っているのかも知れません(なーんちゃって?!)。

では夜9時の夜空を見上げてみましょう。南を向いて立ちます。
すると南東に秋の四辺形で有名なペガスス座、その少し上で東(ほぼ南)には白鳥座とそのしっぽにあたる星のデネブを含む夏の大三角があがってきています。晴れていれば銀河が美しかった事でしょう。
同じ日に日本の大阪では、この白鳥座はほぼ天頂にあります。これは緯度の違いで、北極星の高さが違うのと同じ事です。

フェルゼンは個人的には良いヤツ!という印象があるのですが、なぜか不運というか、その行動が裏目に出たりしているせいか、あんなにさわやか系のヒーローなのに、どことなく煮え切らないふうに感じてしまいます。
(ああ、フェルゼンファンの方、もしご覧になっていたら、すんません・・・)
運命に翻弄されて煮え切ることが出来なかった男性と言う気もしていますが、アントワネットを失った後、この人の心の内はいかほどだったのだろう?などと考えてしまいます。

愛する女性がギロチンで処刑される!という想像を絶するような残酷な運命を彼が背負ったと思うと、ついアニメ版のアランがつぶやいたオスカルとアンドレの「その後の革命の醜さを知らずに死んだのは幸せ」という皮肉な言葉がオーバーラップし、生きることの難しさを物語っているように思います。

出崎さんの作品には「登場人物一人一人にそれぞれの人生がある」というコンセプトを感じるのですが、ベルばらは登場人物がそれぞれの人生を持っていて、影のドラマもいっぱい成り立ちそうです。
何度も言ってますが、ベルばらは人物同士の相互関係や生い立ちなど、ちゃんと原作で基礎が出来ていたんですね。