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ここは「ベルばらな日記」のページです。


ベルばらな日記の過去ログです。


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2004年12月12日(日)
「雪の夜ばなし」  ..No.41
ベルばらな日記41

そろそろ冬なのでこんな話。
アニメ版ブラックジャックのエピソード「雪の夜ばなし」。
以前、掲示板でも話題になったことがあるけれど、だんだん寒くなってくるとつい思い出してしまうエピソード。

原作にも同じサブタイトルがあるのだが内容は出崎統監督による全くのオリジナル編。
絵柄も原作と違いリアルな劇画タッチで……となると根っからのBJファンの評価はどうなのか?ということは知らない。
私はベルばら同様、原作とは別物という見方で楽しんでいる。ちなみに声を当てておられる大塚明夫さんのお声がこれまた渋い。

注)※以下の話はちょこっとだけネタバレなので見たくない方はこれ以上進まないで下さい。




正しくは「雪の夜ばなし、恋姫 」というこのオリジナル版、出崎さんが見せてくれました。蛍のシーンです。
美しく幼い姫が家臣の種田を驚かそうとホタルでちょっとしたイタズラをするくだりは私としてはベルばら…?と、一瞬、心がおどってしまった。

背景は辺り一面のホタルの乱舞。
決して性的な場面ではないものの、姫の女としての性がにじみ出ている!と思ったのは私だけだろうか。

過去と現在の時間が交差する不思議物語ながらテーマとして貫かれているのは、身分の違いに翻弄されながら互いに絆をしっかりとたぐり寄せていく男と女のお話…と言ったところ。

まぁ、身分違いの悲恋という点ではベルばらが入ってる〜!と言えるのかも知れないけれど、相手方の男性は無骨なオジサンなので彼にアンドレをダブらせるのは無理というもの。

ただこの無骨男、めちゃくちゃいい人で、とても誠意があり愛する女性への深い思いやりが何とも泣ける。
それも生まれかわっても同じ女性のために生きているなんて、相手の女性からすれば幸せなんじゃないかなぁ。もちろん相手にもその気があったら、の場合だけれど。

深夜にコレを見たせいか、もう最後は種田の「静かな愛」に号泣モノ。
男性は女性を、特に肉体をガツガツと求めるだけじゃなくて、時にはそばにいてただ静かに見守り続ける事もある。
このあたりはアニメ版のアンドレ…というのか、種田の姫に対する精神的な愛の深さが、どことなくアンドレと同じものなのかなぁ…なんて事をしみじみ思ってしまった。

アニメ版ベルばらでは特に後半、アンドレの「ものすごく静かな愛」がどのようなものなのかをふと考えた時、ちょっとしたヒントがこういう別作品の別キャラの中に突然見つかると言うこともありえる。特にこの場合そもそも同じ出崎監督だし、つながっているものはあると思う。

私ならきっと種田の想いを一度だけでも通じさせてあげたい!と考えてしまうけれど、純粋な愛を描くためには「そういう行為」は二の次なのかも知れない。
女って欲深いもので、こうも精神的なものだけで結末を迎えるお話は進んで書きたくないだろうし、そういう点で、欲望ではなく純粋でひたむきな愛を描くのは男性向きの題材なのかしら…などと独りでつぶやいてみる。
もしそれを男のロマンというのなら、ロマンとは何てキビシ〜〜!


もっと正確に感想を書くためにもう一度ビデオを見直したいのだけれど、あまりの悲しさにちょっと手が出ない。上記もかなりいい加減な記憶で書いているので、内容を正しく知りたい方や興味のある方はよければ一度ご覧下さい(内容が全然違っていたりして…大汗)。

それにしても出崎さん、このたぐいのやりきれない悲恋がお得意なのですか?
マジでやりきれないですけど私。

ちなみに時代劇でアンドレが入っている!と複数の方からメールをいただいたのは、クレヨンしんちゃんの劇場版「嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」に出てきた「井尻又兵衛」という人物。こちらも泣けるらしい。
私はまだ未見なので機会が有れば見てみたい。


で、冒頭でそろそろ冬なので……と書いたものの、今年は暖冬でなかなか冷え込みが来ない。「雪の夜ばなし」をしみじみと語るにはちょっと当てが外れた感もしている。

2005年1月9日(日)
ハマるツボ  ..No.42
ベルばらな日記42 


サイトでアニメ版の解説をしているためか、ありがたいことに時々メールで感想を頂くことがある。
作品には色々な見方があるのですね…という肯定的なご意見が多いのだが(嬉シ涙)、中にはアニメ版のオスカルに共感していますというご意見も珍しくない。

ベルばらファンとひとことで言っても、その中で原作ファン・宝塚ファン等々どんどん枝分かれし、なかなかファンをひとつにくくることは出来ない。
ましてアニメ版が好きというファンの中でも、当然「好き」な部分にはブレがあるに違いない。
全40話の中でどの回が一番好きか?と聞いても、多分色々あるだろうと思う。

たとえば革命後に二人が生きていたとする。
誰かが、オスカルはやがてアンドレと家庭を持ち、子供に囲まれてごく普通の女性として過ごしたと想像するかと思えば、別の人は、彼女はアンドレと共同で、革命の陰で何か歴史に影響を及ぼすような仕事に一生をついやしたと想像するだろう。

推測の域を出ないが…人によってオスカルの生き方は違うと思っている(それを言いはじめると、原作でもそうかも知れないけれど)。

その、人によって解釈が違うこともまた楽しいのだが、多少の違いはあっても基本的に彼女の存在そのものに「共感」が得られるのは嬉しい。
それもメールを拝見していると、色々な立場の方がおられるにもかかわらず、大筋でオスカルというキャラにハマるツボが何となく似ているような気がするのだ。

私がそんなに立派な文章を書いているわけではないし、どうして共感が得られるのか不思議な気がするのだが、多分それはそもそもアニメ版のオスカルが、ハマる人にとっては「共感しやすい存在」なのだからだと思っている。

オスカルのみにスポットが当たらず、その時代の中に生きる一人の人間であったこと、特別な存在ではなかったことで、原作とは違う意味で彼女が内面に色々な感情を持つ「人間」だったのだと実感できる。

それと彼女の語られない沈黙が何なのか、自分の感情に置き換えてみることも出来る。
だが、又、別の見方も後から後から新しく湧いて出てくる。これではきりがない。
全く……、罪な「沈黙」だ。


追いかければオスカルはどんどん遠くへ逃げていく。
立ち止まるとそばにいるような気がする。
そんな女性なのである(と、解説を書いているときはよく思った)。

特に「アニメのオスカルに共感した」という話が多いのはこの「語られなかったオスカルの側面」のおかげだと今も考えている。


補足:やたら「原作」「原作とは違う意味」と書いていますが、特に比較の意味ではありません。
原作とは違う部分が「良かった」と書いてしまうと、即そのまんま「原作否定」をしているようなニュアンスで受け取られる可能性があったからです。もちろん、そういう意味はなく、原作とは別物としてアニメをとらえ、語っている日記文です。念のため。

2005年1月10日(月)
ハマるツボ 2  ..No.43
ベルばらな日記43 

私がアニメ版を見てべるばらに再燃してしまったのは、ちょうどオスカルが衛兵隊に行った頃と同じぐらいの年頃だった。

もっとも、若い方からも「アニメ版は良い作品だった」とメールを頂くのだが、10代でちゃんと作品に感動できる感性を身につけているという、それ自体に私は感動してしまう。
それに比べ、自分の10代の頃のアンチアニメぶりを思い出すと苦笑モノだ。

20台後半それから30歳過ぎというと、そろそろ色んな場面で自己責任を求められるお年頃である。
そりゃあ、20歳を過ぎたら当然成人なので自分に責任はかかってくるのだが、特に30歳という区切りは今までの自分を振り返り、今後をあれこれと考えてしまう「揺れる年代」でもある。

こういうことは個人差もあるが、私にとっては、このままでいいのだろうか?これからどうしよう?という迷いがあっても、表面上は落ち着いた大人の仮面をつけていなければ「年甲斐もない」と言われてしまうので、どこかつっぱっている難しい年頃だったのである。

その難しい年頃の心の揺れやツッパリが、まるでキャラクターを鳥瞰図で見たようなアニメ版のベルばらにはあった。
成人してから10年間、それなりの世の中を一通り見てきた成熟度とまだ青さの抜けきれない若さ、そしてひたむきさ、あるいは恋愛への戸惑い。どれにも共感できた。

また鳥瞰的だからこそ色々な立場の30才前後の女性、もしくは年代に関係なく揺れる年頃の人(もしくは揺れる心を感じ取る人)を引きつけたのではないかと思う。

ただ、「責任感」や「自立心」というものは20歳になって勝手に身に付くものではないし、子供の頃から身につけている人もあり、個人差がある。まして作品を好きになる年齢に制限はない。

しかし、もし10代や20代の早いうちににアニメ版のベルばらにハマった人たちには、たとえマイ・ブームが一度通り過ぎてしまっても、30歳を過ぎたあたりでもう一度見ていただきたい作品である。
そこで今までとは何か違う見方が出来ると思うのだ。
(これは当然、原作についても言えるが。)

あの寡黙で自分のことを語らないアニメ版のオスカルに共感というのも不思議だが、大人になって再放送を見終えたときの衝撃は、どうにも言葉にできなかった。
さらに、こんな理不尽な生き方があるのだろうかというほどの「壮絶さ」に呆然としたこと、そして、自分がこんなことで呆然としてしまったこと自体に衝撃を受けた。

肝心なのは、なぜか彼女の生き様が他人事には思えず、「私にはオスカルの事がよく解るよ〜〜!」という「体験を共用したような」感覚だったのだ。
いや、むしろ、オスカルのことを理解できない人がいるのなら私が何とかして彼女は「良い人」なのだと説得しなければ!という妙な使命感まであった(我ながらはっきり言ってビョーキですね)。


共感したことを探るときりがないが、前項の「語られない部分」が気になり、視聴者がオスカルが何を考えていたのかを探るうちに、のめりこむように彼女にハマってしまうこと。

と言うのはもちろん、それと、やはり制作者には色々と思惑があり、作中でしっかり視覚的に語られていたオスカルの心情というものが共感を呼んだということは押さえるべき大切なツボである。

2005年1月13日(木)
久々に四方山話  ..No.44
ベルばらな日記44

日常からそんなに熱く燃えている訳ではないけれど、それなりにベルばらファンをしていると、何かと「おフランス関連」の情報には敏感になっている。

一昨日は家人がメガネの○キへ行くと言うので、のこのこと付いていった。
カウンターの席でしばらく待たされていたのだが、目の前のショーケースの中に何やら貴婦人の肖像をかたどった銅貨の形をした文鎮が飾られている。

正確には文鎮と共に飾ってある18金枠の高級メガネの方がメインなのだが、こちらとしてはその貴婦人が誰なのか気になってくる。
お店の人に「高いメガネでしょう?」と言われ、「はぁ」と生返事をしつつ文鎮の文字を読んでいると、何とマリーアントン(アルファベット)と書いてある。
おお、ひょんな所でアントワネットみっけ〜!などと喜んだものである。
が、欲しい・・などとはとても店の人には言えなかった。

昨日はカーレースのゲームの中で、パリのオペラ座コースを選択して走ってみる。
ここをオスカルが馬で・・・などと言っている暇はない。
うかうかすると壁に激突してしまう。スピードものに情緒を求めてはいけないということか。

先日は「アンドレワインの販売をしました」と、久しぶりの人から近況を聞かせてもらった。
ついつい「アンドレが売れていく・・・ドナドナ〜」と妄想してしまいそうだった。

冬の星座ではこの時期、双子座が夕方から東の空に上って来ている。

だがよく見るとカストルとポルックスの横に何か明るい星が並んでいる。
最初は北斗七星のひしゃくの柄と間違えたほどで、それにしては位置が違うし、何の星座かわからなかったので後で調べたら、双子座に土星が接近しているだけだった。

どうせ土星はじきに離れて行くだろうが、並んでいるとまるで双子座に横恋慕しているようでちょっとおかしい(いや、おかしいのはこんな事を考えている私だが)。
あれはひょっとしてジェローデル氏かな?などと想像してみる。
おっとジェローデルファンの方に叱られそうだ。

いずれにしてもすぐに「ベルばら」と関連づけてしまうあたり、うっかりこんなことを他人様の前では言えないので、仕方なく日記に書いている。

2005年1月29日(土)
生きててよかった  ..No.45
ベルばらな日記45


オスカルのセリフとちょっと違うんじゃない?と一瞬、思われたかも知れない。
言わずと知れた理代子先生の古い短編のタイトルで、かなり有名ではないかと思う。

さきほど理代子先生の掲示板を見に行ったたところ、このお話を描かれたきっかけを発言されていて、ああそうだったのかと今更ながらうなずいてしまった。

当時の新聞に継母による虐待の記事が載り、それを読んだ理代子先生が「父親は何をやっていたんだ」と怒りを感じて一気に描き上げられたのだそうだ。


その昔はなかなか次々と新しいマンガが手にはいるわけでもなく、友人と回し読みをしたり貸本屋で借りたりしていたが、たまたま購入して手元に置いたマンガなどはすり切れるまで読んだものだった。

「生きててよかった」などはマジで何度も読んだ。子供ながら色々な方向から読みこなそうとしていたのだろう。
やはり何度も読めるだけの内容を持っていたのではないかと思う。

誰かこの少年を助けてあげられないものかと思ったり、または傍観者として淡々と話の筋を追いかけたり、義理の母親や父親に怒りを感じたり、果てはいざという時の質屋の利用法まで、色々と考えたり吸収したりした。

今から思えば、鬼のような顔をした継母の気持ちもよくわかる。
父親は立派な身なりをし、優しくとてもおだやかそうなのだが、実は彼が一番責任が重いという「見かけとのギャップ」を不思議に思いつつ怒りを感じたものだ。

このお話はたいていの同級生は知っており、ずいぶん後になってからも「そーそー、親の形見のカメラを質屋に預けてロールケーキ食べてたなー」などと懐かし話に花を咲かせたりした。

ストーリーテラーとしての理代子先生の物語構成のわかりやすさとインパクトもすごいが、感じた「怒り」をこれほど印象深い作品にして作り出すクリエーター魂に感動する。

怒りの感情を処理するために、誰かの悪口を言ったり悪意の行動で誰かを傷つけたりすることを思えば、マイナスのエネルギーをプラスに転換するというのはものすごく前向きで、案外と実行するのは難しい。

「生きててよかった」というテーマそのものがタイトルになったようなお話に、人間を見つめる作家のスタンスをかいま見る思いだ。
内容はベルばらとは全然違うが、その根底にあるものは同じなのだろうと思う。

漫画の表現力とそれを作り出す漫画家、あるいはアニメーターという仕事にあらためて感動している。

2005年2月16日(水)
ベルばら年鑑  ..No.46
ベルばらな日記46 

ベルサイユのばらにハマった頃に何かせずにはいられなくなり、ベルばら年鑑なるものを作っていた。簡単な年表と出来事をまとめただけのものだが、それを史実と見比べてみたり、オスカルの生きた軌跡をたどったりした。

それが最近、ポロリと押し入れから出てきたので、良い機会だと思い、時間があるときに主要キャラ4人とジャンヌとロザリーなども含めて、年代ごとに全員の行動を表にして並べてみた。

作ってみると一時間ほどの作業だが、案外とりかかるまでが面倒くさい。
HPビルダーで作ろうか、エクセルで作ろうかと迷いつつエクセルにしてしまう。
後でサイトにアップするならビルダーの方が簡単かと思いついたが後のまつり。

さて、できあがってみるとアントワネットとフェルゼン、ジャンヌはさすがに実在の人物だけあってイベントが豊富なのがすぐにわかる。

肝心のオスカルはどうかと言えば、アントワネットの行動をそばで観察したり少しかかわったりはしているが、なかなか歴史の中核には踏み込めずにいる。
アンドレに至っては、原作では最初はあまり目立っていないので出遅れたのは仕方ないが、最初はほとんどメインのイベントがない。

どうやらノンフィクション部門はアントワネットとフェルゼンの持ち場、反対にフィクション部門はオスカルとアンドレの持ち場という感じになっている。

たとえばこの二人のメインエピソード、アラスへ行く、ド・ゲメネとケンカする、刺客に刺される、アントワネットの乗った馬が暴走する、偽黒い騎士になる、片眼を負傷する、ドレスを着る、などというのは歴史にほぼ関係ない。

黒い騎士は捕まえながらも最終的には逃がしているし、アントワネットへの忠告も効き目はない。
オスカルは歴史の表舞台で華々しく活躍しているような気もしていたが、そうでもないらしく、年表を手にしてどことなく寂しく思う。

だが、なぜかオスカルはとても活躍したように感じるのはなぜだろう。

それはやはりオスカルがアントワネットと表裏一体で描かれていたからだと思われる。
アントワネットの動きを見つめるオスカルの思いが、こちら側にいる読者と重なり、臨場感をうんでいる。
それと、架空の人物であるオスカルのイベントに、恋ありはらはらドキドキありと、華があったこと。
それから彼女が積極的に歴史の表舞台に立つのが、物語の一番盛り上がるバスティーユ攻撃のその瞬間だったことも大きい。

オスカルが物語の大盛り上がりのバスティーユ攻撃で主役を張る!
このことが当初からの原作者の狙いであったことは語るまでもないが、ここへ至るまでのアントワネットとオスカルとの絡み、オスカル自身の気持ちの動きも、エピソードを積み重ねられたことにより重みが出ている。

ただ、原作とアニメではアントワネットとの分かれ道になる衛兵隊への移動は、少しニュアンスが違う。
どちらにもそれぞれの理由があったのだろうが、このサイトの傾向からしてアニメ版の事だけ語ることにする。

自分らしい生き方を探して衛兵隊に転属していったオスカルの気持ちは、いつしか民衆という弱い立場の人々を守ろうという決意へと傾いていく。

王室の指示した軍隊のパリ進行により、二人が袂を分かつ、アニメのオスカルとアントワネットの別れの場面は物語のけじめとしてかなり重きを置いてある。

最後のバスティーユでのクライマックスのためにあの夕日の別れの場面が設定されたのは間違いないが、抜け目なくこういうオリジナルシーンを盛り込むあたり、さすが気合いが入っている!と感じ入っている。

2005年2月19日(土)
そうかなるほど  ..No.47

ベルばらな日記47

前回の日記を書いてから色々と思うところがあって、…というかオスカルの活躍の云々について書いたわりには、結局詰めが甘いということも感じていた。

どうせ思ったことを書く日記なので結論とか論法なんて小難しいものにこだわるつもりもないが、考えているウチに、確かアニメでは「オスカルがはじめから主役として描かれていたこと」について書いていなかったと気が付いた。

アニメは第一話からしてオリジナルな部分が多かったし、第二話も偽アントワネット事件が起きてオスカルが大活躍している。

その後のラブレター事件もそうだし、助さん角さんのようなアンドレとジェローデルを巻き込んでの大アクションは、アニメスタッフによる「オスカルを主役にしたイベント作り」だったことにあらためて気が付く。


最初はどうしても後半と比べてしまい、史実の重みとはかけ離れたイベントだなぁなどと思って軽く見ていたが、ラストのむなしさを思えば前半のアクション活劇はかえって気楽に見ることが出来る。

ただ、偽王妃事件、偽妊娠事件などのアントワネットを利用したオリジナルエピソードは、かえってフィクション性があらわになる。
どちらかというとアントワネットとはほぼ関係のないロザリーとポリニャック夫人のような仇討ち話のほうが割り切って楽しめるだろう。


ベルサイユのばらのばらというと、歴史にあった事をベースに繰り広げられているだけあって、重厚なイメージを持つ方も多いと思う。

それには架空の人物・オスカル一人では物語は成り立たず、たとえ彼女が活躍したとしても、バスティーユ攻撃までのイベントではオスカルのせいで史実を曲げるわけにはいかず、動きも控えめで、彼女がメインのエピソードもフィクションの域を出ない。
たとえそのエピソードが優れていても、史実に沿った話の大きな流れはアントワネットが握っているのだから。

それを思うとアントワネットの存在は、オスカルの美しさに目を奪われていた視聴者を、史実という現実に引き戻してくれる道しるべのような役割も持っていると言えよう。

前半でも後半でも、オスカルがメインのエピソードはいくつかある。
どのようにオスカルをメインにエピソードを作り上げるかという苦労を想像しつつ、それらの演出の違いをそれぞれ味わってみるのも面白いだろう。

2005年4月9日(土)
あしたのジョーのようなベルばら  ..No.48
ベルばらな日記48 

少し前のネタなので全然タイムリーではないのだが、書いたネタをこのまま眠らせるのも惜しいので、引き出しの奥からゴソゴソと出す感じでアップしてみた。

一時、アニメ版のベルサイユのばらは「あしたのジョーのようなベルばら」と呼ばれていた。今もこの表現があるかどうかという事まではよく知らない。
何せ、「あしたのジョー」は国民的に超超有名な作品である(もちろんベルばら原作も有名だが)。
又、有名というだけではなく、素人の私から見ても、ベルばらより監督の個性が色濃いと思っている。そのせいか何となくジョーの方が先にオンエアされたと言う感じすらする。

だからといってアニメ版ベルばらが手抜きとは思っていないが、ジョーは出崎監督の代表作なのかも?と思わせるあたり、やはりアニメ版ベルばらが「あしたのジョーのようなベルばら」と言われる由縁かも知れない。

実はベルばらの方が先なんですよと言うと、たいていの人はそうだったのか!と納得していただけた。

両方とも俗に言う「出崎作品」なので、そりゃあ似ていてもおかしくないのだが、自分としてはシャツの前後ろを逆に着てしまった時のように、この表現を聞いたときはどこかしっくりこないなぁと思った。


言葉の受け取り方は人によって微妙に違う。
「共感するorしない・違和感を感じるor感じない・どちらでもない」等々、色々な受け取り方があるが、何が正しいのか白黒つける!などと堅苦しい事をここで書くつもりではないことを最初にお断りしておく。

つまり発言した方に対してもの申すという物騒な事ではなく、私自身が感じた事を分析してみようと思っただけなのだ。


**********


単に作成年代順に言うなら「ベルばらのようなあしたのジョー」になるのだが、この表現もまたしっくりこない。どちらかというと、しっくり来ないと言うよりは矢吹ジョー氏に失礼な気がして仕方がない。

もし出崎作品の制作順でベルばらを「〜のような」と例えるならベルばらより少し前の「家なき子」や「宝島」が当てはまる。しかしそういうたとえは私の知っている限りでは聞いたことがない。

ただ、逆を言ってみたりあれこれ当てはめることで「しっくりこない原因」に気が付くこともある。
それとちょっと別の方向にも考えを伸ばしてみて、「ベルばらのよう」だと例えられている作品も取り上げてみよう。


ベルばらファンの間では時々話題に出てくる※「菊千代抄」という小説があるが、この小説はベルばらよりかなり前に書かれた作品である。
だが作品の完成時期の前後に関係なく、ベルばらファンは「ベルばらのようだ」「ベルばらが入っている」とは言っても、「菊千代抄のようなベルばら」「ベルばらには菊千代抄が入っている」とは言わない。

当たり前のようだが、ファンなら作品が書かれた年代の前後にかかわらず、自分の好きなものを主体に考えるからだ。

「あしたのジョー」ファンの間での話なら、ジョーが主体なので「あしたのジョーのようなベルばら」という表現があっても不思議ではないが、私が何となくしっくりこなかったのはこれがベルばらファンの間での話だったからなのである。

「あしたのジョーのようなベルばら」という表現は、ベルばらを指しながら実はベルばらが主体ではない。

ここでベルばらファンに向かって、この表現をやめて欲しいとは全く思わないが、この表現によって、実はベルばらファンの間でアニメ版のベルばらが「主体」として語られていないという事がわかるのである。

とまぁ、だからと言って誰かにどうしろというものではない。
ベルばらファン共通の目的が「アニメ版をもっと主体的に見るべき」というものでもない。
それにベルばらを語る上でファン同士が相互理解のためにどのような表現を用いるかは個人の勝手である。


そもそも「あしたのジョーのようなべるばら」という表現は、そこまで特に意味深なものではなく、単に語呂が良いから生まれた言葉だろうし、それがイイ感じ聞こえたら誰でも軽い気持ちで使うものだろう。

ただ、誰でもよほど慎重でない限り言葉の端々には、無意識に「出すつもりもない本心」がうっかり出てくる。
もし「あしたのジョーのようなベルばら」と気軽に言えるなら、それは「アニメ版のベルばら」にさほど思い入れがないのだと私は分析している(我ながらおおげさな!!^^;)。

以前、誰でも彼でも「ベルばらファン」をひとくくりにしてしまうのはどんなモンかと書いた。
原作オンリーの方もいらっしゃるし、私は私で特にアニメ版を中心にしてベルばらを語っている。

「ベルばらとは原作を指す」という考え方も有るので、原作から派生したアニメ版を重く受け取るか、軽く流すかはそれぞれ個人の自由である。
アニメ版に主体を置きたくない人がいてもおかしくないだろう。

私はごらんのとおり、アニメ版にこだわっている。
まっ、こだわりが無ければそもそもこんなオタクなサイトをオープンしてはいなかったのだけれど(大苦笑)。

それにアニメ版のベルばらに対するこだわりがなく、一娯楽作品として気楽に見るのなら、あしたのジョーにたとえようが他の何にたとえようがそんな些細なことはどうでもいいことなのだ。作品を楽しめればそれが一番良い。


まぁ、個人的な感情で言うと、ベルばらファンの間で今も「あしたのジョーのようなベルばら」という例えがあるとしたら、まだまだアニメ版は認められていないんだなぁとちょっとばかり寂しく思う。

※注釈 菊千代抄・・・作者:山本周五郎 氏 
     作品発表年:昭和25年

2005年4月9日(土)
あしたのジョーのようなベルばら ちょこっとデータ  ..No.49

ベルばらな日記49

せっかくの機会なので「あしたのジョーのようなべるばら」と言われる「あしたのジョー」はどの作品をさすのか、データを整理してみた。

制作時期がほぼ同時であるので絵柄が近いことは当然だろう。参加スタッフにどれだけ違いがあるのか知らないのだがよく似ている。
この話はすでに過去の掲示板でも二度ばかりこの話題が出た。その都度、単なる話題程度で流してしまったので、ここでもう一度おさらいをする。

ベルサイユのばら 放送時期 昭和54.10.〜昭和55.9.
あしたのジョー2 放送時期 昭和55.10.〜昭和56.8.
共に制作会社は東京ムービー新社(当時)。

オンエアまでの準備期間はどうだったのか内部事情は知らないが、こう見るとほとんど同じ時期である。ベルばらが終わると同時にあしたのジョー2が始まっている。

ただし、あしたのジョーはその前に「1」に当たるものが虫プロ作品として昭和45年4月〜昭和46年9月にオンエアされている。
こちらは出崎監督はもちろん、作画監督がベルばらと同じく荒木氏なので、同コンビから言うと、この旧作こそ本当に「あしたのジョーのようなべるばら」と言うところの「あしたのジョー」である。
(参考データ:ケイブンシャ出版 アニメ大百科87年度版)

だが、この旧作の「あしたのジョー」は制作年度がベルばらより8年ほど古く、ベルばらと比較しても作風が違う。絵の類似性から言うと「あしたのジョーのようなベルばら」と呼ばれているのは「あしたのジョー2」のことである。

ベルばらについては出崎監督は第19話「さよなら、妹よ!」からの演出である(個人的には第8話の「我が心のオスカル」も密かに絵コンテされていたのではないかと勝手に思っている)。

実はベルばらが途中から突然、作風が変わったときは「やった!」と思った。
絵の雰囲気が急に重くなって作品に厚みが出たのだ。
そう言えばそれまでも今も、出崎さんの研究者ではないが、あの重くて濃い作品を見るとき、正座して拝見せねば!というほど気合いが入るのである。
とにかく、登場人物みんながそれぞれの人生を背負っているので話の内容が濃い。


そんな出崎監督の「濃い〜!」作風が苦手なわけではないが、ベルばらの場合は元々が少女漫画というせいなのか、少し出崎色がフェミニンな感じに中和されているように感じている。
主役(オスカル)の内面がドロドロしておらず、比較的あっさり系の女性だったからなのかも知れない。

2005年5月2日(月)
もしも今なら  ..No.50
ベルばらな日記50

もしベルばらがリメイクされて、もう一度出崎監督の手によって作品化されるとなるとどんな作風になるのだろうか。

歴史上の実在人物の誰を取り上げてみても様々な人生があり、どれも「素材」としてはおいしいキャラクターばかりである。

渡る世間は鬼ばかりの中をすばしこく生き残り栄光を手にした人物や、あと一歩と言うところで目的を達成できなかった人物など、色々な人物がからまりながら歴史が綴られていくのは「現実」であっただけにテーマが重い。

政治の頂点に駆け上がったロベスピエールの人生やその顛末など、たとえば彼の家族や恋人などを交えて描くとどんなものになるのだろうとも思う。

確かDVDの解説に、あまりアントワネットが好きになれなかったという出崎監督のコメントがあったが、今ならどうだろう。
政治の道具として嫁いできて、周囲に敵も味方も混在するなかで、王妃の役を演じた彼女がどのような女性に描かれるのだろうと考えると結構楽しい。

あるいは退廃的なムード漂うオルレアン公とオスカルが意外なところで「同じ考え」を持ち、三部会の中でしばし味方になったりして、人間関係が交錯するというのも面白そうだ。

前に「ベルばらは少女漫画なので出崎色がフェミニンな感じに中和されているのかも」と書いたが、実のところ心理描写が繊細な少女漫画こそ出崎氏のこってりした描写が生きてくるとも感じている。

と言うと、まるでベルばら原作には心理描写が無かったと言いたいのか?という声が聞こえてきそうだが、そう言う批判的な意味ではない。

たとえばオスカルの内面を描こうとすれば、フェルゼンに横恋慕している彼女がアントワネットに対してドロドロした感情を抱いたとしてもおかしくない。
こういう感情を原作ではうまく隠してあったのだと思う。

逢い引きするフェルゼンとアントワネットをこっそり木陰から無表情で見つめるオスカルの図を想像すると、ちょっとばかしコワイ。
だけど人間である限り、何かにつまずけばどす暗い感情も出てくるはずで、決してオスカルらしい「潔さ」とは言えぬものもリメイクされれば描かれるかも知れない。

そうなると作品が「ベルばららしいか」というと疑問になってくるが、人間ドラマの中でオスカルのドロドロした感情を描かないとすれば、彼女自身に求められるのは、他人を責めたり恨んだりする感情ではなく、つまずきの原因を自分に向けて追求する内向的な性格なのかも?とも思う。

特に自分の中に浮かんでくる負の感情を外に出してしまうと、嫉妬や陰謀に変化する。
又は、それらの負の感情が原動力になって良い面に向くとすれば、たぎるような情熱で何かの目的にばく進する事だろう。

オスカルの場合はそれも難しい。
彼女ががんじがらめの環境の中でついに理性を捨て、どす暗い感情に支配される姿は見るに忍びないし、かと言って何かの目標にひた走るのもいいけれど、身分差の苦労を知らない貴族の彼女が、ただひたすら「崇高な理念」を掲げて平民を先導するというのも、やはり現実を考えると、人の気持ちはそんなに単純ではないと思える。

殊にオスカルのキャラクター設定はベルばらの心臓部と言える(と、オスカルファンの私は思っている)。

オスカルをより人間味あふれるキャラクターに仕上げるためには、原作にオリジナルな場面をプラスする必要がある。
すっかりオトナになったベルばらファンを惹きつけるには、オスカルが革命についてどう思ったか、アントワネットを裏切ったことについてどう感じたか、人の心のひだを描くためにはより深い心理描写が要る。

だが反面、プラスしたものによってオスカルらしさが増幅するか半減するかは、受け取る側の感性で違ってくる。

彼女のアンドレに向けた恋心などは、とにかく二人が初めて心を通わせ無言で抱き合うだけで見る側には胸キュンな感情が伝わってくるが、基本的な性格設定の段階で彼女をどんなキャラクターにするのかについては好みの問題があり、オスカルをどう描くかによって視聴者全てを満足させられるとは思えない。

特に出来た作品を見る側はただ受け取るだけなので、ツボにはまる(気に入る)かドツボを踏む(サイテ〜)かというのはふたを開けてみないとわからない。
下手にイメージが違うとファンは期待しただけ裏切られて、力を入れた分だけへとへとに疲れてしまう。
なのでいっそのこと、ベルばらのどこもいじらずに「そっくりそのまま原作通りに描いてくれ〜!」というファンの意見は疲労防止のためなんじゃないか?などと思う。

で、結局どうなのかと言うと、堂々めぐりで結論が出ない。
わかっているようでつかみきれないオスカルという女性をどう描くか?などというのは永遠の課題でもある。

これは又気が向いたときに「もしもシリーズ」として、又書いてみようかな。